脱分化
「脱分化?」
「ええ、私達エターナルは何かのきっかけで共鳴を起こすと次々に体細胞が異常増殖してしまいます、そして本能のまま行動する新しい生き物『変化態』になるのです。あなたがた人類はそれを癌が低分化となって悪性度を増していく様子になぞらえ脱分化と名付けました」
真一は以前図書館の本で見た、薄気味の悪いエターナルの姿を思い出していた。
複数のエターナルが溶けだして融合してまるで巨大なアメーバ―のようになったもの。
全身から棘が出て、ウニのようになったもの。
まるで干からびて割れた大地のような皮膚から、触手が出てのた打ち回っているもの。
他にも、その本には鳥に似たものや動物に似たもの、など様々な形態を呈する異形の怪物が描かれていた。その注釈には、軍隊はエターナルの10倍の数が居たにも関わらず、一瞬のうちに壊滅したと書いてあった。
「化け物……」
「そう思っていただいても構いません、事実われわれの理性は増殖の本能に逆らえないのですから。でも、私達もまた人類であることに変わりは無いのです」
傍らで拘束されている父の唸り声がする。
「どうするんだ、僕らを。殺すのか?」
「まさか、そのようなことはしません」
「じゃあ、早く元の場所に返せ」
貴志は静かに顔を横に振った。
「もうあなた方はもとの社会には帰れません。帰ったとしても、私達に加担した裏切り者として殺されるか、収容所に送られるだけです。このまま私達と生活をともにしてください」
「お前達さえ居なければ……妻は死なずにすんだ、なぜ私達を巻き込んだ」
父親は長髪の青年に怒鳴る。
「仲間を匿っていただき、感謝しています。奥様の事は、どれだけお詫びをしていいかわかりません。でも、あきらめてください。もとの生活にはもう返れないのです。」
「うるさい、この人殺しの化け物ども。妻を返せ」
真一の父は猛然と身体を震わせると、エターナル達の手を振りほどいて貴志に殴り掛かった。
唸りを上げた拳が空を裂く。
しかし、貴志は軽く拳をかわすと、その長い指で襲撃者の顎の下を掴んだ。
ぐえ、という短い叫びをあげて、父親は金縛りにあったように動きを止めた。
相手の動きを封じたにも関わらず、貴志はまるで時間が止まったかのように容赦なく首筋を締め続ける。
貴志の顔は先ほどまでとがらりと変わった能面のような感情の無い顔になっていた。
ついに父親は、大きく痙攣し始める。
その瞬間、はっというふうに慌てて手を引っ込める貴志。
崩れ落ちた身体が床にはねて、大きな音を立てる。
真一を押さえつけていたエターナルの力が緩み、彼は父親に駆け寄った。
白目を剥いた父親は、口から泡のような物を垂らしピクリとも動かない。
「父さんっ」
父親に取りすがり、真一は大きくその筋肉質の身体を揺さぶった。
「す、すまなかった」
貴志が慌てた様子で、床に横たわる男の胸に顔を当てる。
彼の細い眉が痙攣したかのようにピクリと動き、いきなり重ねた両手で男の胸を押さえ始めた。そして鼻をつまみ、大きく吸った息を無理やり開けた口に吹き込む。状況を察した傍らの男たちがすぐに胸の圧迫を始め、貴志は自らが昏倒させた男の顎を片手で支え、のけ反らすようにしながら一心不乱に息を送り続けた。
「心臓が止まったの?」
ただならぬ様子に真一の顔面も蒼白になる。
「お父さん、僕を、僕を置いて行かないでっ」
なす術も無く震えながら少年は父親の耳元で叫ぶ。
不意に彼の視界に映るものが、不透明なベールに包まれたかのようにぼやけ始めた。
視界ばかりではない、水中に潜ったかのように人の声まで遠くで聞こえる。
自分がどこか遠くに隔離されてしまったような、まるで時間がそのまま止まってしまったかのような感覚。
そこから彼を引き戻したのは、低い吐息だった。
「息をふきかえしたぞ」
エターナル達の歓声の中、赤い顔をして貴志が肩で息をしている。
「お父さん、お父さん」
しかし、真一の呼びかけにも父親の身体は微動だにしない。
だが、意識は戻らないものの規則的な呼吸が戻ってきたのを見て、真一はぼろぼろと涙を流した。
「悪かった、ちょっと絞め方が長すぎた。そのように訓練されているので……」
傍らに跪いた貴志が申し訳なさそうにつぶやく。
真っ直ぐな長い髪に、切れ長の優しい目、そしてすっきりした形の良い鼻。日本人的な顔をしているが、その陶器の様に白い肌があきらかに現人類との違いを告げていた。
「貴志、クイーンが呼んでおられる」
この騒ぎを知らなかったらしい、別な仲間が辺りを怪訝そうに見回しながら戸口に顔を覗かせた。
「ええ、すぐ参ります」
申し合わせたように他のエターナル達も戸口からそそくさと出ていく。
最後に部屋から出て行きかけた貴志は、振り向くと真一に話しかけた。
「こんな事になってすまなかった。でも、君の勇気ある行動にはエターナル全員が感謝をしている。そして君もまた僕達の希望……」
そこまで言いかけて、青年ははっと口をつぐむ。
真一も思わず貴志を見つめる。
「僕も? 希望? なぜ」
答えを求めるように見返してくる真一を避けるように、貴志はくるりと身を翻しドアに身を滑り込ませた。
その背中からはらりと何かが落ちる。
何の気なしにそれを拾った真一は、息を飲んだ。
黒い巻き毛。
それは、真一が炎の中から救い損ねた少女のものと似ていた。
昼まで、真一は無言で母親のそばに座って居た。
疲れと衝撃で少年の頭はまるで霧がかかったようにぼんやりとしている。
父親はまだ目を覚まさない。
戸口には朝持ってこられた粥がそのまま手つかずで置いてある。光の当たりぐあいによって表面には埃が浮かび上がって見えた。
「すみません、入りますよ」
ノックとともに閂をはずす音がして、盆を持った小柄なシルエットが戸口に現れた。
男だと戦意を高めると思ったのか、食事を持って来たのは真一より少し年上くらいの少女だった。少女は真一に新しい粥の乗った盆を押し付けるようにして渡すとすぐにドアを閉めようとした。
「ま、待って……」
少女はびくりとして、動きを止めた。
「君もエターナルなの?」
彼女は言葉は出さずに、こくりと顔を縦に振る。
「荒木、荒木さんの事を知らない?」
動揺したのか、大きくかぶりを振るとまるで何かを断ち切るかのように少女はドアを閉めてしまった。
ガチャリ、カギをしめる音が部屋の中にも響いてくる。
ほのかに温かい粥の椀を持ったまま、真一は傍らの父を振り返った。
この海の上から、昏倒したままの父を連れて逃げることはできない。
自分達を殺す気はない様だ、今は、大人しく従うしかないだろう。
自分が強くならなければ。
自らが家庭に招いた災厄の償いができるとは到底思えなかったが、彼は自分が現実から目を背けて絶望の淵に沈むのを許せなかった。
辛くても、この現実に立ち向かわなければ。
真一は、貼りついた唇をゆっくりと開き、粥を口に運んだ。
こんなに重い気持ちなのに哀しいほど身体は正直で、粥を飲み込む喉は待ち受けていたようにごくっと大きな音を立てた。彼は、手を付けていなかった埃をかぶった冷たい粥も喉に流し込んだ。
粥が胃の腑に落ちるとともに、彼の頭の中の霧がだんだんと形を取り始めた。
それはおぼろげな塊であったが、そのまま頭の中から消し去る事ができなかった。
何かがおかしい。
何か、重大な秘密が隠されている。
それは、他でもない自分の事であるような気がして、真一は粥を口に運ぶ手をはたと止めた。