5.覆水盆に返らず、と言います。
王子が強制退出させられた後の謁見の間には、なんとも言えない微妙な空気だけが残った。そして、自然にさめざめと泣く子爵令嬢に視線が集まってゆく。
「…ルー、ック。ルーク…、わた、し…」
涙を空色の瞳に溜め打ち震える様は同情を誘う。持て余した子爵令嬢をどうするのか、密やかな視線が交わされているようだ。
そこへ近づくのは、やはりシルヴィア様だった。
「カルロ子爵令嬢」
王子の愛妾である子爵令嬢に、正式な婚約者であるシルヴィア様が近寄るのはかなり人目をひく。さらに先程の騒動の直後で、その様子を伺う貴族の方々は多い。
「…何でしょうか、シルヴィア様」
と涙で溶けた目で子爵令嬢はシルヴィア様と対峙する。
「私、あなたと話す事が沢山あると思うの。…聞きたいこともある。少し、お時間いただけるかしら?」
あくまでも、余裕の悪役令嬢の仮面を外さないシルヴィア様はにっこりと笑う。ここまで来たら「あっぱれ!」と紙吹雪を舞わせたくなるのは元日本人の性だろうか…。
「わ、私もです!シルヴィア様と、お話したい事は沢山ありますから!!」
(王子といい、子爵令嬢といい…。虚勢を張るのがお好きなのですか?)
その辺はよくわからない。だが、ヒロイン枠の子爵令嬢が悪役令嬢のシルヴィア様に歯向かっても焼け石に水だと思う。
「…それはよかったですわ。すぐに行きましょう」
がっしりとシルヴィア様に腕を掴まれ、子爵令嬢は半ば引きずられるようにして謁見の間の赤い絨毯の上を歩く。
準備をしなくてはならない私はひっそりと謁見の間を後にした。
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フォード公爵家は旦那様が宰相という地位を賜っていることもあり、王宮の一室を与えられている。旦那様は国王陛下に次いで多忙と言われ、王宮に泊まり込むことも珍しくない。そのためか、フォード公爵家が賜った一室は全てが完備されている。(ちなみに、私はこの一室のことを“VIPルーム”と命名した)
「公爵家に下賜されたものはフォード公爵家の人間が少々使っても見逃してくれるわよ。……たぶん」
というシルヴィア様の言葉のもと、ここで子爵令嬢と“お話”する手筈になっている。私は謁見の間で覗き見ていたことを欠片も出さずに2人を迎えた。
「…おかえりなさいませ、シルヴィア様」
「ただいま。ソフィ、準備はできてる?」
「はい。…どうぞ、カルロ子爵令嬢」
子爵令嬢のために椅子を引く。…これでも随分とモブという名の使用人生活を楽しんでいるのだ。モブと言わずなんと呼ぶ、なんてことは気にしないでいただきたい。
淹れたての紅茶とお菓子を用意して私は一旦壁際に下がる。シルヴィア様に退出を命じられていないのでここでいいだろう、と存在感を消した。
(さぁ、ここからが本領発揮です。シルヴィア様!)
すました顔でワクワクと胸の高鳴りを抑える。これは悪役令嬢には欠かせない、とても大切なイベントだと思うのだ…!
「…カルロ子爵令嬢」
「し、シルヴィア様は!」
示し合わせたように2人の声が重なる。
「!ど、どうぞお先に…」
「いえ、あなたのお話から聞きたいわ」
優雅に紅茶をすするシルヴィア様とは対照的に、子爵令嬢は目が泳いでいる。おやおや、と思いながらも私は黙ったままだ。
「は、はいっ。…あの、変なことを言うと思います。…でも、笑わないでいただきたいのです」
シルヴィア様がティーカップをソーサーに置いたところで、子爵令嬢は意を決したようだ。
「─────シルヴィア様は、転生者ですか!?」
(はぁっ!!?)
私は鈍器でガツン!と頭を殴られたような衝撃を感じた。思考は混乱を極め、クエスチョンマークしか浮かばない。しかし、子爵令嬢は更にその困惑を加速させるようなことを言ってのけた。
「私は日本に住んでいました!なんというか、事なかれ主義の日本人でしたね。何で異世界に来てしまったかはわからないですけど、乙女ゲームとその他いろいろを愛する所謂“腐女子”です!!腐女子を恥じらうなんて、そんなものはとっくの昔に捨ててますっ!シルヴィア様はこの世界に転生してきて、何も思いませんでしたか!?私はとても興奮したんですよっ!」
これだけ説明されてわからないほど馬鹿ではない。キャー!っと頬を染めて恥じらう姿は、2次元に夢を見てしまった人特有のアレだ。
(まさかの同族疑惑、いえ、同族ですか…!!)
すると、急に子爵令嬢に親近感が湧いてくる。同じ日本で、しかも腐女子。あの様子だと、夏と冬の行事に参加したのは間違いないだろう。
「…何のことだか、さっぱりなのだけど」
珍しく、シルヴィア様が困惑していた。それは混乱を抑えようとしているのだと、知っている私はいい。
しかし、テンションが上がって周りが見えなくなった人ほどさらに深みに陥りやすいのだ。これはもうどうにもならない。
(…イベントはどこへ消えたのですか)
「またまたぁ〜。とぼけなくてもいいんですよ?」
子爵令嬢はシルヴィア様にそう諭す。
「だから!私にはそんな特殊な経験はありません」
ムッとしたシルヴィア様がきっぱりと断言すると、子爵令嬢の表情が固まった。くるくるとよく動く子爵令嬢の表情がごっそりと抜け落ちたようだ。
「……申し訳ありませんでした!!!この話は耳にしなかった、という事で水に流していただけませんでしょうか…!そしてお墓まで誰にも言わずに持って行っていただきたく存じます…っっ!!私が、私の勝手なもうそ……想像でおかしなことを口走ってしまったこと、お許し下さい!!」
がばっ、と床に手をついて頭を下げる。本当に目にするのは初めてだが、これは土下座というやつだ。誠心誠意のその行動をシルヴィア様は知るはずもなく、ただ、ポカンとしている。
……父から教わった“使用人の心得”には反するが、ここは一肌脱がなくてはならない。
「シルヴィア様」
純粋なシルヴィア様の孔雀石の瞳がこちらを見る。素のシルヴィア様の、何者にも染まることのないこの綺麗な瞳を私がずっと守りたいと思う。
「カルロ子爵令嬢とお話する許可を、いただきたく存じます」
打開策を見出したと思われたのか、シルヴィア様は小さく頷いてくれる。私はうずくまるような格好の子爵令嬢に近付き、スカートを丁寧に整えてその側へ膝をついた。
「…そのままでは、スカート部分がシワだらけになりますよ」
使用人として言わせてもらうが、ドレスの手入れは非常に大切なものなのだ。少しでも怠ってはいいものではない。
「えっ?は、はい」
微妙な返事だったが、一応は通じたようだ。子爵令嬢は手早く自らのシワを伸ばす。それが落ち着いたところで、私は子爵令嬢の耳元に顔を近づける。
そして、小さく囁いた。
「…粒あんとこしあん、どちらがお好きでしたか?」
私事で少し更新が遅れます^^;
ご了承ください。