ミハシラ=アーカイブス (7)
「モーゼは埃及に四十年間生き、神に選ばれる前の四十年間を荒れ野で過ごした。モーゼはさらにシナイの山での四十日四十夜に及ぶ断食の後に、神託を得た。エリヤは四十日間を鳥に養われ、イエスもまた同じ道を歩んだ。かくに四十年の瞑想あるいは眠りは、澱み無く世を捉える澄んだ眼を育むには、長すぎず短すぎずの丁度良い期間だったのかもしれない。ただ一つ――普通の人間として生き続けるには、あまりに果てしない期間だという点を除いて」
――『回想録』廻書房刊
* * *
老人の姿が、まるで水面に映るように、ゆらゆらとスクリーン上に浮かび上がった。
口許にはそれでも湿った唾の跡がしっかりと、眼には耄碌の魔の手が忍び寄りつつあるのが見て取れた。そしてその造形――鼻の下の長い、首をにゅうっと伸ばしたスッポンのような顔は、昼間囲んだ大須邦明氏――オンボロアパートの一室でカッサカサに干乾びていた安らかな死に顔と、寸分違わぬものだった。
しかし今、環と寅吉の前にある大須邦明氏の表情は、少々趣が違う。澱んで白濁した眼の奥に煌く獣染みた光は、こうした観察に疎い寅吉の眼にも判るほどハッキリとしていて、精も魂も振り絞る勢いでこちらを見ている。そしてこれが大須邦明氏の意識を介した謂わば二重の鏡像であることから、寅吉はどこかフォーカスかピントが合っていないか余分にあるような、得も知れぬ感覚に眩暈した。
老人は意外にも、深みのある決然とした口調で語りかけた――誇張でも何でもなく、実際に記憶を覗き見る第三者に対して語りかけたのである。
「この動画を観ている者へ」
寅吉はビクリと身を竦めた。環は片方の眉だけを高く揚げていた。
神託は尚も続いた。
「これが他人の眼に触れているということは、恐らくもう私は――大須邦明はこの世の住人ではないと確信する。これは私の現世に於ける最後の未練であり、最期の頼みでもある。このビデオレターを観ているのがどこのだれか、私には知る由もないが、もしこれも何かの縁と感じ入るところが少しでもあるのなら、寂しく死んでいった哀れな老人の頼みを一つ、どうか弔い代わりにを聞いてやってほしい」
「ど、どうします?」
大きな図体に似合わず、寅吉が怖々と問う。
環は嘲りも露わに、盛大に紫煙を鼻から吐いた。
「フン、馬鹿馬鹿しい。よく見なさい、隅っこにテレビの枠が映り込んでいるでしょ。これは直接私たちに語り掛けているんじゃない――ただ自分で撮ったビデオレターを見直しているだけのこと。私たちは単に記憶を盗み見ているってこと忘れないように」
「でも――」
不服そうな寅吉だったが、環の言う通り大須氏は構わずに言葉を継いだ。
「それは私がかつて結婚していた女性との間にできた一人娘のことだ。妻の名は大須佳世。娘は沙世だ。ただ私は沙世の顔を一度も見たことがない。彼女がまだ母親の胎の中にいる時分に、私は家族と疎遠になってしまった――一言でいうと、私は出て行った――ことになっている。世間的には、無責任な男が妻子を残して、余所に女でも作って蒸発した程度にしか思われていないだろう――いや妻もそう信じている筈で、それは言わずもがな娘もである。だからこそ、私はこの世への置き土産として、次の真実をひっそりと知らしめたいのである――『それは違う』と」
不意にカットが変わり、スクリーンは一面の黄土色に染まった。舗装されていない砂塗れの路地の絵に、遠くの同系色の砂原が見える。
微かに舞う砂埃だけが僅かな動きだと思われた次の瞬間、パンパンパンと乾いた破裂音が鳴り響き、カメラがガタリと揺れる。百八十度回転したその先には、裸足で逃げ惑う年の頃十か十一程度の娘――怯えた表情で藁をもすがるようにこちらへ走ってくる。そしてすぐその向こうの曲がり角から、目出し帽を被った大男――手には黒光りする得物を握り、こちらに気づくや否やくぐもった大声を上げる。
カメラの主は一言も発さずに少女の手を握ると走り出し、後ろ手に構えていたのか映像はまるで荒馬に乗せられたかのように上下に躍動する――
寅吉は予想外の演出に、驚きを禁じ得なかった。彼は環のほうを振り向き、口をまるで金魚のようにパクパクとさせた。
「なんなんですか、コレは」
「ちょっとは考えてから質問しなさいよ」
環はますます苛立った様子で、
「なにも目新しくない。第一次中東戦争からこちら一世紀余り、幾度となく世界は戦争したりテロしたりされたり報復したり仕返したりし続けてきて、その度に愛国運動やら反戦デモやらがテレビ新聞ネットを問わず騒がしてきたじゃない。風刺漫画のテロリストみたいなのが出てきてるのに、『なんなんですか』もヘッタクレも――メディア的観点から言えば、あまり新鮮味のない戦場レポートと言ったところでしょ」
「いや、それは何となく判りますがね。一体どうして大須さんがこんなものを――」
「流石にビデオの中で説明してるでしょ」
環は冷淡に言った。
「コマ送りで早回ししてみなさいな。被写体の娘には悪いけれど、ずっと見ていて面白いものじゃない」
言われるがままに動画の再生バーを弄ると、それから五、六シーンほど、時や場所は違えど似たり寄ったりの映像が、環と寅吉を黄色く照らした。
追う男、追われる女子供。
火花と、ほんのインクの染みのように垣間見える暴力の断片。
男達の吠え声と、悲鳴喚き声すすり泣きそして効果音染みた銃声の他は、時折カメラがカチャカチャと音を立てるばかりで、撮影者は一貫して不気味な沈黙を護っていた。
RPGのようだな、と寅吉は漠然と思った。
始まりも突然なら終わりもまた唐突で、虚ろな大須氏の顔面が再度巨大スクリーンいっぱいに映し出された時には、寅吉は軽く跳び上がってしまった。
環の冷たい視線が寅吉に向けられる中、大須邦明は構わず喋っていた。
「これが真実なのだ。私は政府の渡航禁止令を破ってはこうした映像を撮りに行く、謂わばモグリのジャーナリストだったのだ。報道魂に身を任せ、けれど非合法なことをやっていたから妻や娘の存在は明かせなかった。それ以前に自分の名前も一切出せず、例えばこの動画もネットの海にひっそりと放つ他になかった。私自身の名誉はどうでもいい。そんなもの、墓まで持って行けるはずもないのだから。でも娘――沙世にだけは、もう遅すぎるかもしれないし気にも留めないかもしれないが、自分の父親が愛人の許に走るよりは幾分マシなダメオヤジだったということを伝えてほしい。向こうは私の存在を知らないが、数年前に興信所を介して佳世と沙世のことを探った。沙世は結婚して二児の母となった。佳世は去年脳卒中を患い寝たきりらしい。沙世――大須沙世に、出来ればこの動画を――」
すると急に映像のモヤは濃くなり、たちまち認識不能になってしまった。
乳白色のスクリーンを睨みながら、寅吉が言った。
「寝ちまったのかな。でもどうやらこのビデオレターを何度も何度も見続けていたみたいですから、別のファイル開ければ終わりまでちゃんと入っているかもしれません」
「イヤいい――今日はもうお開き。帰っていいわよ」
そう言って不機嫌に立ち上がる環に、寅吉は慌てて二の句を継いだ。
「ちょっと待ってくださいよ。まだ記憶は五萬とあるのに。それに、仮にもこのビデオレターというか遺言書を盗み見ちまったんですから、ちゃんと娘さんに――」
「イヤいい」
環は繰り返した。
「ハッキリ言って興味失せた。あとは私が責任もって記憶をアーカイブ化するから、放っておいてくれればいい。それにね、娘ったってもう当に四十の坂は越しているし、そんなお節介は――」
「遺品整理も業務の内ですし、故人の意思も尊重するのが葬儀屋ってモンですよ」
寅吉は頑として譲らなかった。
「社長のことだから、ちゃんとその娘さんの居場所も調べ上げているんでしょ。請求書を送るとか息巻いていたくらいだし」
寅吉は普段は「優柔不断」だの「ウドの大木」だの「朴念仁」だのありとあらゆる暴言を環から浴びせかけられていたが、鋭さのない朴訥とした気質だからこその頑固さがあった。
環曰く、それは鈍器の性質で、だから驢馬のような石頭は手に負えない。
少しの間空中で視線を交わしたのち、ついに環が盛大な溜息を吐いた。
「平尾寅吉。あなたの〈平尾葬祭〉はもう〈ミハシラ葬祭〉《ウチ》の傘下です。代表取締役社長として、社員が顧客に不用意な接触を図ることは看過できません。でも私も独裁者じゃない。けっして合理的とは言えない遺族の心理、くだらない葬祭業界のしがらみ、世間一般の需要――世界を一繋ぎにする野望に於いてあなたには色々教わるところがあったのもまた事実――仕方ない、明日午後一番に連れて行ってあげる。監視付きっていう条件込みなら許可するわ」
環は針のように鋭いが、同時に折れやすくもある。
二人が手を組んで二年と少し。こういうことがある度に、式が定理通りの一辺倒でないこともまた世界の一面なのだと自分に言い聞かし、また一つ境地に近づいた気分でいた。