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見ず知らずの女の子に、『八雲先輩!?』と兄の名前を呼ばれてしまった。
空気が凍りついた、居たたまれない、主に私が。
(うあーっ!! 最っ悪! こいつ、記憶持ちの転生組だわ。それでこの性格か!! 性質が悪いったら)
瑞姫さんの叫び声で、はっと我に返る。
まるで、私の中でごろごろと床を転がっているような彼女の声に、大丈夫なのだろうかと心配してしまう。
そうして、問題の東條凛を見れば、彼女は彼女で何やらぶつぶつ呟いている。
「おっかしいなぁ。八雲先輩とのイベントは、確か中庭の読書中が最初だったはず。でも早く会えれば、その分、攻略しやすくてラッキーかも?」
うん。私には意味が解らない。
諏訪も気味が悪いものを見ているような視線を彼女に向けている。
だから、諏訪。女の子は丁重に扱うべきだと何度も言っているのだが。さすがにその視線は失礼だと思うよ。
「失礼だが、君は何故兄の名前を知っているのかな?」
この場の打開策は、私が何か言うべきなのだろう。
わかっているが、あまり話したくない相手でもある。
疾風たちが言っていた意味が何となくわかった。
「え? 兄!?」
「八雲は、私の兄だ。そして、5歳ほど年上であるから、当然ながら高等部にはいない。そうして、私と兄を間違えるような者は、この学園には誰ひとりとしていない。君は、何故、兄の名前を知っている?」
私と八雲兄上の顔の見分けがつかないのに、兄上の名前を勝手に呼ぶとは失礼極まりない。
それ以前に、八雲兄上の名前を知っていたということだけで、相良家に対し含むところがあると他の者に思われても仕方がないところだろう。
仇為す者なのか、阿る者なのか、見極めなければそれなりのリスクを背負うことになるだろう。
「何故知ってるって、皆、知ってるでしょう!?」
「この学園にいる者の多くは知っているな。兄の顔と一緒に。だが、知らない者もいる。外部生の殆どは兄の顔も名前も知らない。君は外部生だろう?」
皆が知っているから自分も知っているは通用しない。
そう言えば、目を瞠り、そうして落ち着きなく視線を左右に振っている。
「じゃあ、あなた、誰よ!?」
彼女が口にした言葉に、周囲の気配が悪化した。
「……君に名乗る名前はないようだ。今後、君に関わるつもりもない」
人の名前を尋ねる時は、まず自分の名前を告げてから。
その最低条件も守れぬ相手に名前を乞われても答える者はいないだろう。
そのことに気付かない彼女の態度も周囲の評価を下げる結果となっている。
「……行こうか」
疾風と橘に声を掛け、彼女の隣を通り過ぎる。
「ちょっと待ってよ!! 疾風君も誉君も!! 私、あなたたちの味方よ!」
叫びにも似た声に、疾風も橘も嫌悪を浮かべる。
マナーがなっていない。
私の溜息を周囲の者が捉えたようだ。
「……相良」
一瞬、本気で嫌そうな表情を浮かべた諏訪が、その直後、私に向き直り、声を掛けてくる。
「ああ、諏訪。先程はすまなかった。心配してきてくれたのだろう? 体調はこの通り、何ともない。君には悪いことをしてしまったな」
足を止め、諏訪の言葉に謝罪と謝意を告げれば、彼はホッとしたように首を横に振る。
「いや。あれは場を読まぬ俺が悪かった。体調が悪い時に俺と会えばどうなるか、きちんと考えればわかることだった。すまない」
そう言って頭を下げる。
矜持の高い彼が人前で私に頭を下げるとは誰も思わなかったのだろう。
あちこちで息を飲む音が聞こえる。
「頭を上げてくれ。謝罪は必要ない」
そう言えば、おずおずと諏訪が顔を上げる。
「何かあれば、俺にも言ってくれ。手を打てることがあれば、何でもしよう」
「その言葉だけで充分だ。ありがとう」
そう言った私の言葉で、この場は一旦収まる。
東條凛という存在を無視した形で。
今の私には、彼女にどう対応していいのかわからない。
これは早く家に帰って、瑞姫さんが残してくれた日記と資料を見る必要があるな。
「ちょっとちょっと! これ、何のイベントよ!! BLじゃないんだから、ヒロインを無視しないでよね」
意味の分からない言葉が響き渡る。
びーえるって何だろう?
(瑞姫、今の言葉は即刻忘れなさい。耳が穢れる。というか、彼女が発する言葉全部、気にする必要ないからっ!!)
瑞姫さんが激しい口調で怒りをあらわにしてくる。
多分、隣にいたら、耳を塞がれていたかもしれないほど、憤っていることは確かだ。
わ、わかった。忘れるし、意味も問わないから、落ち着いて……
(おや? おかしなことを言うね、瑞姫。私は落ち着いているとも)
にこやかに、だけど怒りに満ちた声音で帰ってきた言葉に、私は沈黙を守ることにした。
次のH.R.は予定通り、委員決めだった。
まずはクラス委員を決める。
在原と女子からひとりが選出された。
この2人の司会で、委員を選び出していく。
「次、図書委員だけど、立候補者はいますか?」
在原の問いかけに、私と疾風が手を上げる。
「あれ? 瑞姫、図書委員、やるの!?」
意外そうな表情で在原が言う。
「うん。本は好きだしね」
「ああ、そだねー。図書館での遭遇率、高いよね。ちょうど2人だから、決定」
有無を言わさず黒板に名前を書き込み、次の委員の立候補を募る。
意外と簡単に決まったことに、ほっとする。
図書委員は大体において本好きが立候補することが多いので、地味に決まるのが早い。
委員会活動と称して、公然と読書に勤しむのだ。
本好きにはたまらない魅惑の委員会だ。
すべてが出揃ったところで、初めての委員会の日付とそれぞれの場所を告げ、必ず出席することを念押しして、今日の予定をすべて終えた。
***************
屋敷に戻り、別棟へと向かう。
記憶では、退院後からここで生活をしている。
1階の共有スペースを通り抜け、2階のプライベートゾーンに向かう。
飾り気のない、シンプルだけど落ち着きのある部屋が私を待っていた。
これが彼女の好みか。
きちんと整えられた部屋を見渡し、感心する。
彼女が言う『元は同じ』の意味がわかった気がする。
実に私好みの誂えだ。
すぐに制服から部屋着に着替え、勉強部屋へと移る。
この机の引き出しに、例の物が入っている。
引出しを開け、鍵のついたノートを2冊、取り出す。
鍵のありかは、引き継がれた記憶の中にちゃんとある。
「さてと。どちらから読むべきか」
片方が日記、もう片方が資料だろう。
やはり、日常の齟齬をなくすために日記が先だろうな。
(資料を先に読んでくれないか?)
ふいに瑞姫さんの声が聞こえた。
「資料から?」
(そう。先に東條凛対策をしておこう。疾風と誉の名前を呼んでいたということは、記憶持ちの可能性が高い)
「記憶持ち?」
(確証はない。が、今までの情報から見ると、前世の記憶を持っていると考えると、あの子の行動の違和感が納得できる)
「違和感?」
奇妙だとは思うが、何を持って違和感だと言っているのかがわからない。
表面的な記憶は引き継げたけれど、前世の記憶だとか、感覚的なところまでは引き継げず、そうして今も瑞姫さんが考えていることはわからない。
彼女を一個人として考えれば、当たり前のことなのだけれど、自分の一部として考えると少しばかり不便と感じるだろう。
私にとって瑞姫さんは、瑞姫さんというひとりの人間なので、こればかりは仕方ないと諦められる。
(まず最初にね、東條凛は両親を車の事故で失い、東條家の祖父母に引き取られるはずだった。ところが、事故で亡くなったのは父親だけ。母親は凛本人が引き止めている)
「それが?」
(東條家に戻る際に、父親がいると確かに不便なんだけれど、母親にはお嬢様としても知識を与えてもらうために必要だったとも考えられるし、他にも理由がいくつか考えられる)
「それは、どんな理由だろう?」
確かに一般社会で育っていたなら、お嬢様としての所作や常識など誰かに教えてもらわないと馴染めないだろう。
パーティに招待された時の衣装の選び方など、実に独特だ。
相手に合わせ、季節に合わせ、様々な条件を重ね合わせて選び抜かなければならないのだから、招待されても速攻でお断りしたいというのが本心だ。
(それはね、まだ言えない。それこそいろんな理由があるし、中にはとてもひどいものもある。まさかと思うような理由だから、情報を集めてからじゃないと言いたくない)
真摯な口調。
瑞姫さんは広い視野を持っている。
ありとあらゆる可能性を考えて、そこから集めた事実と照らし合わせて答えを導き出すようだ。
「わかった。じゃあ、まず、資料に目を通すから、その後で質問させてください」
そう言って、私は鍵を開け、資料に目を通しだす。
それは、私にとって衝撃的な事実であった。