1.対岸の火事だと思ってた。
私の名前はソフィ・オルスター、17歳。フォード公爵家に仕えるしがない侍女である。
…いきなりだが、私は転生者だ。5歳の頃には日本で暮らしていた記憶がはっきりとあった。今思い返せばなんて豊かな国だったのだろうと思う。
ごく普通の家庭で育った私はそこそこの進学校へ通い、大学へ進んだ。一人暮らしに慣れた頃、私は死んだ。「なぜ死んだのか」なんて覚えていない。こうも淡々と語ってしまうと、とても味気ないような気もする。
が、唯一楽しんでいたものがある。それは「乙女ゲーム」。いわゆる「腐女子(程度は軽め)」だった私は大好きな声優さんや絵師さんが描く世界に夢中だったのだ。声優さんの甘い声、絵師さんのキラキラスチル…。何度ヘッドフォンをしたままベットの上を転げ回ったことか。…そう、誰にでもある黒歴史というやつである。
そんな私が「まさに乙女ゲーム!」のような世界に転生したら…想像はかなり容易であろう。何故か美形は多いし、何故か声も素晴らしい。「この世界に転生してよかった…!!」と半ば本気で思っている。
…ところで、今の私の父は公爵家の筆頭執事というお役目を賜っている。公爵様はお屋敷のあれこれに関する決定権を父に委ねているらしく、全幅の信頼を寄せられていた。奥様からも「細々したことはお願いした方が確実だわ」と言わせるほどだ。
では、私は何をしているかというと。
「ソフィ…。私のお忍び用のワンピースは?」
「シンディーのものは全て奥様が掻っ攫ってしまわれました。ですので、当分は街に行けませんね」
「はぁ!?何ですって!!」
「…シンディー、その言葉使いはよろしくありませんよ」
私が仕えるのはフォード公爵家のご令嬢、シルヴィア様。幼い頃から行儀見習いとしてシルヴィア様に仕え、父に“使用人の心得”を学んできた。また、気心の知れた友人としても側にいることを許されている。だから私はシルヴィア様のことを私的な場では「シンディー」と呼んでいた。
『シルヴィア・フォード公爵令嬢はご両親から受け継がれた美貌もさることながら、聡明で朗らかなお方である。また王家にも引けを取らない高貴な血統を持ちながら、それを誇示する素振りも見せない。まさに貴族の鑑のようなご令嬢である』
…というのが社交界の皆さまからの共通評価であるらしい。確かにシルヴィア様は私にも優しく接して下さるが、『貴族の鑑のような』と形容される方ではないと思う。決して私ごときがシルヴィア様を貶める訳ではない。…ただ、シルヴィア様はそのような型にはまる人ではないのだ。
「私はこんな堅苦しいのは無理なのよ!猫かぶるのも疲れるし、お母様のところにあるのなら取り返すのも難しいし、ああもうやだ……」
–
その『聡明な』頭脳は全く別の方向へ活用されている事を、貴族の皆さまは知っているのだろうか。
いたずらにお忍び、使用人のまねごとやら、淑女には必要ないとされる諸々まで…。その才能は遺憾なく発揮されてきた。
(黙って微笑んでいらっしゃると、本当に完璧なご令嬢なのに。…貴族の皆さまの評価は間違ってないですけど)
コンコン。
シルヴィア様のお部屋の扉を叩く音で私は“侍女”の顔に戻る。
「開けて参ります」
不埒な輩ではシルヴィア様に害が及ぶので扉はほんの僅かだけ開ける。父の“心得”第三十五条だ。しかし、万が一があったとしても私にはシルヴィア様を守り抜く自身がある。
だが、そんな杞憂は全く以って必要なかった。
「…旦那様。こんな時間にどうなされましたか?」
僅かな隙間から見えたのは黒髪の美丈夫だ。正装の略装ではあるがそれすらも見事に着こなし、胸には多くの勲章が輝いている。この方こそがフォード公爵家ご当主、ヴィクトール・フォード公爵閣下だ。
21歳の折に隣国の王女であらせられた奥様と恋に落ち、色々なツテを使って結婚まで漕ぎ着けたかなり頭のキレる御仁である。
…転生前ならば赤いケチャップが鼻から垂れてしまうだろう。いや、その前に確実にこの方のA○Mとなっているはずだ…。
「シルヴィアに大切な話がある」
「お茶菓子をお持ちしましょうか?」
「いや、遠慮しよう。…ソフィ、そなたも一緒に聞いてくれるか?」
私は驚いた。旦那様からこんな事を言われたのも初めてで、一介の使用人が聞いてよいものだろうか…?
「後で聞かされるだろうからな…。遅いか早いかの違いだ」
(…とんでもない事を聞かされる気がしてきた…)
旦那様を部屋へ招きいれながら、私はシルヴィア様の隣に座らされた。明らかに不機嫌な様子のシルヴィア様は睨むように旦那様を見ている。
「…この甲斐性なし。早くお母様のところにいってしまえ」
開口一番の愛娘のとんでもない暴言にも旦那様は揺るがない。むしろ、サラッと受け流す。
「アリシアは焦らした方が可愛いからな…。娘のお前から見てもそう思うか?」
「ノロケるなら別のところでお願いします。さっさと本題へ入ってください」
旦那様に向かってこうも攻撃的になれるのはシルヴィア様を除いていないのでは、と思う。「そういうところはアリシアそっくりだな…」と言いながらも旦那様はどこか嬉しそうだ。だが、それもすぐになりを潜める。
「シルヴィア。婚約が決まった」
ただの事務事項を伝えるだけの感情の伺えない台詞。貴族である以上は逃れられない宿命の宣告をシルヴィア様は静かに受け止めていた。
「お相手は?」
「…第二王子、ルーク・リフォンス殿下だ」
(まぁ…)
王族とご婚約するのはこの国の貴族にとっては名誉なこと。たとえ、貴族のご令嬢が望んでも叶わない誉れ。
「おめでとうごさいます、シルヴィア様」
私がとりあえず祝辞を述べても「ええ…」と虚ろな返事をなさるだけだ。
…そりゃぁ、そうだろうと思う。
猫かぶりが嫌いで、貴族の付き合いも好んで行わないシルヴィア様。そんなシルヴィア様が嫌いなことを常に求められるのが“王族”なのだ。
「…ありがと、ソフィ…。で、お父様は私に何をお望みですか?」
突拍子もないシルヴィア様の言葉に旦那様はニヤリと笑う。それを待っていた、といわんばかりだ。それに対してシルヴィア様も黒い笑みを見せる。
「…陛下にでもお願いされた、ってところですね?第二王子の事は常に国王陛下の悩みの種、だそうですから」
「社交界に出ないのによく知っていたな。…他国へ婿に出すのも、他国から姫君を迎えるのも彼には不可能だ。だが、そろそろ婚約者がいなくてはおかしい」
「だからって、私に白羽の矢が立ちますか?」
「…幼い頃から王子の友人だったからな。仕方ない」
「…………は?」
絶好調だったシルヴィア様がピタリと止まる。父娘であるはずの2人の冷たい空気が更に冷え込んだ。
「…私、あのバカ王子───ルーク殿下のご友人になんてなった覚えはありませんけど??」
(バカ王子!?今、バカ王子って聞こえた気が…)
「…そういうことになってる」
(んん!?旦那様も訂正しないのですか!)
大きなため息をついてシルヴィア様は長椅子に沈む。何やらもごもこと呟いておられるが、シルヴィア様の名誉の為に言わないでおく…。
「…わかりました。その話、お受けしましょう」
この時のシルヴィア様のご決断があんなことになるなんて、誰も予想していなかった。
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私がプレイしていた乙女ゲームには程度の違いはあれど、必ず『悪役令嬢』と銘打たれた人が存在した。
彼女たちは自分の愛する男が奪われることを極端に恐れ、愛する者の心が離れることでやがておかしくなってしまうのだ。ヒロインを徹底的に苛め抜くことからプレイヤー側であった私にからすれば彼女たちは本当に邪魔者で、情けをかける必要もなかった。
…今、この状況を除けば。
「カルロ子爵令嬢、ルーク殿下に近付かないでいただけます??」
「そうですわ。殿下にはシルヴィア様というれっきとした婚約者様がいらっしゃるの」
「社交界で最も美しく、王族の方にも負けない血筋をお持ちですのよ?……あなた如きが敵うはずありませんわ」
「殿下が優しくして下さったからって、いい気になってはいけませんのよ?」
居並ぶ令嬢方。壁際に追い詰められて退路を断たれたひとりの令嬢。そしてその様子を一歩引いたところで傍観する一際美しい令嬢。彼女たちの放つ雰囲気はピリピリと緊張感を孕んでいる。
「わ、わたしは…。そんな思い上がったこと…!」
「今更何を仰いますの。はやくご領地に帰ったほうがよろしいんじゃなくて?」
うふふふふ、と楽しげな令嬢たちとプルプルと震える令嬢。名家のお嬢様たちの瞳には嗜虐的な色が宿っていた。
「…か、帰りませんっ!!私はあの方の友人でいると約束したのですからっっ!」
健気な震えるご令嬢─────レナ・カルロ子爵令嬢がはっきりとそう口にした瞬間、パキン、と何かが折れる音がする。そしてそれは子爵令嬢へ向かって振り下ろされていた。
「小癪な…お黙りなさい───!」
振り下ろされた凶器か子爵令嬢へ当たる!と誰もが身構えた瞬間、その手はピタリと止まる。
止めたのは他でもない、私である。にっこりと笑って振り下ろされた手を掴んでいた。
「!?」
「…見苦しいわ」
どうしようもなく静まり返った一同にシルヴィア様の声が響く。傍観していたシルヴィア様がこちらへ来ていた。
「ねぇ、あなた方は“私のため”に子爵令嬢を責めてくれているのでしょう?バレないように隠しているのに、彼女に傷を残してしまっては後々発覚してしまうじゃありませんか…」
冷たいシルヴィア様の瞳に見つめられたご令嬢たちはうなだれる。「興醒めだわ…」とシルヴィア様は手にした扇で口元を隠し、艶然と笑った。
そのまま一瞥をくれてやると、くるりと背を向けて行ってしまう。私はご令嬢たちに一礼すると遠ざかる背を追いかけた。
「シルヴィア様…!」
「なあに?ソフィ」
先程までの鋭い雰囲気は立ち消え、私のよく知るシルヴィア様がこてん、と首をかしげる。
(…本当に、どうしてこんなことになったのでしょうか…?)
何故か、シルヴィア様は乙女ゲームでいうところの『悪役令嬢』になっていた。