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科学的であるということ

 そろそろ書こうかなとは思っていたのですが。耳について書こうかとも思ったのですが、ある方に情報提供しているため、こっちで書いちゃうのもどうかなと思って。まぁCyberpunk 2013なんかもある方に情報提供してましたが、こちらで書いてしまいましたが。[*1]


 科学エッセイと名乗ってますので、いつかはこれに触れないといけないと思っていました。


 「科学であることは」という質問は、あまり意味をなさないように思います。それはある意味で権威主義、あるいは権威主義的だとも言えます。というのも何かを「科学である」と言うためには、その何かがすでに科学であると「認められている」必要があるかと思うからです。それでは、「科学とは、科学と認められたものである」という、意味のないループになってしまいます。あるいは特定の何かがあれば科学であるという場合も、その何かによって科学とされるわけですから、あまり状況は変わらないように思います。

 むしろ、「科学的であること」とはどういうことなのかを考える方が現実的ではないかと思います。もちろん、この条件でも考えるのは難しいのですが。


 「科学的である」と言える条件として、皆さんはどういうものを思い浮かべるでしょうか。客観性、再現性、反証可能性というあたりではないかと思います。

 では、説明が簡単な順番に説明を試みてみようと思います。


 「反証可能性」は、まだわかりやすいとともに、確かに重要な条件です。科学に対するものとして宗教が引き合いに出されることもあるかと思います。あるいは、実際には宗教というよりも似非科学と言う方が適切かもしれません。例えば「クリスチャン・サイエンス」と呼ばれるものや、「創造科学」と呼ばれるものがあります。これらは「全能の神」を前提としています。その前提は「全能」であるがゆえに、反証を許しません。どういう質問をしても、どれだけ問い続けても「神の思し召し」で行き止まりになってしまいます。そこで行き止まりになることが、「反証可能ではない」ということです。

 この話だけ読むと、「確認された物理法則についてはどうなんだ?」と思われるかもしれません。科学史を見ていただければわかりますが、「もう確からしい」と思われる事柄についても、何回も何回も実験が行なわれ、確認され続けています。これは確認するためという面もまったくないとは言いませんが、「本当にそうなのか?」と問い続けているのです。この「問い続けている」というところが重要です。科学的であるということは、「問い続けること」を禁止しないのです。それが、「反証可能性」と言えるでしょう。もしかしたら何かが見付かり、反証がなされてしまうかもしれません。


 ですが、「その何かを見付けた」、あるいは「新しい何かを見付けた」と言ったとしても、そう言っただけでは、それが科学的な成果になるわけではありません。まず第一に、その主張そのものも反証可能性の対象になります。第二に、そのためには、「その何か」や「新しい何か」を、他の人が確認できなければなりません。確認と言っても、反証可能性が前提としてありますから、他の人が反証を見付けてしまうかもしれません。「他の人が確認できること」というのはその場合も含めて、どういう結果であれ、ある人が言ったことを確認できることという意味です。これが再現性になります。「再現性」という言葉だけだと、「再現できること」と思われるかもしれません。もちろん再現できるにこしたことはありませんが、「再現できないこと」が確認できるのでも、あるいは再現できないだけではなく「それ以外の何か」が見付かるのでもかまいません。

 そのような再現性を確認するためには、実験や観測、観察の手順が明らかでなければなりませんし、さらにはそれらで用いる条件や手法、そしてそれらについての考え方がはっきりしていなければなりません。まぁ、はっきりしているだけでは不十分で、それらが妥当であることも必要ですが。この「それらで用いる条件や手法などの考え方」というところ、大事です。


 さて「客観性」です。上で「では、説明が簡単な順番に説明を試みてみようと思います」と書いておきました。「客観性」が最後に来るというのは、「客観性」の説明が面倒だからです。もしかしたら、意外に思われるかもしれません。

 では「客観的である」とはどういうことでしょうか。国語辞典では例えばこんな説明があるのではないかと思います(特定の辞書には依りません):

  * 主観とは独立に存在するさま

  * 誰もが納得できる立場から見るさま

 これから、どのようなことを思い浮かべるでしょうか。

 例えば、測定器のデジタル表示の数字の並びなどを思い浮かべるかもしれません。「デジタル表示の」と書きましたが、これは別に本質的なところではなく、アナログ表示を目視したものでもかまいません。どっちにしろ誤差はあるのですから。

 さて、ではそういう数字の並びは客観的なものなのでしょうか。「データと情報」[*2]に書きましたが、それはまぁだいたいデータです。それは確かに「主観」ではないかもしれません。ですが、それは「客観」でもありません。言葉で言うなら、そこには「観」がないからです。言うなら、データは主観的でも客観的でもなく、ただのデータなのです。あるいは、データを統計処理した結果、例えば有意差の有無もただのデータです。

 では、データから言える「情報」についてはどうでしょうか。データを解釈しているわけですから、そこには主観も入れば、客観も入ります。「知識」についても同様です。いずれの場合も「観」が入らざるをえません。「観」が入ったら、結構「主観的」なんじゃないかと思われるかもしれません。ここがですね、説明が難しいところなのです。

 「ロボット心理学者」[*3]にて「ヘテロ現象学」という言葉を使いました。デネットが使っている言葉です。ヘテロ現象学というのは、いわゆる精神現象学に対して言っている言葉であり、手法です。そっちの方面で考えると話が面倒になるので、ちょっと別の例で書いてみます。

 そうですね。例えば誰かの「日記」があったとします。さて、その日記は主観的なものでしょうか、それとも客観的なものでしょうか。主観的と思われた方、残念ながら外れです。客観的と思われた方、残念ながら、やはり外れです。それはただの「日記」であり、データに過ぎません。そこには主観も客観もありません。今、言っていることがわかりにくとしたら、こう考えてみてください。その「日記」や、日記に書かれている「文字列」などは、明らかにそこに存在しています。「日記」や「文字列」自体は「ただ存在する」のであり、主観的でも客観的でもありません。あえて言うなら、その「存在」自体は誰でも見えるので、ある意味では客観的と言ってもいいのかもしれません。

 では、その「日記」の中身を解釈なりなんなりしたとしましょう。その解釈とかは主観的なものでしょうか、それとも客観的なものでしょうか。主観的と考えた方、残念ながら外れです。客観的と考えたかた、やはり残念ながら外れです。これは解釈が入った状態としていますので、「存在」自体とは話は違いますが。どのように分析したのか云々によって、その結果は主観的にもなれば、客観的にもなります。


 ちょっと寄り道をしましょう。

 日本語でも英語でも、「ある文が受け入れ可能か」というテストをしたりします。「ある文が受け入れ可能か」どうかなど、個人の言語感覚に頼るしかありません。他の方法があるなら、言語学上の大発見ですので、ぜひ発表してください。まぁブレインプロジェクトとかの結果で、何か見付かるかもしれませんが。

 おっと、「日本語の文法だとこうだ」とか「英語の文法だとこうだ」という主張は、(現代の)言語学は受け付けません。それらのいわゆる文法には則っていない文についても、「それが使われているのであれば、それも含むものがその言葉だ」というのが(現代の)言語学の立場だからです。これは(現代の)言語学が取っている「条件や手法などの考え方」です。ですから、いわゆる文法に基いて「その文は駄目だ」と言うのであれば、(現代の)言語学とは別の立場から主張してください。そういう知見が科学的に述べられたのであれば、(現代の)言語学も、もしかしたらその論考を参考にするかもしれません。

 ですが、単に「文法がこうだからその文は駄目だ」と言うだけであるなら、それは「(その言葉の)文法」という反証を認めないものを設けていることになります。それは科学的とは言えない条件や手法や考え方となります。ここについて科学的な条件や手段や考え方としては、とくに考え方としては、「なぜそういう文法になっているのか」と問うことになります。


 日記に話を戻します。日記の分析にもいろいろなやり方があります。「計量文献学」という、統計的な処理を行なう分野もあります。ですが、日記を分析したいという場合、日記の統計的な特徴を見ることができたとしても、あまり嬉しいとは思えません。いや、もちろん「この日記を書いた人は誰か」とか「日記の文体の分析」とかはありますけど。それとは別に「内容」も分析したいと思うのではないでしょうか。ここで「それらで用いる条件や手法などの考え方」がはっきりしており、できるなら妥当ならば、その「内容」の分析や解釈は客観的なものとなります。なぜなら、どのような考えで、どのように分析したのかが明らかで、できるなら妥当ならば、誰でもその分析の過程を再現可能だからです。

 つまり前提と過程が論理的であったり合理的であった上で、前提と過程と結果を共有できるのであれば、その前提と過程と結果は客観的と言えるでしょう。

 先にも書きましたが、ヘテロ現象学は、精神現象学に対して言われている言葉と手法であり、アプローチを行なうものです。このアプローチは少なくとも人間の精神活動を相手にする場合には身に付けておかないといけない必須の技術です。精神活動と言ってもいわゆる言語処理も音声の処理も、視覚の処理も、ともかくそういうものはすべて引っくるめてです。


 客観的とはどういうことかを説明するのを最後に持ってきた理由をわかっていただけたでしょうか。客観的、あるいは客観性という言葉こそが説明が面倒なものなのです。

 ですが、もう100年も前に科学はそういうところに至っています。「言葉」だけではなく、ディラック方程式における「ローレンツ対称性」、超ひも理論における「10次元以上という次元」、質量の起源となる「ヒッグス粒子」あるいは「ヒッグス場」なんかも、そういう例です。

 データは誰が見ても、例えば同じ数字の列に見えるでしょう。ですがそれは主観、客観以前の存在です。いわば存在しているだけの存在です。データを見ただけで何かを言うのだとしたら、それは「客観的」なのではなく、「表面的」にすぎません。そこを勘違いしている人が多いように思います。その段階から科学的な考え方や見方に移っていくのは大変だろうなと思います。


 このような「客観的」という考え方は、科学的であろうとするのをある意味では難しくし、ある意味では容易かつ楽しいものとしています。なぜなら、「設定が結構自由だから」です。

*1: 「VRMMOそのものを否定してみる」(http://ncode.syosetu.com/n7047cq/)

*2: 「データと情報」(http://ncode.syosetu.com/n9931cp/11/)

*3: 「ロボット心理学者」(http://ncode.syosetu.com/n9931cp/15/)

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