人間は考えているのか?
medium.comと重複投稿してますが、改訂版みたいになってます。
えと、このあたりはデネットやホフスタッター、プロップ、ユング、ソシュール、ヤコブソン、チョムスキー、バルト、レヴィ=ストロースの影響を強く受けています。このあたりというか、私の考え方は基本的に彼らに強く影響を受けています。
先の「考え方(あるいは「ロジック」)は1つなのか? ――ある意味、言葉について――」がちょっと面倒な話になっていたのは、少しこの話にも関係します。
さて、人間は考えているのでしょうか? 心理学や脳生理学、言語学などなどが対象にしているのは、原則として「考えている人間」です。
チンパンジーの知的能力を測って、「これもできた」というような報告があります。ですが、それ、大体は「ほぼすべてのチンパンジーができた」というこ ととは限りません。「半数のチンパンジーが出来た」ということでもありません。言ってみれば「特殊な個体において出来た」というようなものである可能性すらあるのではなかろうかと思いま す。つまり、そのデータそのものにとんでもないバイアスがかかっているのかもしれないのです。
人間は自身をホモ・サピエンスと呼んでいます。「知恵のある人」というわけです。そこで「本当に?」という疑問が出てきます。ホモ・サピエンスと言い出した人達は、知的能力がかなり高い人達でしょう。自身をもってバイアスとなってしまっているという可能性はないでしょうか?
狩猟採集でも動物の渡りなどの経路、木の実などのあ りかなどなど、考えないといけないことが降り掛かってきます。おまけに反射でどうこうするだけではなく、長老とかからの助言をもとに考える必要がありました。牙や爪、あるいは強い筋肉という強力な武器を持 たず、持っているのは脳だけです。それをできるだけ使ったことでしょう。もちろん、栄養状態によって、充分にその性能を発揮できなかったということもあると思 います。ですが、考えることが生き残る条件でした。そういう条件では自らをもってバイアスとなってしまうような人が子孫を残すのに有利だったかもしれません。ネアンデルターレンシスが滅びたのは、知的能力の差ではなく、結局筋力に頼っていたからだという説もあります。それとともに、ホモ・サピエンスほどにはピーチクパーチクしゃべりまくらなかったからだとも。脳しか頼れるものがなかったホモ・サピエンスが生き残ったのは必然なのか、それとも悪い冗談なのか……
ところが、1万年ほど前に農耕が始まり、年単位での時期くらいしか気にしなくてよくなりました(まぁそれは単純化のしすぎではありますが)。その後、時期だけじゃなく天候、手入れを気にする必要は出てきましたが。農耕により、一定のカロリーの確保が可能、あるいは容易になり、かつ一定のカロリーを得られることで脳の性能を引きだすことも容易になったかもしれません。
しかし、単純に言って文化や文明や社会が発展するにつれて考える必要性は減りました。というのもそれらを人間あるいは個人より上位に位置するものとして扱うことによって個人が脳を使う必要自体が減ったであろうからです。特に意識して使う必要は。
とは言え一瞬にして脳が小規模化するわけではないので、余剰能力を使って道具や いろいろなものを作ったり観察したりしてました。ですが、脳の働きとして高レベルのものを期待する必要はなくなっているわけです。脳の機能が上がったのではありません。脳の機能に余剰分が生じただけです。
数千年前には文字と都市国家 が現れました。実のところ文字は、文字としてどういうものを使うかは置いといて、「その言語にどういう音があるか」がある程度わかっていないと 作れません。あるいは「その言語にどういう語があるか」がある程度わかっていないと作れません。というわけで文字の発生は謎に包まれています。ヒエログリフなんかは読み方が特殊なので除外するとして(まぁ基本表音文字ですが)。漢字なんかは文字というよりwordですので、なおさら面倒だったと思いますが。
さて、文字が発明されると記録をとれるようになります。都市国家になると明文化された法律ができました。最近、「ググればいいってもんじゃない」てなことを言われますが、まぁ似たような状況が現れたわけです(アクセスできる人は非常に限られていましたが)。
そ うやって外部記憶に頼るようになりました。それで扱う情報が格段に増えているかというと、実のところ格段には増えていません。外部記憶にアクセスすればいいだけになったのですから。扱う可能性のある情報やデータは増えたでしょう。ですが個人の脳が扱う情報やデータは、それとは別の話です。そして規則や、法律、戒律を書き出すことにより、覚えておく必 要もなくなりました(あるいは少なくなりました)。必要なら外部記憶にアクセスすればいいのですから。考える必要がない状況がここでも現れています。ここでも脳の余剰能力が生まれています。やはり脳の機能が上がったのではありません。脳の機能に余剰分が生じただけです。このあたりになると余剰能力が使われた対象として戦争も入れられるかもしれません。
このように、少なくとも二段階の余剰能力がその後にどのように影響、あるいは扱われたでしょうか? 単純に言えば、無駄なものと見做されていたと思います。一般的には余計な事を考えず、「うまくいっている(ように思える)方法に従う」方が好まれるかもしれません。慣習とか法律とか掟とかですね。すると余剰能力を使って何かをしていた人より、 余剰能力を使わない人のほうが子孫を残しやすかったかもしれません。王族とか神官とかは別の話かもしれませんが。簡単に言えば、「面倒臭いことを言う人は嫌だ」というような話です。あるいは、そもそも論的に余剰能力を使っていた人は少数だったかもしれません。
そうすると、遺伝子プールには、余剰能力をもつDNAは残りにくかもしれません。なにせ不要な遺伝情報ですから。あるいはあくまでイレギュラーとして残っているのかもしれません。そして、それは少なくとも一万年前から始まっています。
なお、脳 は全身で使うカロリーの20%を使っているとのことです。しかも意識的に何かを考える際に使っているのは全身で使うカロリーの1%程度。脳で使うカロリーの5%程度だそうです。残りは謎というわけではなくて、普通に視覚の処理とか他のいろいろな機能に使われているようです。それとデフォルト・モードの機能ですね。ですが、はっきり言って20%も使うのは無駄以外のなにものでもありません。意識的な思考や行為には全身の1%、脳の5%だけとは言え無駄でしょう。脳のデフォルト・モードは、意識的に考えたり行動していない時にはそっちが優位に活動していることがわかっています。それに何%使われているのかは知りませんが、無駄です。生物の進化においては、基本的には無駄なものは消えていきます。イルカや鯨には足はありません(骨格はいくらか残ってますが)。海中での生活には不要だからです。あるいはむしろ邪魔だからです。
そして、これは仮説ですが、3万年ほど前の人類の頭蓋内の容積より、現代人の頭蓋内の容積の方が小さいという説があります。これは人間自身を家畜化しているためだろうとも言われています。狼と犬では、狼の方が脳の容積が多いのです。他の家畜においても、野生種と家畜種では野生種の方が脳容積が多きいことが実証されています。文明化によって人間が自身の脳容積を小さくする方向に向かっているという可能性もあるかもしれません。ただし、脳容積がそのまま知能や知性に直結するわけではありませんが。
さて、20%とか5%とか1%とかが無駄だという根拠を挙げます。私はフェレットを飼っています。このフェレット、冷藏庫の横にあるプラスチックの棚を、壁に背を預けてよじ上って、流しのとこにやって来るというような行動をします。これ、単純に考えて、空間モデリング、時間モデリング(あるいは計画)、目標を自発的に持つことをやっているわけです。そしてそれぞれの分野や分野の間でのフィードバックも当然やっていることになります。フェレットの脳の容積や体重比は知りませんが、フェレットの脳でこれらができるわけです。それを考えると人間が持っている能力と、それを維持するためのカロリーは無駄でしかないことは明らかです。%でというよりも絶対量としてと考えた方がいいかもしれませんが。人間はどう考えても過剰な脳、あるいは脳の機能を持っているのです。
宗教、社会制度、文明、文化、慣習、そのいずれも人間の行動を制限するものです。それも普段は物事を考えないですむようにするために。それが人間の本質なのかも知れません。1%、あるいは5%とは言え(そしておそらくはもう少し多く)、無駄なエネルギーは使わない。それは動物として自然な行動でしょう。
その結果現れる世界は、考えない人間の世界です。そして、「すばらしき新世界」や「われら」こそが考えない人間にっとての理想郷であり、人間の叡智の一つの極致と言えるのでしょう。おそらくそこは楽園です。多くの作家などの表現者が描いているように楽園です。そう。描いているとおりに。
さて、ここまではあくまで「人間は考えている」という前提で書きました。ですが、「実は人間は考えていない」という可能性もあります。
「考え方(あるいは「ロジック」)は1つなのか? ――ある意味、言葉について――」で、「イベントAの後にイベントBが起こったら」という事を書きました。人間も実はそれしかやっていない可能性も捨てることはできません。
例えば、これを説明するのに、可能ならちょっとしたプログラムを作ってみてください。それなりの量の英文を元に、アルファベットのaからzがそれぞれ単独で現われる確率を求め、その確率に従って乱数でアルファベットを出力するプログラムを作ってみてください。まぁ、この段階だとアルファベットの出現に偏りがある文字列が出力されるだけです。では次に、"a"の後にアルファベットのaからzが現われる確率、"b"の後に〜という確率を求めるプログラムを作り、その確率に従ってアルファベットを出力するプログラムも作ってみてください。たぶん、まだアルファベットの出現に偏りがあるていどかと思います。さらに、"a"の後に"a"が来た後でアルファベットのaからzが現われる確率、"a"の後に"b"が来た後でアルファベットのaからzが現われる確率〜を求めるプログラムを作り、その確率に従ってアルファベットを出力するプログラムを作ってみてください。このあたりになると、英語にはなりませんが何となく英語っぽい文字列が出力されると思います。英語を例にしたのは、単純に日本語より文字セットが小さいからです。
同じことが文でも言えます。この場合、アルファベットではなく単語が対象になります。
さらに文章でも同じことが言えます。文の深層構造、あるいは意味の並びは確率的なものに過ぎないのかもしれません。そして、人間はそれをフィードバックによって観察できるために「考えている」という幻想を持っているだけなのかもしれません。
確かに人間は言葉を操り、文字も操ります。ですが、先のフェレットの例と人間との間に何か質的な溝や壁があるのでしょうか? フェレットは言葉を持っていない? いえ、それは確認できていないだけです。フェレットは文字を操らない? いえ、人間の脳にも文字を操る部位はありません。他の機能の貼り合せや組合せで文字を操っているだけです。
つまり、人間も確率的に行動しているだけであり、無駄なフィードバックの存在により幻想を持っているだけなのかもしれません。
もしかしたら人間の脳は他の動物よりも高度の機能を持っており、余剰機能によって、とくに外部記憶を活用することで文明や文化を発達させてきたのかもしれません。あるいは人間は考えておらず、慣習などによりこのように行動せよという確率に従っているだけなのかもしれません。
ただ、どちらにせよ重要になるのがmemeではないかと思います。memeを継承できるのか、それともgene(あるいはgenome)の継承に頼るだけなのか。そこは知識などの蓄積の速度において大きな違いだと思います。ただし、memeを継承できると言っても、必ずしも脳の知的な機能の存在が必要なわけではありません。ただ確率だけを学習できれば構わないのですから。
人間は知的な存在であるというのは、かなりの大前提として設けられる事柄かと思いますが、実はそこを疑う必要があるのかもしれません。なぜなら、10万年以上たっても、あるいは600万年たっても、なぜまだ基本的には地面にへばりついているのかという疑問に答えるのには、そこのところを考える必要があるのではないかと思うのです。
人間が本当に知的なのだとしたら、比較的最近だと古代ギリシアの到達点を見たり、あるいはもっと最近なら少し長めに見てここ500年の変化を見ると、なぜもっと昔にその到達点に至ったり、変化が起きていないのかが疑問になります。人間はとっくにずっと未来に到達していたはずだと思うのです。そしてそれに対する答えは二つの可能性があります。一つは「やはり時間が必要だった」というもの。もう一つは「人間に知性はないから」というもの。
色々書きましたが、脳は謎に満ちています。ブレイン・プロジェクトやブレイン・イニシアチブにより、これからの10年で色々な事がわかる事を期待します。