裏切り
今回、次回はとても残酷な描写があります。苦手な方にはお勧めしません。
何かを約束した、のではない。
少なくとも言葉では……。
絡まった指先から伝わってくるひんやりとした感覚が、まるで電気のように真一の身体を痺れされた。
知らず知らずのうちに彼の小指に力が入る。
守りたい……僕が守る。
母親の心配そうな顔が一瞬頭をよぎったが、真一の理性などお構いなしに、彼の想いは指先を伝わって彼女の方に流れて行った。
早春とはいえ、夜はまだ寒い。
ちりちりと肌を刺す寒気のなか、親が寝静まったのを確かめると水の入った竹筒を持って真一は納屋に走った。
「高村真一君」
朝出会った公安の冷たい声が何度も頭の中で繰り返す。闇の中から不意に後ろから捕まえられる感覚にさいなまれ、真一は身を縮めて納屋の前にうずくまった。
細い月のわずかな光を頼りに、腐りかけた戸をあけて納屋の中にもぐりこむ。
「荒木さん」
小声で呼ぶが返事が無い。
寝ているのか。緊張の連続だったに違いない、無理も無いことだ。
「水を持ってきた、ここに竹筒を置いておくよ」
竹筒を置いて真一が納屋から出ようとしたとき、足元からかすかな声がした。
「高村君……、仲間が近くに居るの」
真一は貯蔵庫の蓋の隙間に顔を寄せて、思いを寄せる少女に問いかけた。
「仲間? エターナル?」
言葉に出してから、真一は自分の無神経なもの言いをしまったと後悔した。
「ごめん、ごめんよ、荒木さん」
蓋の下の小部屋にうずくまって数日を過ごした彼女は今どんな状態なのだろう。
天使のように優しく、可愛らしい少女が今直面している悲惨な状況は想像するだに気の毒で、真一は暗闇の中で涙ぐんだ。
暫くの沈黙の後で、真一はようやく口を開いた。
「僕に……」
言いかけて、真一は言葉を飲み込む。
これ以上かかわってはいけない。話題を出しただけでも血相を変えた母の顔が脳裏をかすめた。
母親の大切な嫁入り衣装が姿を変えた肉じゃがの味が舌に蘇った。
こんなことしている場合じゃない。自分を愛している人の意志に背くなんて。お父さんやお母さんにすぐこのことを言わなければ……、真一の心の中でもう一人の真一が叫ぶ。
お前は大切な親を裏切るのか。
だが、荒木はいつもいじめられる自分を助けてくれた。
その彼女が今、地獄のような場所で助けを求めている。
お前は彼女を見捨てるのか。
真一は、葛藤を押さえ込むようにぐっと両のこぶしを握り締めた。
固く結ばれていた唇が、ゆっくりと開かれる。
「荒木さん、僕にできることがあれば、なんでも言って」
息を飲むような声の後、途切れ途切れにか細い声が蓋の下から響いてきた。
「私がここにいることを、伝えて欲しいの」
「誰に、どうやって」
「仲間に……、学校に行く途中、奥まったところに土壁のある家があるわ」
「ああ、わかる、消し炭で落書きして怒られたことがある」
「あれが今回の私達の伝言板なの。仲間達は、きっと私を探している。だから、あそこにこの納屋の場所を書いて……」
「でも、公安達も見るかもしれない」
「大丈夫、きっと空が白むと同時に仲間がそれを見てここに来る。見た後は仲間たちがそれを消すわ」
「荒木さん」
暗闇のなか、真一はひざまずくような格好で蓋に口を寄せて呟いた。
「僕、僕は、荒木さんの事を……」
コトリ。
納屋の外で、何か音がした。
「だ、誰か来たの?」
少女の声が恐怖に震えていた。
「見てくる。大丈夫、風だよ。で、何もなければそのまま炭で伝言を書いてくる」
「お願い、気をつけて」
真一が戸を少し開けた時、心なしか東の空の闇が薄くなっていた。
誰もいないことを確かめて、納屋の中にある炭のかけらをつかむと真一は闇の中を走った。
土塀にたどり着くと、真一は手探りで柿の実の絵を描き始めた。
真一の家の納屋が建っているところの横に柿の木がある。
秋になると甘い実を沢山つける、ここらへんでは有名な一本だ。
みかんと区別が付かないような絵だが、その横に納屋のような形を描いた。
納屋の前のたまねぎ畑を横切るようにして走る小川の絵も描いた。
途中、なんども、エターナル達が出てきて取り囲まれる妄想や、公安に連行される想像をして真一は身震いした。
書き終わると、後ろを振り向かずに一目散に家に向かう。
どこからか、気の早い一番鳥の声が響いてきた。
そっと家の戸を開けて、布団にもぐりこむ。
学校があるから眠らなくてはいけないと思うのだが、興奮した真一はなかなか寝付けない。
荒木を探すエターナル達。
際限なく増殖をし、資源を食い尽くす、この世から撲滅せねばならない者達。
彼らは、真一の頭の中ではいつか図書館で見たかぶりものをした怪人の姿で浮かび上がっていた。
真一の頭の中に、被り物をして黒っぽい服に身を包んだエターナル達の一団の前に、金色の薄い光をまとい天使の羽根を背中に生やした荒木が立っている、そんな絵が浮かんだ。
そして、彼らと対峙するかのようにカーキ色の服に身を包んだ公安達が手に銃を持って少女に狙いをつける。
「やめてくれ」
いつの間にかうたたねしていたのか、全身びっしょり汗をかいて真一は起き上がった。
外はだいぶ白んでいるようだが、まだ朝にはほど遠い。
そのとき。
「きゃああああああっ」
納屋の方向から、少女の叫びが聞こえた。
直後に銃声が響く。
「なんだ」
父親の声。隣の部屋の親達が慌てて起きて来る。
真一は二人の部屋に飛び込んだ。
「あ、荒木だ、荒木の声だ。納屋にいたんだ」
「なんですって、エターナルの?」
母親の声が恐怖で引きつる。
「行かなきゃ」
布団から、飛び出す真一。
「待ちなさい」
捕まえようとする父親の手をかいくぐり、真一は外に飛び出した。
彼の眼に飛び込んできたのは……。
炎上する、納屋。
そして、火達磨になって納屋の周りをはじけるように動く小さい影。
「う、うそだ。あ、荒木っ」
近くの小川に誘導しようと、彼女に近づく彼を大きな手が羽交い絞めにした。
「やはり、知っていたな」
その声に、真一は凍りついた。
昨日の朝、声をかけてきた公安だ。
「やめてくれ、その子はなんにも知らないんだ」
父親が公安のたくましい腕にとりすがる、そのとたん、ばらばらと飛び出した若い男達が父親をまるで布切れのように公安から剥がすと、太い棒でぼこっと音がするほど殴りつけた。
口から血を吐いて、ばたりと倒れる父親。
「お父さん」
「あなたっ、私たちあの化け物たちとは関係ないんです。止めて、止めてくださいっ」
母も駆けつけて来た。
「止めろ、悪いのは僕独りだ。お父さんとお母さんは関係ない」
真一は涙で顔をぐちゃぐちゃにしながら叫ぶ。
自分はなんという事をしてしまったのだろう。
彼の頭の中には恐怖と後悔の嵐が吹き荒れる。
目の前で、炎に包まれた小さな人影が動きを止め、ばたりと倒れた。
そのまま固まりを包んだ炎は勢いを弱めることなく燃えさかる。
「全く、なんてことをしてくれたんだ」
公安の男は薄笑いを浮かべて、真一の胸倉を掴むと頭より高く上げ、そのまま乱暴に足の下にたたきつけた。
「お父さん、しっかりして」
痛みに全身を小刻みに震わせながら、なんとか立ち上がり父親のもとに向かう真一。
そんな真一に再び殴りかかろうとした若い男の足に、母親がすがりつく。
「邪魔をするな、化け物を救おうとしたこの裏切り者どもめ」
男の手刀が一閃した。
ぼとり。
と、何かが母親の眼窩から落ちた。
母親の右目から吹きだす血潮。
「やめてくれえええええっ」
朝焼けを少年の叫びが切り裂いた。
「で、クイーンは見つかったのかね」
くるりと椅子を回して、カーキ色の服に身を包んだ青年が入口に立ちすくむ部下に詰問した。
「い、え……」
詰問する青年の中央から二つに分けられた眼にかぶさるくらいの長さの髪は白い。
そしてその下の鋭い眼光は髪を通してすらも、見るものに畏怖を感じさせた。
「担当者としての能力に欠けるものは、私の部下としては失格だな」
形の良い赤い唇がぐっと歪んだ。
「あの狡猾で下劣な化け物どもを殲滅するのが私達の役目だ、そして能力のない部下もな」
部下の顔にはびっしょりと汗の粒が浮かび上がる。
「お、お慈悲を」
部下の口から搾り出すような声がもれた。
「高村隊長」
それが、彼の最後の言葉だった。