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 梅雨に入った。

 ある程度覚悟していた鈍い痛みがじわりと襲ってくる。

 思っていたほど痛くはない。

 きっと、時間が癒してくれたからだろう。

 逆を言えば、今まで瑞姫さんは相当痛い思いをしてきたということだ。

 それを思うと自分の不甲斐無さを情けなく思う。

 自分の心に負けて、逃げ出したりしたから、瑞姫さんに要らぬ苦労を背負わせてしまった。

 申し訳ないと思う気持ちが、逆にこれくらいのことで弱音を吐くことを良しとせず、つい我慢してしまった結果、疾風にしこたま怒られる羽目になった。

 あれだけ瑞姫さんに言われていたにもかかわらず、やらかしてしまったのだ。

 つまり、痛いと思っても、これくらい大丈夫だと思い込んで、貧血起こして倒れてしまった。

 うん、疾風が怒るのも無理はない。

 私が全面的に悪い。

 瑞姫さんの忠告をきちんと実行しなかったことが敗因だ。

 さらに、貧血ごときで保健室に行くなんてとごねて、サロンのカウチで休憩中。

 正直に言います。

 茉莉姉上が怖かった。

 疾風がここまで怒るからには、本職はもっと怒るに違いない。

 そう思ったら、とても保健室へ行くなんて言えません。

 我儘だとわかっていたけれど、保健室へ行かないと言い張り、疾風にサロンに連れてこられてしまいました。

 きちんと休めと説教されて、大人しくカウチに横になっている最中だ。

 気を聞かせてくれたコンシェルジュが温かいお茶と膝掛を用意してくれたのが、さらに居たたまれない。

「恵みの雨と申しますが、やはり雨が続きますと気が滅入ってきます。そうなると体調にも影響が出てきて、どうしても崩れやすくなるものです」

 ホットジンジャーティをテーブルにセットしてくれながら、コンシェルジュが話しかけてくれる。

 私が疾風に怒られて、かなり落ち込んでいたから気を遣ってくれたのだろう。

「ところが、温かいものを飲むと、身体がポカポカと温まって気分がゆったりとして何となく気分も上向きになってきます」

 優しい言葉に、素直に頷く。

「どうぞ、これを召し上がって、ゆっくりと休まれてください。しばらくの間、こちらは人払いしておきましょう」

「ありがとう」

 彼の申し出に、礼を述べ、カップに手を伸ばす。

 程よい温かさを保つそれは、心穏やかになる良い香りがする。

 いつの間にかコンシェルジュの姿は見えなくなり、彼が定位置についていることに気付く。

 プロというものはすごいな。

 このサロンを利用する生徒の好みをきちんと覚えているのだから。

 彼の気遣いに感謝しつつ、お茶を飲み干してカップをテーブルの上に戻すと、大判の膝掛を肩口まで引き上げ、身体を冷やさないように気をつけながら目を閉じた。

 思っていた以上に、眠りはあっさりと訪れた。




 うつらうつらと夢現。

 優しい手が私の頭を撫でる。

 髪を弄ぶように指が触れ、梳かしては離れる。

 どこかで嗅いだ事のある爽やかで甘い香りが鼻腔をくすぐる。

 穏やかで落ち着く香りだ。

 ふと柔らかな感触が頬をかすめた。

 何かが頬に触れた。

 何だろう?

 いや、誰だろう?

 不思議な想いが沸き起こる。

 何故、こんなに大切そうに触れてくるのだろう?

 一体、何故。

 取り留めもなく浮かび上がる疑問に答える声もなく、再び意識が闇にのまれる。

 そこにいるのが誰なのか。

 目覚めると同時に忘れ去りそうなかすかな疑問と共に、私は眠りに誘われた。




 ふと気付けば目が開いていた。

 視界に映るのは、曇天と薔薇の葉の緑。

 温室だということは、サロンで眠っていたわけだ。

 と、いうと。

 さっきのは夢だったのだろうか。

 誰かが頭を撫でてくれていたような気がしたのだが。

「瑞姫、起きたのか?」

 疾風の声がして、一気に意識がはっきりしてくる。

「ん」

 短く返事をして起き上がると、向かい側のソファに疾風と橘が座っていた。

「あれ? ふたりとも……」

 いつ来たんだ?

 不思議に思って首を傾げれば、苦笑が返ってくる。

「よく眠ってた。コンシェルジュがいたせいもあるだろうが、少し無防備すぎるぞ」

 疾風の御小言が早速始まる。

「瑞姫、体調はどうだ? 痛みは酷いのかい?」

 心配そうな表情で橘が問いかけてくる。

「ん。大分いい。去年よりも痛みが薄れてるせいか、嬉しくてやらかしたようだ」

「調子に乗るからだ」

 御小言は諦めたらしい疾風が溜息交じりに呟く。

「だって、疾風。もう一年も皮膚が破れてないんだぞ。快挙だと思わないか!?」

 瑞姫さんの黒歴史と呼ぶものの中に、皮膚が破れて倒れた去年の記憶がある。

 それ以来、皮膚が破れたことはない。

 瑞姫さんに言わせれば、感動ものだそうだ。

 私の言葉に、疾風は反論を封じられ、橘はほっとしたように表情を和らげる。

「去年のアレは、確かに岡部の反応がすごかったし。諏訪を怒鳴りつけていたと後から聞いたよ」

「あれは……当然だろう? 皮膚が破けたのは、あいつが原因だ」

 むすりとした疾風がそう断じる。

 本当にそうだったのかと言われれば、私にはよくわからない。

 ストレスが原因であることは知っているが、記憶の中では定かではないのだ。

「あー……誉? その、手にしているスケッチブックはなんだ?」

 あからさまに話題を変えようとして、何かを描いていたらしい橘の手にあるスケッチブックに目が行く。

「ああ、これ? うん。これね、瑞姫に見てもらおうと思ってたんだ」

 そう言って、私に見せてくれたスケッチブックには、アクセサリーのデザイン画が描かれていた。

「これは……すごいな」

 色石をふんだんに使った洗練されたデザインに、視線が釘付けになる。

 これがそのまま作られたら、間違いなく売れるだろう。

 石も、色をそのままに半貴石にすれば、手頃な値段に抑えられるから、買い手はもっと幅広くなるはずだ。

 そう言えば、嬉しそうに笑った橘がバッグの中から一通の封筒を取出し、差し出してきた。

「義母が、生前に俺のデザインを若手のコンペに送っていたらしくて。この間、その結果が送られてきたんだ」

 そう説明して、封筒の中身を見るように促され、受け取って中の書類を見て驚く。

「特別賞か!」

 金賞ではなく、特別賞というところに若干の不満を持つが、賞を取れたことに対して純粋に嬉しく思う。

「すごいな。おめでとう!」

「ありがとう。まさか、賞を取れるとは思わなかったから、本当に驚いたよ。でも、これで、腹が決まった」

「ん?」

「俺、ね。ずっとこういった宝飾デザインをやってみたかったんだ。一応、見様見真似でここまできたんだけど、本格的にデザインの勉強をしようと思って」

「そうか」

「義母が俺にこの道に進んでいいと手紙を残してくれていたんだ、コンペの手続きをしてくれた時に書かれてたものみたいで、この間、遺品整理をしていて見つけた」

「由美子さまが……やはり、母親なんだな」

 子供が進みたいと思っている道に気付き、後押ししようとしていたのか。

「うん。義母が俺を大切に思っていてくれたことを疑ったことはないよ。父もね、それなりに愛情があったことは知ってる」

 苦笑しながら告げる橘は、子供の頃から割り切っていたのだろう。

 己の立場というものに。

「まあ、これを盾に橘の家と離れることもできるからね。父が何かを言えば」

「まだうだうだ言ってるのか」

 ウンザリしたように疾風が呟く。

「仕方がない。こればかりはね。俺は、嫡子ではないけれど唯一の子供だし」

 さっぱりとした表情で答える橘は、これから先のことをすでに見据えているのだろう。

「デザインの勉強をするために、東雲の大学へは進まないことにした。自分の実力がどこまで通用するか、惜しまず努力したいと思う」

「そうか。やりたいことが見つかったということは、誉にとって幸運だな。応援する」

「ありがとう。それで、瑞姫にお願いがあるんだけど」

 嬉しそうに笑いながら橘が首を傾げる。

「私に?」

「そう。瑞姫に。俺のデザインのモデルになってほしいんだ」

「は?」

「瑞姫に似合うものをデザインしたいと思ってる」

 えーっと……この場合、どう答えればいいのだろうか?

 思わず疾風に視線を向ければ、少しばかり思案顔の疾風がゆっくりと頷いた。

「モデルが瑞姫だということを公開しなければ、別にかまわないと思う」

 本当にそれでいいのだろうかとまじまじと疾風を見てしまう。

「いいの?」

「イメージモデルが必要なら、引き受けても構わないと思う。ただ、それが瑞姫だと決して口外しないこと。それ以外は特にこちらからつける注文はないな」

「瑞姫は?」

「疾風がいいというのなら、私も大丈夫だ。誉に必要なだというのなら、引き受けよう。友の申し出だ」

「ありがとう」

 嬉しそうに笑った橘に、引き受けてよかったと思う。

「それで、イメージモデルって何をするんだ?」

 とりあえずわからないことを質問すれば、疾風も橘も弾けるように笑い出した。

「うん、やっぱり瑞姫だよね」

 絶対、褒めてない。

 むくれた私に気付いた疾風も橘も、慌ててご機嫌取りをし始めたけれど、暫くの間、むくれることにした。




 形ばかりに機嫌を直して、自宅へ戻った時、御祖父様に呼ばれて、意外な話を聞かされるまで、とりあえず私の機嫌は本当は良かったことは内緒である。

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