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中間試験が終わって間もなくのことだった。
その日、何の前触れもなく、橘が欠席した。
そして昼過ぎ頃に八雲兄上からメールが入る。
橘誉の義母であり、橘家当主夫人である由美子さまの訃報だった。
明日が通夜で、その翌日が法要、所謂お葬式になる予定だとか。
私に、通夜に出るかどうかの確認する内容だった。
「瑞姫、どうした?」
疾風がメールを眺める私に声を掛ける。
黙ってその画面を差し出せば、疾風の顔から表情が消えた。
「そうか」
短い返事。
疾風なりに心配していたのだろう。
理由がわかってほっとしたのと、母親を亡くした橘の気持ちを慮っての憂いと、今現在、橘が置かれているだろう状況とで複雑な心境に陥っているのだろう。
私も同じだ。
子供である私にできる事は、本当に少ない。
今、傍にいてやりたいと、そう願ったとしても、学生である身にはそれは不可能だ。
由美子さまがいなくなれば、橘の存在が微妙なものになる。
おそらく、当主に次の縁談が持ち込まれることになるだろう。
不愉快なことに、御遺体の前でその話が持ち上がる可能性はかなり高い。
そうして、新しい夫人との間にできた子供を橘家の次代当主に据えろという話になるのは間違いない。
あの人は決して葬儀の場に現れることもなければ、由美子さまの遺言でも次の当主夫人になることもないだろう。
葛城家の血を引く男子であることを公表すれば、おそらく、彼を排斥しようとしていた者たちの態度は豹変するだろうが。
「帰ったら、喪服の用意をしておこう」
ぽつりと疾風が呟く。
「そうだな」
その言葉に、私も頷く。
本来なら、学生服は冠婚葬祭に着用してもよいとされているのだが、東雲の制服は白とグレーが基本色だ。
色合いが少しどころか、かなり浮いてしまう。
暗い灰色であれば何とかなるだろうが、あまりにも明るいライトグレーなのだ。
結婚式ならいざ知らず、葬儀では居たたまれない思いをしてしまうだろう。
微妙な空気を抱えて、その日、1日を過ごした。
***************
橘家の通夜は、思っていたよりも随分とこじんまりしたものだった。
由美子さまが社交界へ顔を出されていなかったことも、その理由のひとつだろう。
通夜には御祖父様と出席することになった。
疾風も岡部家の方に同行するらしい。
「ふむ。これは、なんとも……」
エントランスに足を踏み入れた御祖父様が、気難しい表情を浮かべる。
そこには当主代理として、弔問客に対応している橘の姿があった。
本来ならば、当主である彼の父がそこにいなければならない。
そうして、親族として分家筋の者が彼の指示に従い、色々と動いていることだろう。
だが実際は、誰がどう見ても、その場を取り仕切っているのは当主ではなく、その息子である誉であった。
弔問客に挨拶をしながら、葬儀の式場関係者と打ち合わせをする姿は彼が喪主であるかのように見える。
愛妻を失った当主が、悲しみのあまりに茫然自失に陥り、その息子が彼に代わって動いていると好意的に見る者もいるだろうが、よく見ればそうではないようだ。
いまだに通夜の会場である部屋の扉は閉じられたまま。
スタッフも扉付近で困ったような表情をして立ち竦んでいる。
中で何かが起こっているわけだ。
「まったく、仕方がないの」
呆れたような声音で呟いた御祖父様が動き出す。
私もその後に従い、歩く。
「瑞姫! 来てくれたのか」
私に気付いた橘が、こちらへ足早に近づいてくる。
橘の向かう先に御祖父様の姿があることに気付いた者たちが、わずかに驚きの声を上げる。
まさか、橘家当主夫人の通夜に御祖父様が参列するとは思わなかったのだろう。
「誉、この度は……」
「挨拶は……来てくれてありがとう。義母も喜んでいることだろう」
私の挨拶を遮り、首を横に振った橘は、目許だけで微笑む。
いつも通り、静かで穏やかな橘だが、疲労が滲んでいる。
「相良様もわざわざ足を運んでいただき、ありがとうございます」
「覚悟はしていても、辛かったの」
ぽんと橘の肩に手を乗せ、御祖父様が告げる。
「年寄りには、己よりも若い者が逝くことが何より堪える。誰であろうと、順番通り年寄りを見送ってから旅路についてほしいものだと」
御祖父様の言葉に、橘がわずかに目を瞠る。
そうして、何も言わずに橘は深々と御祖父様に向かって頭を下げた。
今までの弔問客が橘に何を言ったのかは知らない。
だけど、橘の心を打ったのは、御祖父様の言葉だったのだろう。
深く頭を下げることで言葉にならない感謝を伝えることができる。
それと同時に、自分の表情を隠すこともできる。
涙をこらえ、感情を整えるには充分な時間が作れる。
「時に、お若いの」
充分時間をおいて、顔を上げるようにと肩を叩いて合図した御祖父様が、橘に声を掛ける。
「うちの孫が必要かの?」
何気ない言葉。
その言葉を深読みして、慌てふためいているのは周囲の者たちだ。
私としては、孫を勝手にレンタルしないでほしいというのが正直な気持ちだ。
そう、御祖父様は、『孫』としか言っていない。
この場にいるのは私1人だが、御祖父様の孫は、2桁いってます。
そして、相良の人間は、それぞれ一芸を持っているので、必要に応じて必要な能力を持ってる孫を貸してやろうという意味だったりする。
本当なら『能力』であって『芸』ではないのだが、持ってる本人にしてみれば、『芸』としか言い様がないものだったりする。
ちなみにこの状況で『孫が必要か?』と聞かれれば、私を嫁にするかと聞いていると思われるようだ。
顔を上げた橘は、周囲の反応を無視して微笑む。
「いえ。まだ、大丈夫です」
自分の足で立ち、自分ができるだけのことをすると答えた橘に、御祖父様は満足げに頷く。
「そうか。末の孫が世話になっておるからの。できる限りのことはさせてもらおう」
「ありがとうございます。お言葉だけで充分です」
「そうか。では、お経が始まる前に故人にご挨拶をさせてくれぬかの?」
「義母を御存知なのですか?」
ほとんど表に出てこなかった由美子さまを祖父が知っていることに気付いた橘がほんの少し驚きを滲ませて問う。
「お嬢がこまかときにの。あれは、そう、おまえさんの母御が生まれたときか……妹ができたと大はしゃぎで声を上げて笑っておった。あの時が、お嬢にとって一番いい時だったのかもしれん」
御祖父様の言葉に、橘の肩がわずかに揺らぐ。
「……義母の所へご案内いたします」
表情を改めた橘が、御祖父様に告げる。
「誉さん、大丈夫ですか?」
親戚筋の方らしき人が、気遣わしげに橘に問いかけてくる。
「どのみち、もうじき時間になる。開場しなければならないだろう。誰かが開けなければならないんだ、俺が行くよ」
穏やかな表情を作り、答える橘に、扉の中で何が起こっているのかを悟る。
「相良の御大には見苦しいところをお目にかけてしまいますが、それでも義母に会っていただきたいと思います」
「何の、気にせんよ」
にやりと笑った御祖父様は、私を連れてさらに奥に向かって歩き出した。