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怖い。
とにかく、怖い。
普段穏やかな人が怒るのは、これほどまでに怖いのか、実感した次第であります。
「……何がもう大丈夫だって?」
穏やかに微笑む橘が静かに問いかける。
一度、眠りについて、短い睡眠の後覚醒すれば、橘と疾風のお説教が待っていた。
疾風に怒られるのはいつものことなので覚悟はしていたけれど、橘は予想外だった。
自分の中で、瑞姫さんも苦笑しているから、やっぱり予想外だったのだろう。
諦めろという気配がひしひしと伝わってくるのがもっと嫌だ。
「だから、えっと……あれは、不意打ちだし……」
意気地なしと言われても、今だけは素直に受け入れます。
怖いです、橘。
本気で怖い。
「まあ、あれは仕方がない。あの場面であいつが来るとは誰も思わなかったし。フラッシュバックがいつ起こるかなんて、瑞姫にだってわかるはずもない」
しょぼんと肩を落としていたら、疾風が絆されてくれた。
こういうところが優しいんだよな、疾風って。
「それは、まあ……だけど」
「俺としては、いつまでも瑞姫の周りをうろうろするあいつが気に入らないんだけど? 絞めに行っていいならいつでも喜んでいくけどなー」
「岡部。今回の件は、瑞姫よりも諏訪の方がダメージ深いから、追い打ちはやめておけ。大神が対処できなくなるだろ?」
「東條と一緒に諏訪も東雲から退場させられるなら一番手っ取り早いんだけど」
疾風の表情が怖い。
橘と違う方向で疾風も怒っていたのか。
今現在、保健室にいます。
目が覚めたばかりというのが正しいか。
どうやらあれから20分ばかり眠っていたようです。
意外と早く戻れたことに驚きだ。
これなら教室に戻ってもいいと思うのだけど。
高等部の教室がどうなっているのか、この目で見たいという好奇心が抑えられない。
瑞姫さんの記憶は引き継いでいるけど、やっぱり、自分の目で確かめて、ちょっとした差異を楽しむのもいいかなと。
「瑞姫? まだ、気分が悪いのか?」
2人のやり取りを黙って聞いていたら、疾風が心配そうに顔を覗き込んできた。
「いや、大丈夫! 話の邪魔をするのも悪いかと思って……」
「……瑞姫。分が悪いから、話題が変わるまで大人しくしていようとか思ってたんだろ?」
くすっと笑った橘が、私の頭を撫でる。
「む。それはない! その東條さんにはまだ会っていないから、今の段階で何も言うことはできないなとしか……」
「会わなくていいから!!」
疾風と橘が異口同音でぴたりと口調を揃えて言う。
「アタマの悪い変な女が入ってきたと、話題もちきりだ」
「え!? 今日、始業式だよ? 今日が転入第一日目なのに、そんな話がもう上がってるの!?」
驚いてそう言えば、疾風と橘が深々と溜息を吐く。
そうして、もう1つ、私の内側でも溜息が漏れた。
(東條凛なら、ありえる。あれほど残念な女はいないから……)
会ったことのない人のことをここまではっきり言えるのは、瑞姫さんが持っているという前世の記憶とやらが関係しているのだろう。
残念ながら、瑞姫さんの前世の記憶は、私には見えないのでわからないのだ。
「とにかく気持ちが悪いと言っているのをさっき聞いてきたばかりだ」
橘が顔を顰めて言う。
これは、珍しい。
橘は他人のことを悪しざまに言うことなどほとんどない。
誰に何を言われようとも、気にせず流してしまうのが、彼の性格なのに。
「ふうん……って、あれ? 誉!? H.R.はどうしたの!? 君、隣のクラスだよね!?」
「……サボった。菅原弟が良いって言ったから」
「千景が!? あの、真面目な千景が!! うわあ……明日、天変地異が起こるかも」
驚いて言えば、ぺちりと橘がおでこを叩いた。
「それだけ心配してたんだって。彼がそこまで気にかけるのって、菅原姉以外には瑞姫しかいないんだから」
「あー……うん。あとで謝っておく」
「そこは、心配してくれてありがとうだろ?」
「そうか。じゃあ、誉も疾風もありがとう」
素直にお礼を言えば、2人揃って頭をぐしゃぐしゃになるまで撫でられた。
何でだ?
「茉莉姉上、もう教室に戻ってもいいでしょうか?」
一応、主治医になる茉莉姉上に問いかければ、くつくつと笑いながら姉上が頷く。
「瑞姫、髪の毛、はねてる」
「うわっ! どこどこ!? きちんと梳かしたのにっ!!」
ぐしゃぐしゃになった髪を櫛で梳かして整えていたはずなのに、指摘されて慌てる。
「疾風。瑞姫の面倒を見るのはあなたの仕事でしょ?」
「申し訳ありません、茉莉様」
壁に掛けられた鏡を覗き込み、はねてる箇所を探す私の後ろで、茉莉姉上と疾風が話している。
「大丈夫だよ、瑞姫。綺麗になってるから」
橘がとんとんと肩を叩いて言うが、本当だろうか?
思わず見上げて視線で問えば、橘はにっこり笑って頷いている。
「……茉莉姉上~っ!?」
からかったな。
「引っ掛かる方が悪いのよ? というより、原因を作った方ね。疾風と橘君?」
にこやかに微笑む茉莉姉上が、2人を流し見れば、首をすくめる2人の姿が。
「瑞姫が可愛いからって、構いすぎるのはどうかと思うのよ?」
今、可愛いからが面白いからと聞こえたような気がするのは何故だろう。
玩具扱いですか、私は。
反論するのも面倒臭いので、ここは流して教室へ戻るとしよう。
3人をその場において、戸口へと向かう。
「瑞姫?」
「教室へ戻ります」
がらりと扉を開けて、一礼して保健室を出ると、血相を変えた疾風と橘が追い駆けて来た。
教室へと向かう廊下。
中等部の校舎よりもやや古めかしい建物だが、設備は中等部よりも充実している。
ここが高等部か。
初めてではないが、あまり馴染ない校舎を歩きながら、私は緩く目を細める。
「瑞姫! 置いていくなんてひどいじゃないか」
疾風が抗議してくるが、知らん顔だ。
「瑞姫! 1人で歩いて大丈夫なのかい? また立ちくらみとかする可能性もあるから、保健室で横になっていた方が……」
「大丈夫」
橘の言葉にそう答えたとき、チャイムが鳴り響く。
「あ。今日のH.R.ってもう終わり?」
初日から来ているのに欠席というのも問題児かもしれない、私。
思わず振り返って2人に問えば、顔を見合わせた2人が首を横に振る。
「あと1時限あるはず。役員決めとか今日する予定たっだし」
「……今、何時だろう?」
思わずそう呟いて、腕時計を眺める。
まだ午前中だ。11時になるかならないか。
瑞姫さんの記憶と照らし合わせ、今日の予定を確認する。
そうか。
さほど長い時間、倒れていたわけではないようだ。
瑞姫さんは図書委員になりたがっていたから、私も図書委員になろうかな。
軽い気持ちで考え、それがいい考えのような気になる。
「ああ、そうだ。疾風、私、図書委員になろうかと思う」
委員は各クラス2名選出が基本だ。
これは、男女問わず2名出ればいい。
「そうか。じゃ、俺も立候補しよう」
あっさりと疾風が頷く。
ゆっくりとした歩調で2年の教室近くまでやって来た時だった。
「ねぇねぇ! そんなに落ち込まなくてもいいんだよ! 失恋なんて誰だって1度や2度経験することなんだからっ!!」
すごく明るい声が廊下に響き渡る。
「は? 何言ってるんだ、おまえ?」
意味が解らないと言いたげな声は諏訪のもの。
諏訪の姿が廊下に現れた途端、疾風と橘が私の前に出る。
さっきのフラッシュバックもどきを気にしているのだと、その態度でわかる。
「疾風、誉、大丈夫だから。もう、さっきのようなことは起こらない」
2人の腕を軽く叩いて2人の間から私が前に出る。
「瑞姫」
「さっき、諏訪も心配して保健室に来ていただろう? 一応、礼を言うべきだと思うしね」
そう言って歩き出す。
近付く私の姿に気付いた諏訪が、一瞬だけ表情を強張らせたが、平然と近づく私にホッとしたように表情を緩めた。
「強がらなくていいんだよ? 私、知ってるんだから。でもね、失恋って新しい恋をすれば癒されるんだから。私が傍にいてあげるし」
話しかけようとこちらに近付こうとした諏訪を遮るように声を掛けてくる少女。
先程の場違いなまでの大きな声は、この子か。
思わず瞬きをした私の目の前で、その子は無遠慮に諏訪の腕に自分の腕を絡めようとした。
(うわーっ! 聞きしに勝る残念振りだな。全然空気が読めてない)
瑞姫さんが物凄く嫌そうな声を上げる。
まるで彼女が誰か知っているような口振りだ。
(あの子が、東條凛だよ。ゲームの東條凛とは微妙に違うみたいだけど)
そう説明してくれるが、嫌悪感に彩られている。
無理もない。
諏訪伊織は失恋していない。仮に、そのことが事実だとしても、自分で決めたことで吹っ切っているはずだ。
彼女の言葉は一方的な思い込みで彩られているとしか傍目からは見えないのだ。
そうして、許可もなく、相手に触れるのはよほど親しい相手でなければ許されない行為だ。
今日が転校1日目である彼女が、面識のない諏訪と親しい間からだとは決して言えないだろう。
それを証拠に、諏訪が嫌悪の表情を浮かべて彼女の腕を振り払った。
「俺に触れるなっ!!」
完全な拒絶。
男の腕力で振り払われれば、いかな彼女とてよろめくだろう。
近距離にいた私は、仕方なく彼女を支えてすぐに手を離す。
「前にも言っているだろう、諏訪? 女性は丁重に扱うように、と」
「相良!!」
困惑したような表情の諏訪とは対照的に、少女の方は私を見て喜色を浮かべる。
「八雲先輩!?」
「……は?」
その瞬間、空気が凍りついた。
うん。
瑞姫さんが言ったことは正しい。
空気が読めてないし、人の名前を間違えるとは、残念な人だ。
私の東條凛への第一印象はこれで決まった。