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『諏訪のご隠居』、あるいは『諏訪の御大』と呼ばれ、表舞台から一時期姿を消していた方は、いまだ健在であった。
喜ばしいと思うべきか、それとも衰えぬその影響力を嘆くべきか。
諏訪伊織を諏訪家の当主へと据え、その後見役として睨みを利かせるというのなら、これからの諏訪家は足元が固まるということだ。
律子様の件で諏訪家の力を削ごうと思っていた者たちにはとんだ肩透かしとなる。
ご隠居相手では手が出せないと、誰もが思うだろう。
ここまで聞くに、ご隠居は律子様の考え方が気に入らないということは明白だ。
「ん? どうした?」
目を細め、優しげな笑顔でご隠居が私を促す。
(チョイ悪エロ親父。無駄に色気がありすぎるじーさまだよな、まったく)
私の中で瑞姫さんが呆れたように呟いている。
思わず同意しそうになった。
ご隠居の華やかな存在感は、確かに色気と呼ばれるモノに変換できる。
そうか、これが『無駄に色気がある』とか『フェロモン垂れ流し』とか言われる人なんだ。
「いや。ちょっと納得したところです」
素直に感動しながら正直に答えれば、ご隠居は一瞬固まった。
「………………瑞姫ちゃん? ちょっと待て! 今、何思った!?」
「ご隠居はモテるんだろうなと」
さすがに先程思ったことを口に出すのは憚れるので、変換して答えれば、隣で御祖父様が爆笑しだす。
「こやつがモテるだと!? 口先だけのヘタレが!!」
「おいこら、ジジイ! 表出ろ! 暴露するんじゃねぇ!!」
笑い続ける御祖父様に、ご隠居が喧嘩を売る。
大刀自様か、ご隠居をヘタレと呼んだのは。
御祖父様はそれを聞いて知っていたというのが、ここの流れのようだ。
そうか。ご隠居はヘタレだったのか。
つい、視線が諏訪の方へと流れる。
ヘタレとは遺伝するものなのか。
恐ろしいものだな。
目を伏せ、溜息を吐けば、喧騒が静まる。
「そう言えば、ご隠居は律子様が画策しておられる私と諏訪の婚約には乗り気ではないようですが」
ふと疑問に思って、そう問いかける。
「当たり前だろう?」
それ以外の言葉はないと言いたげに、ご隠居が頷く。
「自分の嫁を何で母親に決めてもらわなくちゃならねぇんだ? 惚れた女を口説くのは、男の特権だろうが」
こともなげに断言するご隠居に、御祖父様も頷く。
口説くのが特権なのか。
そういうもの?
首を傾げる私に、ご隠居はにやりと笑う。
「自分に惚れてもらうために、口説くのは当然だろうが。口説く言葉に照れた様子を見せたりすれば、たまんねぇしなぁ! 照れる姿を隠そうとするのも可愛いし。あの一瞬は役得だと思うな」
楽しげな様子は何やら思い出しているからだろう。
「意地張って、突っ撥ねてた女が堕ちてくれたら最高だろうがよ。もちろん、運よく惚れてもらえても全力で口説き続けるがな」
顎に手をやり、にやにやと楽しげに笑う様子は、瑞姫さんが言う『無駄な色気』に溢れている……ような気がする。
極上の華やかな気配の人だと思うけれど、色気とやらは私にはまだ理解できないようだ。
「ま、そんなわけで。伊織が瑞姫ちゃんに惚れてるんだったら、全力で自分自身の力で口説けと、俺は言う。瑞姫ちゃんを傷物にしたから責任取るなんて理由は、瑞姫ちゃんを馬鹿にしているだろう? 瑞姫ちゃんは、あの嫁が言う『傷物』とやらじゃねぇしな。滅多に見ない『極上品』だ。極上のオンナを手に入れるために努力しねぇ男になんか渡せるわけねぇだろ?」
華やかで柔らかな笑顔。
年齢というものを感じさせない若々しい空気を身に纏い、こちらを見つめて目を細めている。
「それは……そうですね。私の価値が容姿にしかないと言われれば、確かに腹は立ちます。律子様の『傷物』という言葉は、そういう意味に取れてしまう。私には、それは許しがたい」
瑞姫さんの今までの努力を無にする発言は絶対に赦せない。
友禅作家なんて、そう簡単になれるものではない。
絵を描く才能があったとしても、そこから先は弛まぬ努力と幾ばくかの運が必要だ。
運には確かに恵まれていた、そういう環境に生まれついたからだ。
だが、瑞姫さんは努力を怠らなかった。
それが今に繋がっている。
そのことを無視しての発言は、誰が相手だろうとも決して赦さない。
「俺は、思っていない!! 相良の容姿が優れているのは確かだが、それ以上におまえはすべてにおいて努力家だ! 俺はそこを尊敬しているんだ」
慌てたように諏訪が言葉を挟む。
「そうか? だが、努力するだけで結果が残せないのなら意味がないと、私はそう思う」
人によっては厳しいと思われるかもしれないが、ある意味、結果がすべての世の中だ。
結果が評価できなければ、努力したと思われないことも事実だ。
その点では瑞姫さんは素晴らしいと思う。
疾風も橘も、在原や千瑛と千景もその努力に見合う結果を出してきた。
私も彼らに負けないようにしないといけない。いつも、そう思っている。
「瑞姫ちゃんの言うとおりだな。結果が出せなきゃ、意味がない。瑞姫ちゃんはその結果を出してきた。だが、あの嫁はそれを見落としている。だから俺はあの嫁を認められねぇ」
大体、押しかけ女房なんて男の名折れだからなと、ご隠居が嘯く。
この言い方からすると、過去にも律子様は何かやらかしたような気がする。
私には関係ないが。
「伊織についてもそうだ。瑞姫ちゃんを口説く資格は、今はねぇな。口説いたところで気付いてもらえねぇのがオチだろ」
「おじいさま!?」
「今のおまえは、それこそ俺と似た容姿ぐらいしか褒められたところがない。学校の成績が良くても、それを応用できなければ意味がねぇ。それに加えて瑞姫ちゃんは友禅作家として名を馳せている実力がある。おまえのどこに、その瑞姫ちゃんと肩を並べられる取り柄がある? それ以上の何かがないと、女は興味を持ってくれねぇぞ。そこんところは、かなりシビアな生き物だからよ、女って。そいつの子供を産んでやってもいいかと思わねぇのなら、見向きもされねぇぞ」
抗議の声を上げる諏訪に、ご隠居は鼻で笑う。
(よく御存知で)
くすりと笑って瑞姫さんが呟く。
やっぱりこれって、経験値とかいうものだろうか?
(さぁね。大刀自様を口説き落とされるのに、相当苦労したってことだろうね)
まあ、大刀自様を娶られるのは、確かに苦労しただろう。
うちの御祖母様や七海さまとは別の意味で芯の強い方だという記憶がある。
「一族の総意として、おんし以外の諏訪は瑞姫には近づけさせないつもりだがの」
御祖父様が、ご隠居にそう告げる。
「だってよ、伊織? おまえ、資格なしだと。諦めろ」
ご隠居からそう言われ、諏訪の表情が変わる。
悔しげな、だが、挑むようなものに。
「すまねぇが、瑞姫ちゃんにもうちょこっと話があるんだ。その前に、この莫迦、下に連れて行ってくれねぇか?」
下とは、ロビーのことだろうか。
エントランスまで案内すれば、おそらく諏訪が自分でなんとかするだろう。
はいと頷けば、御祖父様が付け加える。
「瑞姫、疾風を伴え」
近づけさせないという意思を貫くおつもりなのか。
確かに、疾風がいれば私も安心だ。
いや、社屋で迷子になるとか、そういうことは考えていないが!
「承知いたしました。しばらく席を外します。諏訪、下まで案内しよう」
そう言って、私は立ち上がる。
渋々と立ち上がった諏訪は、御祖父様に挨拶をして私に続く、会長室を出たところで左腕を掴まれた。
左腕を掴む力は強くはない。
だが、何かを訴えようと緩む気配は全くない。
「諏訪、手を放せ」
忠告だけはしておかなないと。
「話を、聞いてほしい」
耳許で告げる苦しげな声。
「手を放せば、聞こう。下に行く道すがらにでもな」
「それでは駄目だ!」
切羽詰まった声で否定した諏訪は、手を放したと同時に背後から私を抱きすくめた。
「母が、勝手に暴走しているのを止めなかったことを許してほしい」
できれば、耳許で話さないでほしいのだが。
無意識に投げ飛ばしたくなる自分を押さえるのに苦労をしていることを察してほしい。
「それを理由に家長の座を剥奪するためなのだろう? ご隠居が考えたことに否やを言うつもりはない」
「おじいさま、か……」
口惜しげな声が耳許をかすめる。
首筋に生温かい感触が。
そんなところに顔を埋めるなと言ってもいいだろうか。
「相良、俺は……」
「……疾風!」
がつんと痛そうな音が響き、背後から諏訪の気配が消えた。
それと同時に背中に馴染んだ気配が現れる。
ああ。止めたのに間に合わなかったか。
振り返ろうとした私を疾風が阻む。
「瑞姫に触れるなと言っておいたはずだ」
ひやりと身を竦めたくなるほど冷たい声。
「おまえには関係ない」
「は! よく言うな。おまえが瑞姫にしたことを、俺たちは決して忘れないぞ。そして、瑞姫が赦したとしても、俺たちは赦さない。俺から瑞姫という存在を奪おうとしたおまえを、俺は一生赦さない」
そこに込められたものは、怒りではない。
憎しみでもない。
そして、嫌悪ですらなかった。
「おまえがどう思おうと、関係ない」
立ち上がりながらそう告げる諏訪に、疾風が笑う。
「瑞姫の気持ちも関係ないんだろ?」
その言葉に諏訪が固まる。
「自分の気持ちだけを押し付けて、瑞姫の気持ちも考えないで、今、何をするつもりだった? ええ? 言ってみろよ」
冷ややかな声に圧力が加わる。
「諏訪のご隠居に試されたこともわからなかったのか? これが諏訪の次期なら、ご隠居の望み通り諏訪は潰えるな」
「疾風!!」
言ってはならないことを口にした疾風を制する。
「諏訪、私の随身が済まなかった。下に案内する」
疾風の前に出て謝罪の言葉を口にする。
「相良、俺は……」
「直通のエレベータはこちらだ」
諏訪に背を向け歩き出せば、その後ろに疾風が続く。
私と諏訪を接触させないように壁になるつもりがありありとわかる。
エレベータへと案内すれば、実に気まずい空間に押し込められることになった。
私を気にする諏訪と、諏訪を威嚇する疾風。
私は始終無言を貫く。
沈黙が重いが、この場を打開するつもりもない。
電子音と共に扉が開き、1F到着したことを知らせる。
車寄せの方に黒塗りの車が停まっていた。
あれが、ご隠居が乗ってきた車なのだろう。
「案内は、ここまでだ。あとはひとりで構わないな?」
自分の仕事はここまでだと告げれば、諏訪の瞳が揺れる。
「相良!」
「ではな」
何か言いたそうな諏訪を置いて、私は彼に背を向ける。
諏訪もこんなところで醜態を晒すつもりはないのだろう。
「また明日、学校で」
私の背に声を掛けると、車に向かって歩き出す。
「………………」
諏訪を睨んでいた疾風が私の背を追いかけてくる。
「瑞姫、大丈夫だったか? 何か、気持ち悪いことされなかったか?」
やや好戦的な声音で問う疾風に、これはマズイと思う。
ご隠居の話を聞かせるわけにはいかないだろう。
「結局、諏訪が何を言いたかったのか、まったくわからなかった」
口説くつもりだったのだろうか。
まあ、なんでもいいが。
荒れた気配を漂わせる疾風を宥める役目を誰か引き受けてくれないだろうか。
今、私の一番の問題は、そこであった。