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私にとっては突然の、先方にとっては予定通りの、諏訪の父君の登場に動揺を隠し、平常心で立ち上がる。
「本日はお招きくださいましてありがとうございます、諏訪様」
フルネームは何と言ったか……。
諏訪家の名前は、『織』の一文字が入ることになっている。
詩織様と諏訪伊織がそうだ。
律子様は嫁いでこられた方だから、この限りではない。
ああ、そうだ。
斗織で『とおる』様とお呼びするのだった。
名前を間違えるのは相手を認識していないということで、失礼にあたるというより、侮辱と取られることもある。
パーティに出席する場合は、出席者の顔と名前を完全に一致させて行かないと、大変なことになる。
御呼ばれした場合も同じだ。
思い出してよかったよ。でも、呼ばないけどな!
「いや、こちらこそ。予定もお伺いせず、直接お招きして悪かったね」
悪いとは当然思っていないにこやかな表情で父君は頷くと、私に座るように促す。
家に送られた招待状なら、家長判断でお断りできるのだが、直接本人に手渡された招待状だと他の者がお断りできないルールがある。
そして、送った本人が招く相手よりも立場が上の場合、都合が悪くても断れない。
こちらが家の格で同格、もしくはそれ以上だとしても、相手が当主で目上ならば、未成年の私には断る術がない。
なんせ、招待状を渡したのが次期当主の諏訪伊織だし。
なので、形ばかりの謝罪を父君はしたのだ。
父君の言葉に私は曖昧に笑って濁す。
普通なら『そんなことはありませんわ、光栄です』とか、『ご招待を嬉しく思っております』とか答えるんだろうけど、別にそんなこと思ってないし。
何も答えない私に父君は苦笑する。
彼らに私を咎めることはできない。
私の都合も聞かずに強引に招いたという一点で。
「諏訪伊織様のご両親が、私に何のご用でしょうか? 親しい者を招いての気の置けないお茶会を開くとまで仰って」
私を招く理由も嘘つきましたよねーとにこやかに笑ってみる。
私がしっかり怒っていることを悟ったご両親は、実に微妙な表情を浮かべて笑みを浮かべた。
「あら、まあ、素敵。予想以上でしたわ」
「……だから、言っただろう? 瑞姫嬢は一筋縄ではいかないと」
夫婦で何やら意味不明な会話を交わしている。
どうやら、私が何も知らずに招待されると思っていた律子様と、そうではなくあらかたの予想をつけてやってくると思っていた斗織様とで話し合いがなされていたとみるべきか。
「すまないね。君と直接話をするためには、この方法しか思いつかなくて」
「パーティでお招きしようと思っても、相良様は即座にお断りなさるんですもの。伊織は悪くないのよ?」
「伊織様のことはわかっております。祖父の判断もそれが正しいと理解しております。今、この時期に私と接触する必要が何故あるのでしょう?」
素直に謝罪した方が良いと判断した父君と母君は理由らしきことを言いながらこちらの表情を窺っている。
面接・尋問、そんな雰囲気だ。
何を知りたいのかわからないが、そちらがそのつもりなら受けて立つしかないだろう。
背筋を伸ばし、ふたりにまっすぐ視線を向ける。
視線を逸らさない強さで、逆に相手のしぐさからすべてを読み取るつもりで、まっすぐに。
不躾だろうがなんだろうが、構わない。
手の内を明かすつもりがないのなら、わずかな情報から読み取ってやるともさ。
社会人経験者を舐めるなよ。
「まずは、うちの分家のことだ。君が相良を抑えてくれているのだろう?」
「心当たり在りませんが。何のことでしょうか?」
微笑むのではなく、きょとんとした表情を作る。
「そう来るのか。君が分家に対して無関心を貫いてくれているおかげで、実際、私たちは助かっている。あの時の相良家の怒りはすごかったからね」
「何度謝っても謝り足りないと、そう思っているの。年頃の御嬢さんにあんな酷い傷跡を……うちの愚息に責任取らせて……ということでは到底無理だということも承知しているわ」
気丈な諏訪の母君は、事故当時、一番に駆けつけて私の怪我を見ている。
あの怪我を見て私は助からないと思い、諏訪と詩織様を打ち据えて、私が亡くなったら一緒に死になさいとまで言ったらしい。
手術が終わるまで手術室の前で微動だにせず、握りしめた掌は爪で傷付けられ血塗れになっていたと後から兄たちに聞いた。
あの律子様を見ているから、諏訪本家への怒りは治まり、何の対応もなかった諏訪分家へと怒りが向けられた。
とりわけ相良分家は、主家を守るために存在する分家が本家を矢面に曝し、さらに他家の本家の娘にすべてを肩代わりさせようとしたと、それこそ根絶やしにしたいと諏訪分家憎しを顕わにしていた。
事実、取引があったところはすべて手を引き、他の会社へと移行し、また、取引会社へも手を引くように耳打ちしていったらしい。
諏訪本家にはそのままで、分家への制裁を行ったため、分家のみ一気に業績悪化したがそれを隠そうと奔走して粉飾して誤魔化しているため、今までそのことに本家が気づかなかったのかもしれない。
これも兄に聞いたことだが。
「そのお話を持ち出されると、私としては非常に困るのですが……とりあえず、普通の生活ができるようになりましたし。伊織様も良き学友でございますし」
普通の生活ができるようになっても、傷は完全に癒えてはいない。
できれば思い出したくないのだと、言外に匂わせれば、わずかに律子様の視線が落ちる。
「相良の者が何かご迷惑をおかけしているのでしたら、申し訳ございません。祖父に申して、次第を確かめて対処させていただきます」
「いや、それは大丈夫だ。相良家に瑕疵はない。あるのはこちらの方だから。羨ましいほどに相良家は一族の統率がなされているね。いや、分家に慕われぬ本家が悪いんだろうが」
自嘲した斗織様の言葉に、私は引っ掛かった。
分家の対応。
分家は常に本家を立てる。
それでいながら、本家のスペアであることを要求され続ける。
本家を守りながら、代わりに立てる者を育て続けなければいけない。
それは、どの家でも同じことだ。
本家の子供は、何をおいても守らねばならないと訓えられて育つ。
おそらく、詩織様もそうやって育てられたはずだ。
諏訪が詩織様に恋心を抱いたのは、詩織様が常に諏訪を一番に考え、理解し、守ろうとしてきたからなのかもしれない。
だとしたら、あの時、詩織様の行動は……。
諏訪御夫妻の会話は、私の耳を素通りしていく。
何を言われ、何を応えたのか、記憶に刻めない。
今、私が考えているのは、2年前のあの当時の詩織様の行動だ。
何故あの時、詩織様はわざと私の名前を呼んだのか。
てっきり、自分から私へ標的を変えさせるためだと思っていたけれど、あれは違うのかもしれない。
傍にいた諏訪から私へあの男たちの意識を逸らすためだったとしたら?
それならば、完全に成功した。
男たちは諏訪を突き飛ばし、私を追いかけた。
諏訪も無傷とは言えなかったが、せいぜい打ち身と擦り剥いたくらいで、怪我ともいえないほどの軽傷で済んだ。
自分を守るために私を犠牲にしたというより、諏訪を守るために私を犠牲にしたと考える方が、淑女の見本と言われた詩織様の行動としては納得がいく。
高校生は、それ以下の子供が思っているほど大人ではない。
社会経験はないし、視野も狭い。
知っているのは画面越しの世界だけだ。
人との駆け引きなど、せいぜい学校の中だけで、海千山千の大人たちとやりあえるほどの経験など積めるはずもない。
大学生になった今としても、さほど差はない。
男であれば会社経営の経験を積まされるが、女であればそれはむしろ避けられる。
その中で、分家の娘として本家の諏訪を守るつもりであれば、自分の名を落とすしかないだろう。
それと同時に、私への罪滅ぼしをするつもりであれば、相良に入ろうと思うかもしれない。
諏訪も私も同時に守ろうとして、あの手を取ったのなら、とんだ世間知らずの悪手だ。
それこそ、捨て身で諏訪を守りたかったのだろうが、詩織様が名を落とせば傷付けられるのは詩織様ではなく諏訪だ。
詩織様を守りたくて仕方がない諏訪が、心身ともにズタボロになる。
自分から遠ざけようとして、あえて振った詩織様は、そのあと諏訪がどうなるかなど一切考えなかったのだろう。
詩織様を守れずに、拒絶された諏訪は、それでも守る方法を探してああなった。
うん。やっぱり面倒臭い。
諏訪家は私にとって鬼門だな。決定した。
他人の恋愛ごとに巻き込まれるのは、無駄に体力を消耗する。
結論づいたところで、意識を諏訪御夫妻に戻す。
話題は今どうなっているのだろうか。
「……ところで、ひとつ聞いてみたいのだが」
あ。ちょうど話題が変わったところか、ありがたい。
「何でしょう?」
「あのどん底まで落ち込んでいた愚息を立ち直らせた方法をね、聞いてみたいと思って」
楽しげに笑いながら、斗織様が言葉を紡ぐ。
「今では学校が終わると会社に直行して、私の仕事ぶりを見ているのだよ。本当に熱心に。面白くて、仕事を1つ任せたら、これが割と使える。もちろん、高校生にしてみればという意味でだが、しかも、私のやっていることをそっくり真似しているしね」
「……そうですか」
「まあ、これから先、私の真似では使い物にはならないがね。今の段階でなら、これで十分すぎるほど優秀だと言える。だから、あの落ち込み具合を一気に引き上げて、ここまでにした君の手腕を聞かせてもらえないかと」
「そうなの。私の用事も進んで引き受けるようになって、助かっているのよ。どんな魔法を使ったのか、教えてくださる?」
「大したことは何も。大神様に、詩織様に振られて落ち込んでいるので何とかしてほしいと頼まれましたので、詩織様に認めてもらえるような大人の男になればいいと申し上げただけです。幸い、伊織様にはお父様といういいお手本がいらっしゃいますし。女性の扱い方に関しては、お母様の御傍で勉強させてもらえばよいと」
とりあえず当たり障りのないところを正直に答える。
まさか本当に答えるとは思っていなかったのだろう。
そして、その内容が意外過ぎたのか、おふたり揃ってぽかんと口を開け私を見た。
ふ。勝った!
表情を崩さないまま、私は優越感に浸る。
諏訪御夫妻を呆然とさせるなど、そうそうできる事ではないだろう。
先手を取った気分だ。
「………………く……」
斗織様が顔を歪ませる。
その一瞬後、斗織様も律子様も弾けるように笑い出した。
涙を滲ませての大笑いだ。
ここまで笑えば、気分爽快だろうと思えるほどに気分よく笑っている。
「見事だな! ここまで簡単にあの子を手玉に取れるなんて」
「あの子が、瑞姫様はすごいと言っていた意味がよくわかりましたわ!」
大受けだ。
いや、そんなに褒めないでくれ、照れるじゃないか。
内心で冗談を言いつつ、ふたりの反応を見守る。
「いやしかし、こう言ってはなんだが、瑞姫嬢と話をするのは非常に楽しいな。息子と同年代の女の子と話をしているというより、我々と同年代の女性と話をしているようだ」
楽しげなその一言で、私はしまったと唇を噛みしめる。
そうして、気が付いた。
前世24年+今生15年=39歳
アラフォーかっ!!
確かに大サバ読んで同年代だ……。
思わずよろりとよろめいて、ソファの座面に片手をつき、身体を支える。
衝撃の事実だった。
落ち着いて見えるというのは、言葉通り老けて見えるだったとは!
「あなた! 高校生の女の子に、それはいくらなんでも失礼ですわ。瑞姫様は凛然としていらっしゃいますけれど、可愛らしい御嬢様ですわよ」
律子様が即座に窘めてくださったが、目の前の事実に立ち直れそうにもない。
年相応の振る舞いというのはどうすればいいのかわからない自分が哀しい。
「あ……すまない。決してそんなつもりでは!! 瑞姫嬢?」
常に泰然としている斗織様とは思えないほど慌てふためき、おろおろとしながら私の様子を窺っているが、悄然と項垂れて無視してやる。
そこへノックの音がし、扉が開いた。
「こちらに父がいると聞いたが……相良!?」
驚いたような声と共に諏訪が駆け寄ってくる。
「どうしたんだ、相良? 傷が痛むのか?」
私の肩に手をかけ、床に膝をついて顔を覗き込んでくる。
「いや、傷が痛んでいるわけでは……少々、立ち直れないことを聞いてしまって……」
痛むのは心だと匂わせば、諏訪が両親を振り返る。
「相良に何を言ったんですか!? どちらですか!?」
意外なほどにものすごい剣幕だ。
「父か! 俺の師匠に何を言ったんです!?」
どうやら律子様が斗織様に視線を送ったらしい。
それで諏訪が斗織様の方に怒りを向けているようだ。
「すみません。気分がすぐれませんので、今日はこれで失礼させていただきます」
ちょうどいいタイミングで諏訪が入ってきてくれた助かった。
これ以上、諏訪の当主夫妻と腹の探り合いをするのは難しい。
「え、ええ。本当にごめんなさいね、瑞姫様」
諏訪の剣幕に驚きながらも律子様が了承してくれる。
おそらく諏訪の激情家なところは、律子様の血だ。
この母子はよく似ている。
「いえ。では、失礼いたします」
ソファから立ち上がり、一礼すると、扉に向かって歩き出す。
「相良! 送っていく!」
父親への怒りよりも、私を優先することにしたらしい諏訪が、私を追いかけてくる。
小応接間を出て扉を閉めた私は、ほっと息を吐く。
「大丈夫か? 父が何を言ったのかはわからないが、済まないことをした」
「いや、諏訪のせいではない。が、少々傷ついたのは確かなので、しばらくはお招きがあっても辛くて出席できないと思う」
「わかった。両親にはきつく言っておく。申し訳ない」
実に素直に謝罪してくる諏訪に、懐かれたものだとふと思う。
誰に似たんだろう、この犬気質。
そして、アラフォーは転んでもただで起きないというのは確かに言葉通りだと納得してしまう。
「ここでいい。では、また学校で」
そう言って、私は諏訪本邸を後にする。
詩織様に確認しなくてはいけないことができたと思いながら。