考え方(あるいはロジック)は1つなのか? ――ある意味、言葉について――
ちょっとごちゃっとした話になっています。都合上、説明として書いといた方がいいと思うことがあるので。
身近なところだと、神話や昔話というのは、「なんでそうなるの?」という、非合理的に思える話の進行があったりします。そういう点について、よく言われるのかなと思うのは、次のようなものがあります:
1.「使っているロジックが違った」という説がある。確かに、その説に従うと、結構すんなり受け入れられる神話もある。だが、もしかしたらその説は違うかもしれない。
2.人間には理解できなかった自然現象の理由付けとして自然神が現れたという説もあるが、これももしかしたら少し違うかもしれない。
3.あと、古代ギリシャ時代から言われているが、英雄譚が神話になったという説もある。これは、まぁあるだろうなぁとしか言えない。ただし、すべての神話がそうだとは言いきれないのも事実(いや、頑張れば言い通せるけど)
1つめについては、えーと、例えば現在の論理を述語論理的に書くと、「鳥は飛ぶ」というのを "fly(bird)" とか書くわけです。これが昔は "bird(fly)" みたいなものだったんじゃないかと言われています。これでどういう違いが現われるかは説明が難しいのですが。別に "fly(bird)" でもかまわないんじゃないかと思うので、こっちで説明を試してみます。例えば神も空を飛ぶと考えた場合、"fly(god)"となります。現在の論理だと、"fly()"が共通しているだけなのですが、昔はその括弧の中も同じものと考えられていたという説です。その場合、"bird"と"god"も同じものだということになるわけです。今の論理だと"fly"の方というか書いてある場所が共通のものであると考えるので、その作法に則ると "bird(fly)"と"god(fly)"だと"bird"と"god"が等しくなると読むわけです。
ですが、実際にはロジックが違う必要はありません。単に、「何を知っているか」&「何を信じているか」と、「どのように考えるか」を分離して考えれば良いだけの話です。その考え方で読みなおしてみると、「どのように考えるか」は神話が成り立った、あるいは語られ始めたときから変わっていないかもしれません。ただし、神話は毎日書き換えられてきたと考えなければならないので、本当に最初の神話がどうだったかは分かりません。ですが、このように分けて考えると、神話というのは実は非常に論理的であることが分かると思います。
2つめの自然現象の理由付けというのも、本当に望んだり必要としたのでしょうか? そうだとしても「どのように考えるか」が違っている必要はない。おそらくは「何を知っているか」&「何を信じているか」についての問題だと言えるでしょう。ですが、別の可能性もあります。誰かがいつかどこかで、「何かが稲妻とかを操っているとしたら面白くね?」と思いついてしまっただけかもしれません。それは現在の小説、演劇、マンガやコミック、映画などにずーっと続くものでしょう。
3つめは、歴史でもあり、まさしく娯楽でもあったのだと思います。
そうすると、結局神話やらなにから今まで、人間がどう考えるかは変わっていないのかもしれません。
ただし、本当に「どのように考えるか」が変わっていないとすると、1つ問題があります。人間はたった1つのロジックしか知らないのです。量子力学とか数学とか訳の分からないものはあるとしても。プログラミングだって、慣れていない人には人間にとって自然なロジックとはかけ離れているように思えるかもしれません。でも、慣れてしまえば、同じだということは分かると思います。
誤解を恐れずに言えば、人間が知っているロジックは次のようなものだけです。Prologというプログラミング言語の入門書の最初の方にある例を挙げます:
|human("ソクラテス"). ; ソクラテスは人間である。
|mortal(X) :- human(X). ; Xが人間であれば、そのXは不死ではない。
|?- mortal("ソクラテス") ; ソクラテスは死にますか?
|yes ; ここだけシステムからの出力。はい。死にます。
上の2行は「何を知っているか、何を信じているか」です。では3行目の質問に対して、上の2行からどのように結果の”yes”が出てくるのでしょうか? もちろんPrologではそこのところが定式化されているわけですが、実は人間自身が実際にどうやっているのかはいまいち説明できない。ですが、そこにあるものこそがロジックです。
あるいは、実際には上記のロジックの他にもう二つあります。
一つは比喩の類です。ですがこれまたどうなっているのか分からない。ただ個人的には、上の例と比喩の類を別物と考えることに疑問を感じています。
それともう一つ。次の2文を続けて読んでください:
|私は買い物に行った。
|私は本を買った。
おそらく、「買い物に行っている途中(帰りかもしれない)に、『私』は本を買った」と解釈する人が多いと思います。ですがこの2文を読み直してください、1文めがいつどこでの話なのか、2文めがいつどこでの話なのかは何も書かれていません。さらには「私」が同一人物なのかすら明らかではありません。にもかかわらず、どうして2つの文が関連していると読んでしまうのでしょうか?
ある分野では、それは理屈ではなく人間の脳がそうなっているからだと言っています。つまりイベントAの後にイベントBがあると、イベントAが原因でありイベントBが結果だと勝手に解釈してしまうという機能が脳に組込まれているという話です。これはもう脳がなくてもやってしまう関係付けでもあります。そして、そのように読んでしまうところもうまく説明出来ないところではあります。ですが、これもまた1つのロジック、あるいは上に挙げたロジックを形作るロジックの一部なのです。
実際にどうなのかは分からないのですが、私はこれらがひとまとまりになって、人間が知っているたった一つのロジックを構成しているのだと考えています。
どのような生物でも――理由は分かりませんが―― どうしたって人間が知っているロジックに至るのでしょうか? AIの特異点なんて話がありますが、そこで人間は自分自身とは異なるロジックに対面することになるのでしょうか? 特異点の先に、人間と異なるロジックに至る可能性はあるかもしれません。
もっとも、定理の証明系で、人間が思いつかなかった証明を計算機が発見したという前例はあります。ですが、それも人間に理解可能でした。
人間の知らない論理、人間に理解できない論理というものがあるのでしょうか?
そここそが問題になります。
仮に宇宙人が来た時、人間のロジックと彼らのロジックは同じ、あるいは翻訳可能、あるいは注釈付きで翻訳可能なのでしょうか? 興味があるので、ぜひ早くどっかの宇宙人に来て欲しいくらいです。いや、通信だけでもいい。とにかく意思疎通が可能かどうかを見てみたい。
宇宙人とのコミュニケーションには、おそらく言語を使うでしょう。語彙あるいは単語がそれぞれどのように世界を切り分けるかは、当然違うでしょう。ですが、結局のところ言語(特に文)は修飾-被修飾の関係の集まりと、有標性と無標性の集りを用いたものです。ちょっとこのあたりは説明が必要かもしれません。
その説明の前に一つ触れておきたいことがあります。言語には再帰とかもあります。ピダハン語には再帰がないという説があります。収集した範囲では確かに再帰は見付からないとか。ただ、この議論はちょっと飛躍している部分もあると思います。チョムスキー系の理論では再帰が理論の根幹部分をなしています。ですが、うーん、うまい例が思い付きませんが、例えば日本語だと「緑色の葉っぱ」というように、英語でも基本的には "green leaves"と、修飾-被修飾の順番になります。対してスペイン語だと "hojas verdes"と被修飾-修飾という順番になります。これはチョムスキー系の統語理論での原則の話ではなく、スイッチの話になりますが、どっちにスイッチが傾くかの設定があるわけです。ピダハン語だとスイッチではなく原則の方になりますが、チョムスキー系の統語理論の再帰はかなり根本的なものではあるけれども必ずしも顕在化せず、潜在的に可能であると考えてもいいように思います。だいたいは顕在化した方が便利なので顕在化しているけど、という感じかもしれません。あ、スペイン語は被修飾-修飾という並びだけではなく、修飾-被修飾という並びもあります。これ、同じ単語を使っていてもどっちの並びかで意味が変わってしまうるとか面倒な時もありますが。
話を戻して。修飾-被修飾は、日本語での係り受け文法(古文とかでの係り結びではなくて)を考えてもらえば簡単でしょう(複文あたりの扱いは議論があるところでしょうが)。
有標性は、当然名詞なんかにもありますが、例えば動詞の例を挙げましょう。動詞の働き方を示すものとして、tense(時制)、aspect(相)、voice(態)、modeあるいはmood(法)があります。
tenseは未来、現在、過去です。
aspectは、完了、継続、繰り返し、未然とかです。ちなみに、日本語にはtenseはなく、tenseもaspectでまかなっていると言われています。つまり日本語には完了形はあっても過去形は存在しないのです。英語の過去完了とかを日本語に訳そうとするとややこしくなるのは、大まかな話としては、そのためです。
voiceは、とりあえず能動態と受動態と言っておけばいいと思います。
modeあるいはmoodは、ややこしいです。tense、aspect、voice以外のすべてがここに詰め込まれているからです。とはいえ、とりあえず動詞を使うときの気持ちのあり方と思ってもらえばいいでしょう。「希望」とかまぁいろいろです。
そこで、有標性としてvoiceを見てみます。日本語だと「〜られる」が受動態と可能と尊敬だかなんだかが一緒くたになっているので話が面倒になります。なお20年とか前から言われている「ら抜き言葉」は、受動態と可能の表現を分けようという動きとしても見ることができます。そのあたりが面倒なので英語を使います。能動態は、"someone do something"とかなんとかと書けます。それに対して受動態は、"someone be done something"とかなんとかとなります。”do”に対して”be done”となっていることで、それは”do”とは違うという事が示されています。これが有標性です。”do”が有標であり”be done”が無標であるとするか、”do”が無標であり”be done”が有標であるとするかは、どっちでもかまいません。情報理論的に考えるならば、有標としたことで情報が増えるようにする方が望ましい。つまり、出現確率が低いものを有標として扱うのが望ましい。ですが有標/無標の区別は優劣を示すものではありません。違うことを示すということだけが有標性ですから。
非常に大まかに言えば、文はこのような修飾-被修飾と有標/無標のいくつもの組み合わせで構築されています。
問題は、ロジックを表現するのは、概ね1つの文ではないということです。2つ以上の文がどうしてそのように並ぶのか。大雑把に言えば、そこにロジックがあるわけです。「そこ」と言っても必ずしも見えないわけですが。接続詞などで部分的に表明されることもあるし、表明されない場合もある。まさに宇宙人のそこのところを人間が理解できるのか? あるいは人間のそこのところを宇宙人が理解できるのか?
そこのところを見てみたい。とても見てみたい。誤解が生じて、そのために宇宙人が地球を破壊することになるとしても、とにかく見てみたい。
注: 「ら抜き言葉」について
例えば、「AさんがBさんを見た」という状況を考えます。この際、Bさんの視点から文をつくるとどうなるでしょうか? また、Aさんの視点から、それが可能であったことの文をつくるとどうなるでしょうか? 試しに考えてみると面白いかもしれません。