91
ホールいっぱいに並べられた花籠。
会場に入りきれなかった花たちをホールに飾っているのだろう。
淡い色彩を基調とした花たちは、抑え目ながらも瑞々しい香りを放っている。
その花たちが守る扉の前に橘が立つ。
こちらの会場のスタッフたちが心配そうな表情で橘の傍に近付く。
「御導師様がもう間もなく到着されると連絡が入りましたが……」
「ありがとうございます。到着なさいましたら、予定通り、父とご挨拶に伺いますのでまた声を掛けていただけますか?」
穏やかに対応する橘に、彼らはホッとした様子で後ろへ下がる。
ドアノブに手を掛けた橘が、それを引き開ける。
「何度言ったらわかるんだ!? 当主夫人が不在だということが問題なんだと言ってるんじゃないかっ!!」
ヒートアップしすぎて、殆ど怒声と変わらない大声で橘家当主に言い寄る男性。
「何の問題もありませんよ。妻はここに眠っています」
「死んだ人間に何の価値があるんだっ!?」
「お話し中、申し訳ありませんが、もうじき時間ですので、弔問に来られた皆様をお通ししてもよろしいでしょうか?」
穏やかな声音で橘が割って入る。
「おお、誉君! 君からもお父さんに言ってやってくれないか? 新しいお母さんが来て、弟ができれば、君は次期当主から解放されるんだよ」
「…………あなたで5人目です」
「は?」
「父に再婚話を持ち掛けたのは、あなたで5人目だと申し上げました。どなたも、それなりに申し分ない候補者をお連れくださいましたが」
「何だとっ!?」
冷静すぎる橘の言葉に、当主に詰め寄っていた男性の顔色が変わる。
「それで、そいつらは……」
「外にいらっしゃいますよ。それから、私の意見を申し上げれば、父が再婚するのは反対しません。ですが、今現在、義母の通夜も済んでいないこの状況で再婚の話を持ち込み、義母の死を悼んでくださらない方が薦める方を義母とお呼びすることはありません」
「妾の子が生意気なっ!!」
どうやら少々認識が甘い方のようだ。
この時点でも橘の資質を見誤っているとは、残念すぎる。
ここは、どう動くのが最良か。
扉を全開にして、野次馬でも呼び込むか。
ああ、それだと橘が守りたいものを傷つけてしまうな。
では個別撃破で、あの2人を封じるか。
御祖父様がいらっしゃるが、仕方がない。
潔く後程説教を受けよう。
私が爪先をほんの少し動かした時だった。
「愚かよの。己が見たいものしか見ぬ者は」
のんびりとした声だった。
だが、身内だからわかる。
この声音は、御祖父様が激怒した時のモノだ。
「相良様っ!」
橘の後ろに御祖父様がいらっしゃることに気付かなかったらしい彼らは、顔色を変える。
「いらっしゃるとは気付かず、申し訳ありません」
「よいよい、橘の。おまえさんにゃ後からじっくり話をさせてもらうからの。その前に、おんしじゃ、分家の。次期殿の血筋を知っての言葉かの?」
にこやかな笑みは迫力がありすぎて、何故か無関係な者までも冷や汗をかいてしまいそうだ。
「は? 芸者風情の子供が、ですか?」
「その、芸者じゃ。小槙は、お嬢の腹違いの妹じゃが、その母御はどの家の出身か知っておるのかと聞いておる」
「……は……」
「知らぬのか、情けないのう」
首を横に振った御祖父様は、憐れむように男性を眺める。
「おんしの言葉は、先方には伝わっておろうの。覚悟が必要じゃが、まあ、仕方がない。己が不備じゃ。葛城じゃよ。おんしの望みは半分叶うであろうな。葛城が次期殿を迎えに来るじゃろうからな」
「葛城っ! まさか、そんなっ!! 誉は男だぞ!」
「だから、迎えに来ると言っておる。お嬢がいなくなれば、枷はないと判断するだろうよ。その時、おんしの身はどうなっておるかは知らんがな」
「ひっ!! そんな……何とか、何とかなりませんか、相良様っ!!」
「知らんの。母を亡くしたばかりの息子の前で、よくもまあ、言いたいことを言ったの。聞いていて儂の方が恥ずかしかったわ。次期殿とどちらが大人かわかりゃせんわ」
御祖父様はそういうと横を向く。
いや、御祖父様、それ、ちょっと子供っぽいというか、大人げないですから。
ツッコミ入れたいけれど、場が崩れるので言えないもどかしさ。
仕方ないので、橘の背を軽く叩いて慰めてみる。
表情を凍らせていた橘は、ほんの少し驚いたように振り向いて、柔らかく笑って頷いた。
うん、こっちも大丈夫そうだ。
だけど、この状況で息子を庇わない父親というのも、相当問題ありだな。
目の前で実の息子を蔑まれて、憤らない親がいるとは不思議としか言いようがない。
御祖父様がいるから怒れないのかもしれないが、それでも息子に声を掛けるくらいはするだろう。
親子関係は悪くないと聞いていたが、それは間違いだったというのだろうか。
私がそう考えているときだった。
「相良の御嬢様! 御嬢様からとりなしをしてはいただけませんか!?」
分家の男性が誰かに向かって訴える。
お嬢様って、誰だろう?
私以外に女性がいたかな?
ふとそう思って、視線を走らせかけたが、それが私だということに思い当たって少しばかり驚く。
随分とムシのいいことを言う人だな。
「誰に何をとりなせと仰るのか、わかりませんが?」
私は相手の手落ちをつつく。
「それはもちろん!」
「誉は私の友人です。その友人に対して暴言を吐いた方に、何をすると?」
私はこれでもしつこい性格をしている。
自分に対して言われたことは、意外と気にならないし忘れてしまうが、それが周囲の大切な人たちなら話は別だ。
絶対に赦しは与えない。
「ああ、そうそう。葛城の方がエントランスの所にいらっしゃるのをお見かけしましたよ」
にこやかな笑みを浮かべて告げる。
息を呑みこむような音共に、男性はがくんとしりもちをつく。
「あ、ああああああ……」
「ご自分でなんとかするべきですね」
そう言えば、目を瞠った男性は、床を這いながらその場から逃げ出した。
「……葛城の方って、瑞姫、よく知ってるね」
感心したように橘が呟く。
「そりゃ知ってるよ。君のおばあさまだよ」
「……あ。いらしてたな、確かに」
嘘は言ってません。
どうだと、胸を張って見上げれば、苦笑を浮かべた橘が軽く首を横に振る。
「その機転の早さには脱帽するよ」
褒められた気がしないのは何故だろう?
むっと顔を顰めれば、御祖父様に頭を撫でられた。
「ありがとうございます、相良様」
ご当主が御祖父様に頭を下げる。
「礼を言うにはまだ早いぞ、橘の。儂はおまえさんが気に入らんからの」
わずかに目を眇めた御祖父様の表情は実に冷たいものだった。
「橘の、おまえさん、企業トップとしてはそれなりじゃがの。男としても父親としても失格じゃな。わかっておるか?」
御祖父様の説教タイムが始まったようだ。
この場合、橘を立ち会わせるのはどうかと思うのだが。
部屋を出ようかと橘に合図を送るが、彼は首を横に振る。
当事者として立ち会うつもりか。
「至らぬと常々思っております」
殊勝な言葉を口にするが、そもそもその言葉自体が間違いだということに気が付いていない。
「至らぬというのは、単なる逃げ口上よ。おまえさんは絶対にその言葉を口にしてはならん。自分の立場を自覚しておるのならな」
「自覚は……」
「しておらぬじゃろう? 小槙に愛想を尽かされたのもわからぬようだしの」
「それは!?」
「お座敷以外で、小槙に会うたことはあるか? 真季として、会えたかの?」
御祖父様、それ、ストレートすぎますよ。
息子の前でそれ言っちゃダメだって。
「仕事以外で会わぬのなら、それは見限られたということじゃ。まあ、さもありなん。おまえさんは最初から間違えたのじゃからな」
「何を仰いますか! いくら相良様でも……」
面と向かって間違いを指摘されれば、流石に誰でも怒るだろう。
だが、誰にでもわかる間違いなのだから、その次の言葉はない。
「そもそも、おまえさんは小槙を選ぶべきじゃった。さすれば、何の問題も起こらなんだ。数年待って、小槙を妻とし、その子が生まれれば次期殿は誰にも認められる嫡子じゃ。お嬢とて、何の気兼ねなく甥っ子を溺愛できるじゃろう。お嬢は小槙から子を奪ってしまったことを後悔しておったからの」
「そんな……そんなことは一言も……」
「たわけっ!! 言うわけなかろうがっ! 世間知らずの若い娘が、己の我儘のせいで大切な妹の人生を変え、その子にも苦難を強いて、後悔したところで己の脆弱な身では何もできぬと思えば、口を閉ざしてすべてを受け止め続けるしかなかろうがっ!! 気付かぬおまえさんが愚かだというのがわからぬか!」
大喝だった。
思わずびくっと身を竦めそうになるくらい、大きな叱り声。
耐性のある私でもそうなのだから、聞き慣れない当主であれば恐怖を覚えるだろう。
言われているのが自分であるということも含めて。
「もう1つ、言うてやろう。その昔、孫の1人がおまえさん主催のパーティで頬を腫らして帰ってきおった。その兄姉から事情を聴けば、次期殿を庇って打たれたという。次期殿はのう、父や母を思いやって、何一つ言わなんだが、幼い頃から謂れのないそれこそ八つ当たりのような非難を浴び、暴力を赤の他人から受けておったのじゃよ」
「相良様! それはっ!!」
はっとしたように御祖父様を振り返った橘が制止の声を上げる。
「今ですら、このように言うなと出来の悪い父を庇おうとする子を、おまえさん、何を見ておったんじゃ?」
「誉、本当に?」
言われたことが真実かどうかを問われ、橘は唇を噛み、無言を貫く。
嘘だと言って事実を曲げることは、御祖父様の前ではできないだろう。
だが、決して肯定することができない橘は、無言を貫くという選択肢を選ぶしかない。
「先程もそうじゃ。あの木偶と愚かな言い争いを繰り返す父の代わりに、弔問客に挨拶をして、その合間に打ち合わせをしてと、親の庇護を受けるべき未成年が親以上に働いておったぞ。己の不甲斐無さを恥ずかしいとは思わぬのか?」
「相良様、父は、義母がすべてだったのです。どうぞ、ご容赦くださいますよう……」
御祖父様と父親の間に割って入った橘が、頭を下げて頼み込む。
それが、すべてだった。
『子供に庇われる親』という立場に立って、初めてご当主は己の不甲斐無さを自覚したようだった。
「誉……」
「そろそろ時間じゃろうて。己が親と、お嬢の夫と思うなら、今度こそ間違わずに己の仕事をしてくるとよい。いつまで客を放っておくつもりじゃ?」
「申し訳も……」
「謝罪よりも動け。言葉で尽くしたところで、誰も納得はせん。儂はここでお嬢と話をするでは」
御祖父様の言葉に、ご当主は微妙な表情になる。
「そうそう。次期殿は、本人が望むなら、儂が貰う。相良の名の下に、次期殿が望む人生を歩ませよう。おまえさんは当主として新しい家族を作るがいい」
「……ッ!?」
すっかり悪役気取りだなぁ、御祖父様。
ちょっと不謹慎だと思うけれど、それは橘にとって最良の選択のひとつかもしれないので、とりあえずは沈黙を守ろう。
うちは、名持ちの分家の数も多いし、私の友人ならばと喜んで受け入れる家も多いだろう。
本家筋でも否やはないと思うし。
うちが盾になれば、葛城も事を構える気にはならないだろうしな。
「ここを開場しよう。御導師様に御挨拶にも行かないといけないし」
橘がご当主を促す。
「誉、おまえ……」
「話は後だよ。しなければならないことを1つ1つ済ませていこう」
そう言って、御祖父様に一礼した橘は、ご当主の背を押し、歩き出す。
すれ違いざま、私が差し出した手に軽く自分の手を触れ、そうして穏やかな笑顔を作った橘に、彼の覚悟を知る。
この場で一番大人なのは、橘なのだと理解した瞬間だった。