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視界に白い天井が移り込む。
それが天井だと認識して、自分が目が覚めたのだと気付く。
見慣れない天井。
否、記憶にある天井だ。
そう思い直し、唐突に理解する。
これは自分の記憶ではなく、『彼女』の記憶なのだと。
自分の記憶の最後は、赤い視界だった。
見えていたモノがすべて赤に塗り潰されていく。
その赤が、黒にとって代わり、唐突に切れた。
その後は闇の中だ。
どれだけ彷徨っていたのかはわからない。
彼女の言葉だと3年半ということだが。
声を上げても、何処にも届かず、光もなく、行く先もわからず。
蹲って泣いていたこともある。
それが変化したのはつい最近だ。
闇の中、声が聞こえた。
凛とした張りのある厳しい声。
でも、すべてを包み込むような優しい声。
その声が、私の行く道を教えてくれた。
何も見えなくても、あの声が聞こえる限り大丈夫だと思えた。
一歩一歩、ゆっくりと歩き、辿り着いたところに彼女がいた。
記憶していた自分の顔よりもやや大人びた顔で、背も高かった。
聞けば16歳の私だという。
そうか。
16歳の私はこんな顔をしているのか。
納得するというよりも、感心した。
私がそのまま過ごして16歳になったよりも遥かにカッコいい気がしたからだ。
短くなってしまった髪には驚いたけれど、それは仕方のないことなのだと理解している。
それに、背が高くなった私にはよく似合っている。
きっと、この人はモテるのだろう。
穏やかに微笑むだけで、何だか優しい気持ちになれるような空気を持っている人だから。
だけど、話をすれば、大人だけれどやっぱり自分で、そこが少し驚いた。
疾風が怒ると怖いって、こんなに大人になってもやっぱり思っちゃうんだと笑いが出そうになる。
私がこんなに大きくなっているということは、疾風も大人びたんだろうな。
色々と考え込んでいるうちに、身体の感覚が徐々に戻ってくる。
多少、違和感がある。
右側が少し動きづらいし、感覚が鈍い。
事故の影響なのだろうか。
だとしたら、本当に申し訳ないことをあの人にはしてしまったことになる。
ここまでになる間、相当な痛みと戦っていたことになるのだから。
そう言えば、あの時、咄嗟に手首を掴んでしまったのだけれど、あの人はどうなってしまったのだろう。
確かにしっかり掴んでいたはずなのに、気付けばこの身体には私の意識が繋がってしまっている。
(本当にね。何の手違いで……)
えっ!?
不意に、耳許で告げられたかのように、鮮明な声が自分の内側から聞こえて驚く。
(予定では、あのまま眠りつくはずだったのに)
残念そうな声音で告げられるその口調は、あの暗闇の中で聞いたものと同じものだ。
ええっと……もしかして?
(そうだよ。何故か私も覚醒したまま、君の意識にリンクしちゃってるんだよ)
呆れたような口調で告げられる言葉に、私は目を剝く。
まさか、そんなことが!?
(そのまさか、だ。ま、もっとも、意識だけで、身体は自由にできないから、安心して)
いや、安心してとか、ないと思う。
元々私の代わりに瑞姫として過ごしていたのだから、自由に使われても別にいいというか。
(本体が何を言ってるんだ!? 本体なら本体らしく、付属の私に口出しさせないようにしゃっきり意識を保ちなさい!)
びしりと言われ、瞬きを繰り返す。
やっぱり格好いいなと思ってしまう。
ふと気が付けば、これまでの記憶が無理なく私の中に納まっていた。
思っていた以上に過酷な病院生活だった。
これを乗り切ってしまった人に脱帽してしまう。
ええっとこれからどうすればいいと思う?
(起きたことを知らせて、疾風に怒られる)
やっぱりそれが最初か。
むしろそれしか選択肢がない。
仕方なく、ゆっくりと起き上がる。
上体を起こし、ベッドの下へ足をおろし、縁に腰を掛ける形で身体の動きを確かめる。
何とか思い通りに動いている。
そう安心した時、仕切られていたカーテンがいきなり開けられた。
「うわっ!?」
「瑞姫っ!!」
飛び込んできた疾風に肩を掴まれたかと思うと、熱やら脈やらをてきぱきと見られる。
「吐き気とか、頭痛とか、気分が悪いとかないのか!?」
「だ、大丈夫……」
疾風の有無を言わさぬ迫力に押され、引き気味に答えれば、ほっとしたように疾風の表情が緩む。
「……いきなり倒れるから、焦った……」
「ごめん」
「大体何で体調悪いとか、気分が悪いとか、先に言わないんだ! 言っていたら俺だって対処のしようがあるのに!!」
「……ごもっとも」
怒る疾風に逆らうな。
これが、私と彼女の共通の意見だ。
絶対に正しいと思う。
「で? 何で言わなかった?」
「……気付かなかったから」
「は?」
「だって、体調悪いとか全然わからなかった。何で倒れたのかもわからない」
「………………」
あ。
怒ってる。
めちゃくちゃ怒ってる。
内心、びくびくしながら疾風を見上げ、本当に大きくなったなあと感心する。
精悍というか、剽悍な顔立ち。
無駄を削ぎ落としたしなやかな体躯。
背が高く、きっちりと筋肉もついているのに、無駄な威圧感を感じないのはそのせいだろう。
だけれど取り巻く気配はその時々で異なるのだろう。
「……瑞姫、何考えてる?」
地を這うような低い声が怒りを抑え問い詰めてくる。
「疾風、身長伸びたなぁ……って考えてた」
正直に答えれば、がくりと疾風が肩を落とした。
「それはない。伸びてないから」
「え? まだ伸びそうな感じがするけど」
「そりゃ、まだ伸びるとは思うけど。あんまり伸びると服がないからな」
「そうかな? でも、疾風、服はオーダーでしょ?」
「さすがに普段着は既製品を買ってる。自分の服くらいに無駄買いしたくないし」
疾風を取り巻いていた空気が和らぐ。
それどころか、力尽きた感じがする。
「そうなのか。既製品か……」
「瑞姫は駄目だからな。生地はいいものを選ばないと肌を傷める」
「それは、うん。でも、疾風が服買うの付き合ってもいい? どういうのがあるのか、見てみたい」
吊るしてある服を買うということは、まったく経験がない。
定期的に契約している数人のデザイナーに、欲しい服のイメージを伝え、生地を選んで、デザインして貰ったものを見て、それを手直ししてから作ってもらうというのがいつものパターンだ。
知識として、ショップやデパートなどに既製品が吊るしてあり、それを見てサイズを合わせて買うということが一般的であるということは知っている。
知っているが、自分がそうやって買ったことはないし、誰かが買っているというところを見たこともない。
興味を持っても不思議ではないだろう。
そもそも、お店に行って買い物をするということすら、私はしたことがないのだ。
彼女の方はあるみたいだけれど。
「あら、瑞姫? 本当に目が覚めたのね」
のんびりとした声が響き、この部屋の主が顔を出す。
「茉莉姉上」
「ん。貧血じゃなさそうね。体温も通常通り。脈拍も……平常域。問題ないようね」
疾風と同じ手順であちこち調べた後、茉莉姉上のお墨付きをもらう。
「もう、教室に戻っても?」
「そうね。大丈夫かしら……自分で倒れた心当たりはある?」
「まったくないです」
「寝不足も?」
「ありえない。しっかり眠ってるし」
「そうよねぇ。原因がわからないっていうのが一番怖いのよね。帰ってからもう一度診るから、母屋に顔を出してちょうだい?」
「わかった」
素直に、従順に。
やましいことがなければ、それが一番いい対処法だ。
あっさりと頷けば、茉莉姉上はカルテに何やら書き込む。
そこに、バタバタと複数の足音が響く。
がらりと扉が開き、中に飛び込む人の気配。
「瑞姫!!」
「やかましいっ!!」
いくつもの声が私の名前を呼び、茉莉姉上が一喝する。
女帝様、健在だ。
その声に、私は戻ってきたのだとようやく実感した。