失踪
学校から荒木がいなくなって数日経つ。
土で塗り固められた粗末なバラックの横で一旦足を止め、真一は祈るような気持ちで周りを見回した。
いつもなら、このあたりで彼女が駆け寄ってくるはずなのに。
立ちすくむ真一の頬を朝のひんやりした風が何事も無かったように撫でていく。
「エターナルだったみたいよ」
昨日聞いた母親の言葉を打ち消すように、彼は何度も顔を振った。
実際に自分がこういう状況に直面するとは思ってもいなかった彼は、心の中から湧き上がる疑問をいまだ処理できずにいる。
エターナルはこの社会にいてはいけないものだ。
無限に増えて、地球を食い尽くす。
そう聞かされていた彼は、エターナルという生物をまるでモンスターのようなイメージで頭の中に焼き付けていた。いや、それは真一だけではない、彼の周りの小学生達も皆ほとんど同じ想像をしていたに違いない。
でも、荒木早苗はそんな化け物では無かった。
真一は彼女の白いふっくらとした頬と、伏し目がちな優しい表情を思い浮かべた。
彼女が休んだその日から、席は当然のように取り払われ、誰もその話題には触れようとはしなかった。先生も、親友も、そして自分も。
皆、親達からきつく言い渡されているのだ。荒木の事は学校の連絡網で各家庭に情報が回ったに違いない。
「荒木はどうなるの」
その質問をした時、母はジャガイモを剥いていた手をはたと止め、見たことも無いくらい激しい形相で真一をにらみつけた。
「外でそんなこと言っては駄目よ。子供が興味を持つことではないの」
目をむいた母の顔は見たこともないくらい必死で、何か大きな暗い闇に自分が近づくのを守ろうとしているのだと感じた彼はそれ以上の言葉を出すことができなかった。
「運動会で見た時、少し肌の色が白かったから変だとは思っていたのよ……」
「病院の血液検査で引っ掛かったらしいな」
「可愛い子だったのに、可哀相ね」
「まあ、奴らはガン細胞と同じだ。排除しないと宿主である地球のキャパなんてお構い無しに子供を作って増える。君だって、ガンがあったら治療に行くだろう」
「そうね、情けをかけると悪夢の一世紀がまた繰り返されるものね」
「奴らの大増殖さえなければ、資源も枯渇しないで、こんな退行した生活もせずにすんだんだ」
その晩眠れなくて起き出した真一が、戸の隙間から漏れ聞いた親達の声。
荒木は、ガンじゃない。彼は拳を握りしめる。
荒木は……。
気の弱い真一は、よく同級生に悪戯をされた。昔ならいじめとして先生も注意するところだが、子供同士の諍いに対する過度な指導は生き抜く力の無い人間を作るという考え方に転換した現在、先生はわざと見て見ぬふりをしている。
朝、学校に来ると椅子がなくなっていたり、机の中が水浸しになっていたり。
困惑する真一にいつもそっと救いの手を差し伸べるのは一緒に登校して来る荒木だった。
何処からか椅子を借りてきたり、かいがいしく沢山の雑巾を持ってきたり。
真一の横をすり抜けるとき、彼女の柔らかい巻き毛が頬に触れる。そんな時、いじめられている事も忘れて、真一は胸の高まりとともに頭の芯が疼くような快感を感じていた。
だが、残念なのは彼女が優しいのは全ての人に対してだということ。
そして、同級生の男子は、秀才の隆も、ガキ大将のキムも、皆彼女を好きだということ。
抜け駆け禁止。それは男子全員、お互いの暗黙の了解だった。
真一が執拗にいじめられたのは、登下校の間少しだけ荒木を独占する時間があるということへの嫉妬だったのかも知れない……。
優しい、おとなしい、可愛い。
真一が彼女を説明しようとすると良い言葉しか出てこない。
なのに何故、エターナルというだけであんな良い子が狩られなければいけないのか。
「ええと、高村真一君?」
いきなり覚えの無い声から名前を呼ばれ、真一はびっくりして振り向いた。
背の高い若い男が真一の後ろに立っている。
カーキ色のがっちりとした上着に真一の顔が強張った。
今どき、こんな立派な制服を着ることができるのは一握りの人間しかいない。
公安だ。
「荒木早苗さんの事を知ってるかな?」
優しい声音を出しているが、探りを入れるような鋭い眼で真一の足の先からつま先までを走査しているようだ。
「荒木さんって子は、いない」
誰に聞かれてもそう答えなさい。と母に言われたとおりの台詞を真一は口に出した。
「そうだ、その通りだ。君は良い子だね」
男は無理して作ったことがありありとわかる笑顔を浮かべて頷いた。
「もし、いないはずの荒木さんを見たら、警察に言うんだよ」
固まっている真一の頭を大きな手でぽんぽんと撫でると男は去っていった。
男の後姿を見ながら、ふと真一の心に希望が沸きあがってきた。
荒木は捕まっていないんじゃないか、生きて、逃げおおせてどこかで元気にいるのではないか。
哀しげな眼をして家族とともに落ち延びる少女の姿が真一の脳裏に浮かび、彼の頭の中に美しい残像を残して消えた。
何事も無く一日が過ぎ、真一が帰宅するとすぐ、母親から納屋に干しているたまねぎを2つほど取って来いというお達しが出た。
「今夜は肉じゃがよ」
荒木の事で真一が少なからずショックを受けていることを母も気がついているのか、夕食の献立は彼の好物の肉じゃがだった。
悪夢の1世紀以来、肉はぜいたく品で自給自足をしている庶民の口にはほとんど入ることが無い。母は何か工面をしてお金を用立てたのだろう。
真一はかろうじて風雨を避けるだけの役割しか果たさないぼろぼろの納屋を開け、戸口から差し込む夕暮れの淡い光を頼りに奥に進んだ。
そして手探りでからからに乾燥したたまねぎをふた束ほどつかむ。
そのとき。
ごそっ、と何かが動く音がした。
「ねずみ?」
納屋の下は地面を掘って簡易貯蔵庫にして、その上を真一の父が手作りした木の蓋で覆っている。
「それとも、猫でも入った?」
真一が呟きながら床にしゃがみこむと、下からか細い声がした。
「たかむらくん……」
それは、まさに今日1日思い続けた彼女の声だった。
「あ、荒木さん」
薄い木の蓋を開けようとした真一を彼女がさえぎった。
「だめ、開けないで」
大雑把な彼の父の作った蓋は隙間だらけで、真一は床に額をくっつけるようにしてその隙間から貯蔵庫を覗き込んだ。
隙間からのわずかな光を頼りに眼を凝らすと、しばらくしてうずくまる人影が見えてきた。
彼女だ。
真一は肩で大きく息を繰り返した。
心臓がどうしようもないくらい暴れている。
憧れの少女が人知れず自分の家の納屋の中に潜んでいたのだ。興奮しないでおけという方が無理というものだろう。
でも。
真一はすぐさま二人が置かれている現実に気がついた。
彼女はエターナル、悪夢の一世紀の原因となった生物の末裔だ。
ここに居ることを人に見つかればすぐ通報されて、彼女ばかりか、彼の父母も罰されるに違いない。しかし若干10歳の彼には、まだ彼女を助けてどこか安全な地に連れて行く力は無かった。
「荒木さん、お母さん、お父さんは?」
暫くの沈黙の後、すすり泣く声が聞こえてきた。
「これから、行くところはあるの?」
返事が無い。
「しんいちーっ、たまねぎは?」
畑の向こうで母親が呼ぶ声がする。
「また、来るね。何か要るものはある?」
「喉が渇いた……」
蓋の隙間にかろうじて指が入るところがある。
そこから小指を入れると彼女の小指がそっと絡まってきた。
ほんの一瞬。
だけど、真一にはまるで時間が止まったかのように思えた。