悪夢
「たかむらくん」
まるで校舎に差し込む夕日のようなオレンジ色が目の前に浮かび上がる。
何処からか、心を包み込むようなほんのりと甘い声が聞こえた気がして、真一は声にならない声をあげた。
闇の中に現れた光に導かれるように、彼の意識は急速に夢の中から浮かび上がる。
夢の残像は、誰も居ない教室。
中身は思い出せないが、胃のあたりの重さと目に残る涙が楽しいものではなかったことを告げていた。
ここは……。
眼を開けると、真一の視界に揺れる光の輪が飛び込んで来た。
ランプだ。天井に見慣れない小さなランプが下がっている。
それは規則的に円弧を描き、この場所自体が揺れていることを教えていた。
敷かれたむしろを通して背中に固い床の感触が伝わって来る。
聞こえてくるのは規則的な水音と、ふいごを吹く様な絞り出すようなかすかな……風音?
どうやらここは水の上らしい、自分は船に乗っているのか。
その途端、酷い頭痛とともに母の悲惨な姿が鮮明に蘇り、彼は跳ね起きた。
これは夢だ。
悪い夢だ……。
急速に意識の中になだれ込む現実に、呆然とする真一。
「起きたのか」
部屋の隅の陰に溶け込むようにして坐っている塊が低い声を発した。
「お父さん、お、お母さんは」
殴られて血を吐く父。そして目の前に落ちた、母の眼球。
あまりにも残忍なそのやり口に、公安の男に殴りかかった。までは覚えているがそのあとの記憶が無い。真一は唇を噛み締めた。
「お母さんは……」
父親は頭を垂れたまま無言だ。
その視線の先に、ぼろ布に包まれて小柄な体が横たわっていた。
顔の上にも粗末な布切れがかけてあり、血の臭いが漂っている。布の下から、あのふいごのような音が漏れていた。
ぜい、ぜい。静かだが、苦しげな母の息。
真一は全身を震わせながら這うようにして母に近寄った。
小さいランプが唯一の灯りで細かい部分がわからなかったのは、彼にとってせめてもの救いだったかもしれない。
だが、布や寝かされている床が血でべとべとに汚れているのは薄い光の元でも見て取れた。
腫れ上がった頬。肘から逆の方向を向いている右手。暴行は、真一が意識を失ったあとも続けられたのが明白だった。
「お、お……」
声が出ない。
「止めておけ」
布を取って顔を見ようとした真一を低い声が制した。
「見てやるな」
その布の下がどんなことになっているのか、想像するだけで真一の全身が切り苛まれる。
「少し前までお前の名前を呼んでいたが、もう、何も言わなくなった」
父は俯いて、息子のほうを見ようともしない。
真一はそっと母親の手を握った。
固まった血でがさがさの冷たい手。
痛かったろうに、苦しかったろうに。
自分が、荒木をかくまわなければ、こんなことにはならなかった。
最愛の人を地獄に追いやった衝撃が脳に突き刺さり、彼の心を硬直させる。
彼は無言でただ、ぶるぶると震え続けた。
部屋の片隅から、押し殺したような低い嗚咽が聞こえてくる。
ぜい……ぜい……。
どれくらい時間がたったろうか。だんだん呼吸の間隔が広がっていく。窓からかすかな光が射しこみ、彼らの居る場所の輪郭がぼんやり形を取り始める頃、呼吸音は消えゆく闇に吸い込まれるように止んだ。
これが夢であったなら、いや、これは夢に違いない。頼む、醒めてくれ。
自分を責める気持ちをどうすることもできず、ガンガンと真一は壁に頭をぶつける。
割れた額から生温かい物が流れてくる。
しかし、痛みは感じない。
神様。
もし、居るのなら、自分の命の代わりに母を蘇らせて。
頼む、悪いのは自分なんだ。
心の中で彼は叫び続けた。
「やめろ」
父親の声が響くが、真一は頭を打ちつけるのを止めようとしない。
「自分だけ逃げるつもりか」
搾り出すような父親の声。
ふと顔を上げると、血のような朝焼けに照らされた父親が真一のほうをじっと見つめていた。
黒い眼は、ただ深く、深く、心を刺すような光を発していた。
「食べ物と薬湯をお持ちしました」
朝焼けが朝の白い光に変わる頃、籠を抱えた長身の青年が部屋に入ってきた。
青年の目に飛び込んで来たのは壁にもたれる男とそして額から血を流し眼を腫らして母の手を握る少年。
二人の様子を見て、彼は小さく息を飲んだ。
「お亡くなりになられたのですね」
ごつごつの粗末な焼き物に盛られたお粥らしきものと匙、小さな魚の干物。そして濁った水。二人の前にそれを置くと、青年は遺体に向かって手を合わせた。
「お前らのせいだ」
いきなり黒い塊が、青年に飛び掛かる。
「お前らが私達を巻き込まなければ、こんなことにならなかった」
青年は予測していたように、身体をかわす。優しげな顔とは裏腹に武芸に秀でているらしい、後ろに束ねた長い黒髪が優雅に宙を舞った。
父親は戸の外にもんどりうって倒れ、床に薄い粥が飛び散る。
部屋の外には大海が広がっていた。
慌てて駆け寄る真一。
「お前は退け」
駆け寄る真一を煩そうに突き飛ばすと、再び父親は青年に掴みかかる。
青年は素早く背後に回ると、右腕を捻じりあげた。
「お父さんを放せ、お前は誰だ」
真一が叫ぶ。
「あのまま公安の手に渡していたら殺されるだけだという判断で、クイーンの指示であなた方を奪還しここにお連れしました」
青年は、息ひとつ切らしていない。
良く見ると細面のその顔は、貧血を起こしたかのように青白い。
「お前、エターナルなのか?」
青年は、真一の目を見据えて口を開いた。
「そうです。ですが、私はあなた方の敵ではありません。お母様をこのようにしたのは公安の連中です」
「違う、お前らが悪いんだ。お前らは癌だ、社会の癌だ」
身体を揺らし、抗う真一の父が叫ぶ。
体格の良い彼の動きにさすがの青年も持て余したのか、長い腕を父親の首に回しぎりぎりと締め上げた。
「止めろ」
真一は青年に噛みついた。
青年は身体を振って噛みついたままの真一を壁に叩き付ける。
物音を聞きつけたのか、数人の男たちが部屋に入ってきた。
「大丈夫ですか、貴志さん」
一様に肌の白い彼らは、たちまち貴志と呼ばれた男から真一を引きはがし、床に押さえつける。
「殺せ、殺すがいい」
父親の叫びに、貴志が静かに首を振った。
「いいえ、殺しません」
彼は目を閉じた。
「我々は、基本的に人を殺せないのです」
「嘘をつけ、悪夢の一世紀の間、お前達にどれだけ沢山の人類が殺されたか」
押さえられながら、真一が叫ぶ。
「それよりももっと多くのエターナルが無抵抗なまま死にました。我々は人を殺そうとすると、本能的に抑制がかかるのです」
青年は一呼吸置くと静かに口を開いた。
「脱分化しない限りは……」