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通夜は静かに、滞りなく終わった。
元々、由美子さまの友人知人は殆どいらっしゃらず、ご当主の仕事関係が出席者の殆どであれば、厳かな雰囲気は保っていても悲しみに暮れるといった風情はなく、何処か事務的な空気が流れている。
これも、ご当主が由美子さまを妻に望んだことによる弊害の1つかもしれない。
静まり返った会場とは裏腹に、エントランスホールは通夜の席だというにも関わらず商談の花が咲いている。
企業人というのは、そういうモノだと知っているが、少しなりとも故人を悼めと苦く思う。
客を見送る役目の橘家当主も、その中に入っていると知れば、苛立ちは募る。
だが、この中に橘はいない。
御遺体の傍についているのだろう。
出棺までの間、線香の火を絶やすことはない。
誰かが必ず火の番をしなくてはならないのだ。
踵を返し、一度出た会場へ再び足を踏み入れれば、思った通り、誉が棺の傍の椅子に座っていた。
「誉」
どこかぼんやりした様子の橘に声を掛ければ、ゆっくりと橘が振り返る。
「……俺、おかしいのかな? いや、薄情なんだろうな。義母が亡くなったというのに、全然哀しくない」
ぽつりと呟いた橘は天井を仰ぐ。
「大切な方が亡くなったイコール悲しいということには、必ずしもならないぞ。これ以上、病気で苦しむことはないんだと思ってほっとすることもある」
死を願ったわけではないが、それでもこれ以上の闘病生活を続けなくて済むのかと安堵することは、決して悪いことではないはずだ。
少なくとも、橘はもうこれ以上、義母の容体に心を揺さ振られずに済む。
「うちの通夜は賑やかだぞ。なんせ、笑いが絶えないからな。故人が生まれてからこちら、ありとあらゆる失敗談や笑い話を披露して、皆で大笑いするんだ。怒って起き出すんじゃないかって思うほど、大騒ぎになる」
「それは、楽しそうだな……」
「楽しいぞ。個体の死は、決して存在の死には繋がらない。誰かが覚えている限り、その存在は『生きている』ことになるんだからな。自分が持っている記憶を語って、誰かに引き継いでもらうことで、長い時を生きていくことになる。君はまだ、由美子さまを覚えているだろう? だから、この方はまだ亡くなってはいないんだ」
そう話しながら、橘の傍へ立つ。
「そう、か。俺は、自分がどこか壊れた人間なんだと思ってた」
座ったまま、橘の腕が私へと伸びる。
「ごめん、少しの間だけ」
そう言うと、囲い込むように私を引き寄せ、お腹のあたりに額をつける。
「壊れた人間は、自分が壊れていると自覚はしない」
壊れた人間ほど、自分は正常だと思い込む。
正常な人間は、人と比べ、己が普通の範疇に入っているのかと思い悩むものだと聞いた。
その意味では、間違いなく橘は正常な感覚を持つ人間だ。
決して慰めなどではなく、真実そう思っていることを伝えるということは難しい。
そう思いながら、橘の髪を撫でる。
さらさらのふわふわで羨ましいな。
私の髪はさらさらの範疇だが、ふわふわとは縁がない。
すとんと落ちて、ぺしょっとしている。
直毛人種にとって、癖毛人種は非常に羨ましい、憧れだ。
その、ふわっとした手触りを楽しむべく、もふもふと指先だけでかき混ぜてみる。
うん、本当に楽しい。
羨ましいぞ、橘。
「……瑞姫、髪が乱れる」
不満そうな橘の声が上がる。
「男が髪が乱れたくらいで文句を言うな。もっと大切なことがあるだろう!?」
「大切なこと?」
不満そうだった橘の声音が変わる。
「今夜は眠れそうか?」
私が問いかければ、橘がひどく動揺した。
「あ、いや。今夜は、ここで寝ずの番だから……」
「寝ずの番は交代でするものだ。君の睡眠時間も確保すべきだろう?」
「……瑞姫がいてくれたら、眠れるかも」
「私は、枕になる気はないぞ」
橘の頬を引っ張って言う。
「あいたたたっ! 痛いよ、瑞姫!!」
「冗談を言う元気が戻ってよかったな、誉」
「空元気も元気の内だって言うからね。御大に、感謝しますと伝えてくれるかな?」
私を手放した橘が、髪を整えながら告げる。
「俺を引き受けると言っていただいて、嬉しかった。早く大人になって、家を出たかった。橘とは無関係なところで生きたかった。そう思っていた俺に、御大の言葉は救いだ。俺にもまだ行ける場所があるんだと思えるのは、本当に嬉しいことだよ。父に家族ができれば、俺はもうこの家にいる必要がないからな」
そう、言葉を紡ぐ橘の表情は明るく、落ち着いていた。
「葛城は、俺を迎えに来ると思う?」
「十中八九。葛城は女系だ。男が生まれる確率は、本当に低い。葛城の血を持ち生まれた男子がいれば、それが大巫女の血筋ならば、必ず迎えに来て当主に据えるはずだ」
「望まれて生まれたというのは、嬉しいことだろうけど、有無を言わさずというのは癪に障るな。俺は、自分の意思で自分の人生を決めたい」
「そうだな。自分の生きる道は、自分で決めるべきだろう。当主が宣言した通り、相良は誉を迎え入れる用意がある。必要ならば、遠慮なく利用してくれ」
「ありがとう」
「なんの。先程は、祖父が済まなかった。誉が言ってほしくないことを暴露してしまった」
御祖父様は橘を傷つけるつもりはなかった。
それだけは言える。
だが、言われたくないことをあえて言ったことに対しては、償わなければいけないだろう。
「その後に、赦してほしいとは言わないんだ?」
「赦さなくていいと思っているからな。それをネタに我々を脅せばいい」
「……あのね、瑞姫……」
呆れたように橘が溜息を吐く。
「感謝している相手をどうして脅すわけ?」
「ん? そっちの方が気兼ねなくいろいろ言えるだろう?」
「瑞姫の中で、俺がどれだけ悪役なのか、ちょっと気になったよ……」
がっくりと肩を落として呟く橘に、私は笑う。
「悪役じゃないから、言ってるんだよ。利用しろってね」
そう言えば、橘は首を横に振った。
「充分だよ。これ以上は、瑞姫に依存してしまいそうになる」
「それが必要なら、すればいい。何も依存することがすべて悪ではないだろう?」
「例えそうだとしても、俺は、自分の足できちんと立ちたい。そうでないと、俺が自分を赦せなくなる」
「誉は真面目だな。思うとおりにするといい。誉が私を必要とする限り、私は傍にいよう」
以前はできなかった約束を口にする。
それに気付いた橘が、目を瞠る。
「……瑞姫、男前すぎ。俺を誑し込んでどうするつもり?」
「さて、どうしよう?」
誑し込むつもりもなければ、そのあとどうするかなんて考えたこともない。
友は友だ。
必要とされるなら、自分の持てるすべてで応えようと思うだけだ。
「今週は休むのだろう? 千景が授業のノートを取ってくれている。ゆっくり休め。来週、学校で会おう」
そう言えば、橘が頷く。
柔らかな笑顔だ。
鎧のように作られた穏やかな表情ではない。
由美子さまを失ったことで、橘は2人の母親を失った。
生みの母と育ての母。
真季さんは小槙姐さんとしても、ご当主のお座敷には二度と上がらないだろう。
ご当主が下手に動けば、置屋を抜けて姿を隠すかもしれない。
それぐらいは楽にやってのける人だ。
橘はもう、橘家が自分の居場所ではないと悟ってしまった。
これから先は、自分の足場を作って家を出るつもりなのは間違いない。
力を貸したいと思っている友がいることを忘れないでほしいと願うのみだ。
「では、またな」
「うん。また」
笑い合って、別れる。
ただそれだけ、当たり前のこと。
そんな、何気ないことが橘の心を慰めてくれるといい。
そう思いながら、私は由美子さまの棺に一礼して、その場を立ち去った。