言葉の科学 ―― 「儂(わし)」や「なのじゃ!」はどこの言葉なのか ――
「言葉の科学」については、続けてではないと思いますが、いくつか書くと思います。少しネタを持っているので。
んー、ちょっと前に「方言萌え」というようなことがあるという話を聞きました。私は正直萌えませんが。聞き取りも理解もしにくいだけだから。
それは置いておいて。今回はあまり科学っぽくありませんが、ある意味、あとへの伏線でもあります。
小説に限りませんが、老人が使う言葉として「儂」や、「なのじゃ!」というようなものがあります。少しそれについて考えてみましょう。
関東近辺に住んでおられる方に質問します。あなたの祖父は、そういう話し方をする、
あるいはしたでしょうか。するかもしれませんが、たぶん、あまりしないのではないかと思います。
言葉には方言の3つの分類があります。あるいは分類の基準が3つあります。まず、地域。そして時代。最後に社会です。
地域は簡単です。「関西」とか「大阪」とか、そういう地理的な距離によって言葉に違いがあるということです。
時代も簡単です。古文て、すぐさま楽々と読むことはできませんよね。今の言葉と少し違います。そういう時代的な距離によって言葉に違いがあるということです。
社会は、単純な話なのですが、少し面倒な面もあります。かならずしもそれに限定した話ではないのですが、例えば人が属している社会的な位置によって、使う言葉は違います。ほら、身分差別だとか職業差別だとかいうことがらが頭に浮かびませんでしたか? だから説明するのはちょっと面倒だったりします。差別のような意図はなく、「使う言葉に違いがある」とだけ言いたいのです。もし余計な考えが浮かんだ方は、その余計な考えを捨ててください。小学生が使う言葉と中学生が使う言葉は少し違うよね、という程度のものもここには含みますので。
さて、日本語のいわゆる共通語、あるいは標準語は、江戸山手言葉をベースにしています。そこに「儂」とか「なのじゃ!」という言葉があったかというと、たぶんありませんでした。
ちなみに、江戸下町言葉、特にその職人言葉については「あんどーなつ―江戸和菓子職人物語」全20巻 〔西 ゆうじ (著), テリー山本, 小学館〕を読んでみてください。
話を戻して。
幼児の言葉、子供の言葉と、大人の言葉はそれぞれそれなりに違います。では大人の言葉と、壮年あるいは老人の言葉はそんなに違うものでしょうか。
まず、違いが現われる可能性としては、筋肉の衰えと、口内、とくに歯の状態や有無による影響でしょう。その場合、「なのじゃ!」の「じゃ」っていう音が問題になります。そのあたりに引っかかるんですよね。単純に言えば、筋肉が衰えていたり、歯がなかったりすると出し難くなる言葉です。老人になってから、わざわざそういう音を使うようになるかなぁと。
あるいは「なのだ!」の「だ」の発音の怠けで「じゃ」になることはあるかもしれませんが。でも歯のあたりが引っかかります。
もちろん、江戸山手言葉をベースとした日本語でも「〜なんじゃ?」という言い方はします。でもそれは「〜なんじゃないの?」の「ないの」を省略した言葉です(「〜なんじゃないかな?」というのもあるでしょう)。老人の言葉というわけではありません。
ですが、小説などにおいては「儂」や「なのじゃ!」が、話している人が老人であることを示すものとして使われることが多いように思います。いや、実際には多くありません。「小説家になろう」ではよく見るように思うという程度という話です。
なぜ「儂」や「なのじゃ!」が、話している人が老人であることを示すものとして使われることが多くなったのでしょうか。細かい話は検索できるので置いておくとして、明治時代にその起源があるという説があります。というのも、政府に長州とかからの人が多かった。そこで「偉そうにする人」→「老人は偉そうにする」→「老人が使う言葉」という流れであるという説です。ですので、それなりに歴史がある使い方と言えば、そうかもしれません。
「儂」や「なのじゃ!」は、地域、時代、社会を跨いで、今の使われ方になった言葉なのでしょう。