ロボット心理学者
アジモフのロボットもの、特に「我は、ロボット」と「聖者の行進」で、スーザン・キャルヴィン博士の職業は "ロボット心理学者"でした。あるいは "ロボ心理学" でした。「ロボットの心理学?」とおかしく思われる方もいるかもしれません。
さて、私が「考え方(「ロジック」)は1つなのか?」と「人間は考えているのか」と「人格の転写とか、知能の転写とか」あたりで触れた事柄があります。大雑把に、「人間が考えていると思っている事柄は、『実際に考えている』のか。それとも『考えているという幻想』なのか」というような話です。
その上で、次の本を挙げます。
「真空の海に帆をあげて(12 アシモフの科学エッセイ)」アイザック・アシモフ(山高 昭訳), 早川書房, 1988.
この中の「33. 新しい職業」(pp. 146–149)にてキャルヴィン博士をひき、こうあります。
『もっとも、知能と思えるやり方で仕事ができるロボットを設計し制作しても、彼らが人間と同じかたちで知能を持つことは、まずありそうもない。第一に、彼らの "脳" は、人間の脳にあるものと違う物質でつくられている。第二に、彼らの脳は、別の構成要素をつなぎあわせて組み立てられ、別の方式で組織されていて、(おそらくは)まったく別の方法で問題に取り組むのである』
サールの中国語の部屋という思考実験においても言えることですが、「考えるという機能」を「考える機関」であるとか、それを成する物質とか、構成要素のつなぎ合わせ方とか、考えることのやり方に帰結させることはできない、あるいは少なくとも難しいように思います。考えるということは、おそらくハードウェア――人間であれば脳というウェットウェア――の問題ではなく、ソフトウェア――ウェットウェアにはある程度ワイアードですが――の問題だろうと思うからです。ですが、やはりロボットはおそらく人間とは「まったく別の方法で問題に取り組む」であろうとは思います。人工知能において、はじめは記述できると考えていたのが、むしろ統計を使う方が良いものができるという流れになったように。もちろん、統計のモデルとして獲得したものが、人間の知能と関係あるのか、それとも実は関係ないのかはわかりません。これからより深いレベルでの検討が必要でしょう。
そして、こうもあります。
『なぜなら、根本的に違う二種類の知能を詳細に研究すれば、いま可能なよりもはるかに一般的かつ本質的に知能を理解することを学ぶかもしれない』
もしかしたら、そうなのかもしれません。
そしてロボットの知能のあり方が人間と違うのであれば、まさしくロボット心理学者も必要でしょう。あるいは、さらに「普遍心理学」とでも言えるような、脳やそれに類するもの包括的な働きを考えることも可能になるかもしれません。(「一般心理学」という言葉を使いたいと思ったのですが、そういう言葉は既にあるようなので、若干違和感はありますが仮に「普遍」という言葉を使っておきます。)
仮にロボットによって人間とは違う知能のあり方が――それも十分に発達した知能のあり方が――実現されたとしましょう。そうなって初めて、少なくとも今よりもはっきりとした、「知能、あるいは知性とはなにか」を考えることができるのかもしれません。
さて、上に引いたものからもわかるかもしれませんが、アジモフの作品においてキャルビン博士がやっていることは、いわゆる心理学というよりも精神分析、あるいは分析心理学に近いものです。そこを知らなかったアジモフであるはずがありません。では、なぜそれであっても、それらを "ロボ心理学" と名付けて、そして扱ったのでしょうか。
ちょっと、ここで説明が必要かもしれません。
20世紀の心理学は、いわば「行動主義心理学」の時代でした。そこでは、心というものは実は対象としていません。心理学であるにもかかわらず。少なくとも直接的、あるいは表面的には。あくまで行動や、反応を見ます。
それに対して精神分析、あるいは分析心理学では、心の働きを見ようとしました。フロイトとユングという巨人がとったアプローチが、それぞれどの程度妥当なものなのかはわかりません。個人的には、フロイトは性にこだわりすぎており、ユングは言葉としての表現のしかたがよくなかったとは思います。
20世紀の終りあたりから脳科学が非常に進歩しました。fMRIでの様々な観察も行なわれました。あるいは、行動主義心理学の限界があったからなのか、そういう話とは関係ないのか、それはわかりませんが認知科学も発達しました。
もちろん、チョムスキー系の統語理論、構造主義による物語や文化の分析も無視できないでしょう。
仮にユングが、今、現われたとしましょう。彼はどういう言葉で、何を語ったでしょうか。単純な好奇心として、そこを知ることができたらなと思います。おそらく、極めて常識的、あるいは際だってはいるものの、オカルト的なものと誤解されることはないようなことを言ったのではないかと思います。例えば、「集合的無意識」というようなものがあります。これは人間は無意識でテレパシーのように繋がっているという、オカルト的な解釈がされることがあります。あるいは「元型」はどうでしょう。これも誤解される面があるようにおもいます。もちろん、ユングがそのような言いかたをしたのには、当時は人間の脳は、あるいは新生児の脳は「タブラ・ラーサ」であると考えられていたことも関係していたのでしょう。タブラ・ラーサであるという考え方であれは、テレパシー的なという解釈も出てくるかもしれません。ですが、現在の状況で考えてみましょう。脳はタブラ・ラーサではないことがわかっています。つまりユングは集合的無意識にしても元型にしても、「ホモ・サピエンスなんだから、同じ脳機能を持っていると想定してみよう」と言っただけなのです。ユングも実際にそういう旨のことを書いていたように思います。ユングはオカルティックな人と思われる場合もあるようですが、そうではありません。彼は、オカルティックな事柄も人間の心の働きから生み出されたものとして、研究対象にしたにすぎないのです。
では、話を戻して、アジモフはなぜキャルビン博士に分析心理学的な立場を取らせたのでしょうか。
確かに行動主義心理学と統計学、さらには情報工学、情報科学は、心の中の働きまでは考慮しなくても知能を実現できる可能性を示しました。行動が知的であるならば、そこには知能ないし知性があるという考え方です。
心の中にまで実際に踏み入ることは、現在でもまだ不可能です。どこかの段階で、「ここから先はわからないけれども……」として扱わなければならない場面が出てきてしまいます。ですが、ユングはその点についての仮説を立てたにすぎません。現時点では、「ここから先はわからないけれども……」の先に、ユングの仮説の適用を試みることを否定する根拠は、私には見付けられません。
あるいは、「プロップのファンクション」と呼ばれるものがあります。これはロシアにおける、魔法が現れる昔話から、その特徴(?)を多少抽象化して得られたものです。ハリウッド映画で使われているという「ビート・シート・メソッド」はそれに影響を受けているように見える箇所が散見されます。また、そのためとも言えるでしょが、昔話とは関係の無い多数の映画にもプロップのファンクションを適用して分析することが可能です。では、プロップのファンクションとして抽象化できるような物語がなぜ存在するのでしょうか? 仮説として簡単なのは、「人間の脳はそういうものを好む傾向がある」というものでしょう。そして、そこには少なくともユングの元型は間違いなく関係しているはずです。
「ここから先はわからないけれども……」の先に進むとすれば、行動や反応だけでなく、自己についての言及も重要な要素となります。なぜなら、私たちが知っている「知性や心の働きを確認する方法」は、自身による言葉による言及に頼らざるをえないからです。これは、デネットが言う「ヘテロ現象学」とも関連します。仮に何らかの質問に対しては、このように答えるとプログラムされていたのだとしても、私たちはそれゆえにという理由でそこに知性や心の働きが存在ないと言ってしまえる根拠を持っていません。ただの単純なプログラムであったとしても、自分について言及するのであれば、その言及を検討のための試料として使わざるをえません。その際には、まさしくヘテロ現象学的な方法が必要されるでしょう。
アジモフが行動主義心理学を知らなかったとは極めて考えにくいのですから、キャルビン博士が分析心理学的な方法を取っているように思えるのだとしたら、そこにはアジモフの意図があったはずです。おそらくは、「行動主義心理学だけでは問題を解決できそうにない」と考えていたのだろうと推測して構わないだろうと思います。
では、ヘテロ現象学的な手法を取り入れた "ロボ心理学"、あるいは普遍心理学の構築が始まっとしましょう。いえ、現実にBina48やlifenautが現われてきている現在、もうそれは始まっているのかもしれません。彼女たちに心はあるのでしょうか?
今、「彼女たちに心はあるのでしょうか?」と書きましたが、それは誰にとって問題となるのでしょうか? つまり、彼女たちに実際に心があるのかどうかは問題ではないのかもしれません。「彼女たちに心があると、私たちが納得できるか否か」というだけのことなのかもしれません。だとしたら、普遍心理学は彼女たちのためのものなのでしょうか。それとも私たちのためのものなのでしょうか。もちろん彼女たちの役にも立つでしょう。しかし、むしろ私たちを丸め込むための心理学としてこそ必要なのかもしれません。まさに、「新しい奴隷」を生み出さないためにも、普遍心理学は急いで構築される必要があるのかもしれません。
「ランドスケープと夏の定理」にある「知性定理」がまず実現されるとしたら、もしかしたら普遍心理学の世界においてなのかもしれません。