なぜ自然はこんなにも人間に便利なのか?
洞窟って便利ですよね。雨風を防いでくれるし。ホモ・サピエンスが出アフリカをする前にあった氷期では、どっかの海岸近くの洞窟がシェルターになったらしいです。危うくホモ・サピエンスは絶滅しかけたのですが、何とかそこで生き残りました。まぁそのために遺伝的な多様性はかなり失なわれたらしいですけど。
木や草も便利ですよね。建材になるし、道具になるし、燃やせるし、繊維から布や紙を作れるし。
石も建材になったり、コンクリートになったり、便利ですね。
あと竹も便利ですね。木や草と同様なのは言うまでもないですが、節をぶち抜けばパイプになります。ちょっと節に穴をあければ水筒の出来上がりです。
他にも色々な食べ物があるし。
水は喉を潤してくれるし。
空気は呼吸できるし。
太陽は光と熱を与えてくれるし。
あぁ、地球や自然は何て人間に優しいんだろう。
こんなことを読んでいて、もう皆さんお気付きだと思いますが、これらは全て因果を逆に見ています。それと、歴史的にどう見られていたかと言えば、自然は人間が克服しなければならない、ある意味では敵でした。
科学エッセイでなぜこんなことを書いているかというと、一応理由があります。話として現在直接繋がるのは反原発運動というか、再生可能エネルギーにシフトしようという運動がどうも気になるからです。さらに言えば再生可能エネルギーと化石燃料の類でやって行けるという運動が気になるからです。化石燃料は、単純に考えても地球の体積は有限ですから、化石燃料の量も当然有限です。それと再生可能エネルギーについては、そもそも安定していないなどの問題があります。
再生可能エネルギーについて話すとしたら、文明レベルの話をしないといけないと思います。文明レベルは利用するエネルギーの範囲によってレベルIからレベルIIIまでが想定されています。なお、これらは断絶しているものではなく、それなりに連続しています。
レベルI: 惑星上で利用可能な全てのエネルギーを利用する。またそのエネルギーをコントロールする。
レベルII: 恒星の全てのエネルギーを利用する。またそのエネルギーをコントロールする。
レベルIII: 銀河の全てのエネルギーを利用する。またそのエネルギーをコントロールする。
再生可能エネルギーでやっていこうという場合、最低でもレベルIであるか、可能な限りそれに近い必要があります。可能ならレベルIからレベルIIの間のどこか。
では、人間はこのレベルIからレベルIIIのどこにいるでしょうか? 正直、レベルIにも到達していません。例えば台風が発生したとしましょう。その台風を消滅させてエネルギーに変換できますか? 無理です。その段階で再生可能エネルギーでやっていこうとか、笑い話にしかなりません。
例えばレベルIの場合、衛星軌道上の発電ステーションも考慮の範囲に入るかと思います。そしてレベルIとレベルIIの間には、地球の公転軌道付近に発電ステーションを設置する案もあるでしょう。この場合、一年に一度、発電ステーションから送電を受けることになります。これはレベルIIであるダイソン・スフィアへの一歩となります。まぁ、まずはダイソン・スフィアの一種であるリングワールドを目指すことになると思いますが。あるいは、発電ステーションを公転軌道付近に設置する必要もありません。太陽の周りならどこでも構いません。地球への送電さえできれば。
さて、ここで別の問題が起きます。それは資源です。地球からの持ち出しでまかなえるのでしょうか? あるいはロケットで打ち上げるのはべらぼうにコストがかかります。軌道エレベータだって、いくらでも重い物を持ち上げることができるわけではありません。そうしたら、プラント船を打ち上げたり、衛星軌道上で組み立てたりして、地球外から資源を調達する方法も案として考えておいた方がいいでしょう。まぁタイミングの問題はありますが、小惑星クルースンは資源の有力な候補ではないかと思います。
では、今現在の状況(state of art)として化石燃料と再生可能エネルギーに頼るという方針は未来を見た場合に現実的な方針なのでしょうか? 化石燃料は限りがあるし、再生可能エネルギーも主力とするには無理。この段階で、「化石燃料がある」とか、「再生可能エネルギーでやっていこう」というのは、緩やかな衰退を目指すことと、私には同義に思えます。
「地球を守ろう」というような言葉が言われます。確かに人類発祥の地としての地球は大切だと思います。ですが、地球にへばりついていないといけない理由ってあるのでしょうか? 地球は、人類が、あるいはホモ属が現われた時点で、使い捨てにされることが役目であると考えていけない理由は何かあるのでしょうか?
上で因果を逆に見ていると書きましたが、そういう考え方が人類の行く末を狭めているのではないでしょうか? そして因果を逆に見るという考え自体、明らかに論理的な思考ではないでしょう。人間は論理とも、ナンセンスにおける論理とも違う、論理モドキの思考しかできないのではないでしょうか。そしてそれが行き着く先は、「最適化デバイス/最適化システム」による効率的な資源やエネルギーの配分ではないかと思います。
というような事を書いておくとおわかりかもしれませんが、「進化の渦の中で」とか「時を彷徨い」とか他のものでも、私は結構本音を書いています。人類に未来はないという本音と、生きることは手段の一部であるという本音を。