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御膳に乗った小鉢。
ほんの少量、形良く盛られたそれは、とても貴重なものだ。
金色のそれは、塩漬けにされた後、丁寧に塩抜きされ、その後、味付けされる。
実に手の込んだ逸品なのだ。
鮎のうるかという名前で、珍味中の珍味としてあげられる。
もちろん、知らない人の方が多いだろう。
高価なのは、数に稀少性もあるが、その後の調理法に非常に手がかかることも挙げられるからだ。
これが好きだと言えば、必ず酒好きと評されるほどに、酒の肴には最適らしい。
鮎は、解禁日が決まっているので、それ以前に食べることは叶わない。
食べられるのは、前年度に取った鮎を冷凍保存しているものだけだ。
それゆえに、保存食のひとつとして伝えられたうるかは、貴重なものなのだ。
本家に泊まらず、わざわざ旅館に宿を取ったのは、このうるかのためだ。
うるかの塩抜きには、日にちがかかる。
常に宿泊客に提供できるよう処理している旅館ならいざ知らず、本家でそれを食べたいなど我儘言うわけにはいかないのだ。
いくら大好物でも、その所はわきまえているつもりだ。
予想通りに小鉢に盛られたうるかに、隠せぬ笑みがこぼれる。
「……瑞姫、ん」
私の御膳に、小鉢がもう一つ増える。
うるかが大好物と知っている疾風からだ。
山の幸と川の幸で彩られた御膳の中に、燦然と輝く鮎の卵。
好き嫌いの少ない疾風だが、唯一、魚卵の類が苦手であることを私は知っている。
ある意味、give&takeなのかもしれないが、上手く自分の苦手なものを誤魔化しているところがずるいと思うのは駄目だろうか。
貰えて嬉しいので、ツッコミ辛いものがあるが。
「いいのか?」
一応、確認の為に尋ねてみれば、こくっと頷いて八寸に手を伸ばす疾風。
こちらを流し見る目は、何も言うなよと告げている。
そうか、魚卵が苦手だということを知られたくないのか。
何でだろう?
「ありがとう」
礼を告げて、小鉢を手に取り、うるかを味わう。
うん、美味しい。
この塩抜きの加減と、味付けがすごく難しくて、瓶詰で売っているものを買ってもなかなか家で調理を頼みづらいのだ。
中には、うるかの瓶詰をそのまま食べてしまう人もいるらしいが。
あんなにしょっぱいものをよくそのままで食べれるものだと感心してしまう。
あれ? もしかして、うにの瓶詰とかと同じように考えているとか?
それなら間違えて食べてても、頷ける。
それにしても、やっぱり美味しい。
ちまちまと箸で摘まんで食べていたら、何故か視線を感じて顔を上げる。
「………………?」
在原と橘がこちらをじっと見ていた。
「……何かな?」
何でそんなに見てるんだろう。
食事している人を注視するのはマナー違反だぞ。
「瑞姫、それ、もしかして大好物?」
在原が不思議なものを見たような表情で問いかけてくる。
「うん。滅多に食べれないから、特に好き」
「すごい、食べ方が可愛いんですけどっ!!」
何かツボにはまったらしい在原が、くつくつと笑い出す。
「瑞姫、僕のもあげる!」
「え? いいよ。静稀、うるかは食べたことないんだろ? 珍味だから、味わってよ」
「や。それより、珍しいもの見たし! 瑞姫を餌付けできるチャンスなんて滅多にないし」
……餌付け……?
珍しいって、私は珍獣と言うことなのだろうか。
疾風を見て、在原を見て、小鉢を見る。
よくわからない。
首を傾げて見た先に橘がいた。
「誉、何で静稀は笑っているんだ?」
聞いてみようと思って問いかける。
「ん~……まあ、そうだね。瑞姫が可愛いからだよ」
「は?」
やっぱり意味がよくわからない。
「よっぽど好きなんだね、それ。小さな子みたいな表情で食べてて可愛かったんだ」
え!? バレた!?
小さな子って……でも、これでも12歳なんだけどな。
「これ食べてる時の瑞姫は、いっつもこんな感じだぞ」
肩をすくめて疾風が言う。
そうなんだ。じゃあ、私と瑞姫さんが入れ替わったことがバレたわけじゃないのか。
「ギャップがすごすぎ。餌付けしたいんだけど、僕」
「餌付けはしなくていい。欲張らないから」
何事も程々が一番。
塩抜きしても、うるかは塩分が高いから、あんまりたくさん食べちゃダメなんだ。
ほんの少しで充分。
囲炉裏を囲んでの食事は、とても美味しかった。
こちらの本家の屋敷には囲炉裏があるので、私や疾風にとって馴染があるものだけれど、他の人たちには珍しかったらしく、自在鍵を眺めたり、炭をいじろうとして灰を降らせたりと大騒ぎをしていた。
翌朝、いつもの癖でかなり早い時間に目が覚める。
千瑛がまだ眠っているから起こさないように気をつけながら、部屋付きの露天風呂の方へ向かう。
お湯に浸かったところで隣の部屋の露天から水音が聞こえてくることに気付いた。
「……おはよう?」
とりあえず、声を掛けてみる。
「瑞姫か? 早いな」
返ってきた声は疾風のものだった。
「あれ? 疾風だけ?」
「うん。在原は撃沈してる。橘はそろそろ起きるころだろう。そっちは?」
「千瑛はまだ眠ってる。隣だからか、声、よく聞こえるねー」
さほど大きな声を出しているわけではないのに、とてもよく聞こえる。
「……ん。まぁな……」
途端に、疾風の答えが鈍る。
「……あのな、瑞姫」
「ん?」
「昨日、そこで菅原姉からマッサージ受けてたろ?」
「ああ、うん」
そう言えば、そうだったな。
「大丈夫だったか? 痛くなかったのか?」
「んー……ちょっと痛かったけど、大丈夫だったよ。傷じゃなくて、反対側の方が妙な具合に筋肉使ってたらしくって、ちょっと痛めかけてたみたいだったのを解してもらったし」
「……そうか」
ちょっとホッとしたような声が返ってくる。
「昨日、ちょっと痛そうな声が聞こえてたから、在原が心配してたんだよ」
「あ。そうなんだ? だから、昨日、静稀が少し変だったんだー」
でも、顔が赤かったのは何でだろう?
「それと。マッサージしてもらうんだったら、外じゃなくて室内でしてもらえ」
「うん、わかった」
疾風の言葉に頷いて、空を見上げる。
川霧が上がってきて、あたりは真っ白の世界だ。
川と地表の温度さが、夏と冬とその両方で結構な差があるため、霧が発生しやすいのだ。
霧が出ている間は、外に出ないように言われている。
車のライトすら厚い霧に覆われて見えないために、とても危険なのだ。
本家に泊まっていたときに、庭を散歩していて足を踏み外して池にハマるということをかなりの頻度でやらかした幼少期の黒歴史がある。
普段からも池の方には近寄るなと言われていたが、朝霧のおかげで全く見えず、方向を見失って彷徨った挙句にやらかしたため、こちらでの早朝散歩は一切禁止されたのだ。
霧が出る日は、大体快晴になることが多い。
きっと、散策日和になるだろう。
「さてと。今日はどこへ行こうかな」
暑くなるなら、川下りして鍾乳洞探索で涼もうかな。
ストレッチ代わりに体を温めながら、私はそう思案した。