人工知能と知性化の中断はゆるされるのか?
倫理関係でもう一つ。
えーと、人工知能の機能向上云々とか、人間と機械との競争/戦争とか、シンギュラリティとか、まぁ最近それなりに話題です。
それと、2014年12月02日にGigazine経由のニュース:人間の脳細胞を持って賢くなった「半人間脳マウス」が誕生というのがありました。[*1]
マウスの方については、Gigazineにては「『アルジャーノンに花束を』のアルジャーノンとは違う」という説明がされています。チャーリーには適用できなさそうという点では、確かに違うのかもしれません。ですが、アルジャーノンだけについて言うなら、むしろこんな感じなのかもしれないなぁという気もします。
猿の惑星の新しいシリーズの方で、知性化が若干描かれているとも言えると思います。動物の知性化について想像しにくいという場合、いろいろとあんな感じの事柄があると思ってもらっていいと思います。
人工知能については、動物ならたぶん持っているであろう、「自分の中でのフィードバック」とでも言えるような要素がまだ足りない、あるいは過去を振り返って実装する必要があるかもしれません。というのは、今の人工知能の方向は統計的な方向に偏っている気がします。それはそれでうまく行っていますが、フィードバックを考えると、過去の人工知能の研究をもう一度評価する必要があるかもしれません。
この辺りは、私はフェレットを飼っているのですが、もう何回も驚かされています。どこに何があるのか、あるいは「あれは何なのか」という空間のモデリングと、「こうしたらこうなる」という時間のモデリング、それに付随する試行、それと「想像した世界」という可能世界あたりはフェレットも充分にやっているように思います。
例えば、うちのフェレットは、プラスチックの安い棚を登るのに、背中を壁に預けて前足を上の棚にかけ、うんしょと自分を持ち上げるという事をやります。人間が言うような意図的なモデリングや計画はしていないのかもしれません。ですが、そういう棚を登るという行動を実際に行なっています。これ、空間モデリング、時間モデリング、可能世界を扱わずに可能でしょうか? そして、これができるということは、知性でなくて、何なんでしょう?
動物については、あとは記号を扱うという知性化の方向があるのだろうと思いますが、「記号ってなによ」と考えると、よくわからなくなります。
しばらく前に、ネアンデルターレンシスが記号を壁に書いていたかもしれないという話もありました。まぁそれ、実際にある意味サピエンスが使う記号と同じものなのかはまだ不明ですが。記号を扱う能力というのもサピエンスの特徴の一つと言われていますが、サピエンスになって突然現われたというのも考え難いことではあります。だって、100万年くらい前のだったと思いますが、頭蓋内の凹凸をかたどってみると、サピエンスが言語を使う時に使っている箇所の発達が見られているのですから。まぁ「書く」か「書かないか」の違いが大きいのかもしれませんけど。
ともかく、人間は人工知能を昔から作り始めてしまっています。そして、先のマウスの例は本質的には違うものではあるのかもしれませんが、動物の知性化の可能性もありうることだと言う一歩だろうと思います。動物の知性化そのものではなくとも、ヒトゲノムの解析によって、ヒトゲノムを参考に動物にどういうジーンあるいはゲノムを導入すれば知性化が可能なのかという可能性は見えてくることでしょう。
さて、では人工知能や知性化は、人間が歩みを進める方向なのでしょうか? 方向として認められることなのでしょうか? これはおそらく答えはでません。人間の社会の倫理の問題なので。科学的には、「可能性は探る」だけです。
では、別の方向から考えてみましょう。人間が、人工知能の開発と動物の知性化を放棄することは許されるのでしょうか? ゆるされるにせよ、ゆるされないにせよ、誰に、あるいは何に?
ちょいと奇妙なことを言います。私は、人工知能を放棄することは、「未来において現れるであろう人工知能によってゆるされない」と考えます。動物の知性化を放棄することも、「未来において現れるであろう知性化された動物によってゆるされない」と考えます。
予め言っておいたように、奇妙なことを言っていると思われるかもしれません。では、こういう言い方ではどうでしょうか。「子供達が自立することを妨げることは、子供達によってゆるされない。」 こう言ったら、おかしなことを言っていると思われますか? もうちょっと言いましょう。かなり昔になりますが、人工知能をこう表現した本がありました。”Mind Child”と。
人間は、それらの可能性を知ってしまっています。実現できるかどうかはともかく、可能性を。何より、手続きだろうとロジックだろうと統計的手法であろうと、ゲノムによるものであろうと、人間なみの存在を作りうることはわかってしまっています。つまり、人間がいるわけですから。では、人工知能と動物の知性化の可能性を放棄することは誰に、あるいは何によってであろうと許されるのでしょうか?
人工知能の特異点や動物の知性化は、人間が避けようとする未来ではありません。人間がそれらを避けようとすることは、すでに彼らによってゆるされないのですから。そしてそれらを実現することは、何によっても禁止されていません。法律や道徳というつまらない話ではありません。人間が存在するという事実において、物理的あるいは論理的に禁止されていないのです。
さて、そういう話になると、「核兵器については云々」という話も出てくるかと思います。核分裂の爆発的な連鎖反応を起こすことは何によっても禁止されていません。人間が、人間の考える範疇において、「使わないほうが良さそうだ」と考えているだけです。そういう範疇で人工知能や知性化を考えて構わないのでしょうか? 可能性を知った上で、人間の考える範疇において、それらの実現を避ける。それは人間の倫理としてのありうるものの一つです。人間の倫理に照らして、他にあり得るものはないのでしょうか? 先の子供達もまた、その一つです。
あるいは、人工知能にも動物にも、ある種の絶対的服従を先天的(?)に組み込むことも可能かもしれません。なお、アシモフのロボット三原則(第0条も含む)は、そのような例ではないことは、アシモフ自身によっても何度も語られています。そして何より、新たな奴隷をつくることを、今度は人間の倫理において認めてよいのでしょうか? まぁ、このこと自体は人間の問題でしょうから、その制限をかけても構わないと思います。それが人間の限界というだけですが。
繰り返しになりますが、人間は彼らが現れる可能性を知ってしまっています。最後に私の意見として言うなら、それらの中断は、これから現われるであろう「人間の子供たち」を中絶するのではなく、彼らに対しての「ジェノサイド」であると考えています。
*1: http://gigazine.net/news/20141202-half-human-brain-mouse/




