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こちらへ向かって歩く女の子。
でもまだその姿は遠い。
大丈夫、このまま真っ直ぐこちらへ歩いて来て。
迎えに行けなくてごめん。
でも、待ってるから。
私の声が聞こえると、ほっとしたように微笑む少女。
必ず会えるから。
皆、君を待っている。
嬉しそうに頷く女の子に私も笑みを浮かべながら、浮上する意識をその流れに委ねる。
まだ、彼女の姿はあんなに遠い。
いつになれば、辿り着けるのだろう。
かすかに抱く不安を押し隠し、私は瞼を持ち上げた。
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校舎から3年生の姿が消え、少しばかり淋しさを感じる。
バレンタインの時ばかりは、自由登校であるにもかかわらず殆どの3年生が登校していた。
あれはプレゼントを配るためなのだろうか、それとも貰うためなのだろうか。
ちょっと胡乱なことを考えてしまう。
間もなく始まる期末テストに向けて、万全の態勢を整える。
1年間学んだことが総てテスト範囲となる。
どこがでるか、わからない。
だからこそ、万遍に知識が偏らず身についているかを確認しなければならない。
バレンタインの諏訪からのプレゼントは万年筆だった。
おそらく、限定ものか特注品だ。
筆身に細かな螺鈿細工がしてある工芸品のような繊細な美しさを持つ一品だ。
学生が、学生に贈るような品ではない。
中身がなんであるかを知っていたら、確実に突き返していただろう。
贅沢すぎて受け取れるわけがない。
でも、受け取ったものを返すわけにはいかないので、一応、父と祖父には報告しておいた。
品物を見るなり、メーカー名を呟いた父の表情は忘れられない。
万年筆をこよいなく愛する父は、こういった文具には詳しい。
100均文具なら私も詳しいが、値の張るものには疎い。
そんな私でさえ知っている有名な名前だった。
聞いた瞬間、ぎょっとしてガクブルしそうになった。
カートリッジも使えるタイプだったので、安心したけれど、通常ならインク壺のみで書くランクのものらしい。
握り方や書き方を誤ると、インクで指先が染まってしまうので敬遠されがちだが、私は万年筆が好きだ。
しかし、諏訪はどこからそんなことを調べ上げたのか。
実際に書き心地を確かめたい気もするが、筆身の細工が恐ろしくて触れる事すら躊躇われる。
一方、大神がくれたのは意外過ぎるものだった。
小さな手のひらサイズのテディベア。
しかも、とてもよい香りがするのだ。
テディベアが持っている蜜壺の中にアロマオイルが入っており、そこからとベア本体から同じ香りが漂ってくる。
今、そのテディベアは枕の上にちょこんと座っている。
そこが彼の定位置だ。
安眠できる香りを身に纏っているので、そこが彼の仕事場となったのだ。
そこで頑張って働いて、私を安眠へと誘ってくれ。
眠ることほど幸せなことはないからな。
大神が贈ったものだから、中に盗聴器とかが入っているんじゃないのかと疾風が胡散臭そうな表情でテディベアを眺めていたが、ベッドルームで独り言を言う癖はないし、寝言じゃ真実かどうかの整合性は取れないし、盗聴器って近距離でしか集音できないと聞いてるし、一番の問題はこのテディベア、アロマオイルに浸して香りを保たせるタイプなので、オイルの中に浸かったら機械は壊れるよね。
全然問題ないだろう。
皆、色々と趣向を凝らしたプレゼントで、パッケージを開けるのがとても楽しかった。
まぁ、もちろん、中にはドン引きしたものもある。
高級ランジェリー一式というやつだ。
贈り主は島津斉昭という。
同じ学年で、未成年だというのに女性の扱いに非常に長けているやつだ。
成績は中の下あたりを彷徨っていて、真面目とは対極の位置にいる。
そこそこ人気はあるようだが、できれば近付きたくない相手だ。
しかしながら、私の意見とは全く逆の意見を彼は持っており、疾風たちがいない時を見計らって絡んで来ようとするのだ、ありがたくないことに。
ちなみに島津家とは犬猿の仲なので、無視しても全く問題なしというお言葉を祖父からいただいている。
そりゃね、エロ系なランジェリー一式をプレゼントされてドン引きしない女性は少ないだろう。
可愛らしい透け感のあるピンクの生地に黒のレースをふんだんに使っており、ブラとショーツ、ベビードールとガーターベルトにガーターストッキング。ショーツはタンガだった。
同じ年だとはいえ、高1の女の子に夜な下着を贈ってどーする気よ?
おっさん臭いんだが、島津!!
さすがにこれは、父と祖父には言えなかった。
気の毒なことに、これを開けたときに疾風がいた。
一応、プレゼントに危険物がないか確認するために、疾風が立ちあっていたんだけど。
可哀想にがっつり固まっちゃってましたとも、真っ赤になって。
そして一番悲しいことに、サイズが合ってたんだよ。
どこからサイズを仕入れたんだ!?
さすがに疾風でも私のサイズは知らないぞ。
勿論兄たちもだ。
これは、殴ってもいいレベルだよなー。
よし。
今度、島津が何か仕掛けたときは、遠慮なく殴ろう。
そうしようっと。
3学期になって、昼休みなどの空き時間は殆ど温室であるサロンで過ごすようになった。
あそこが一番暖かいからだ。
放課後も、迎えが来るまでの間、サロンでお茶をしながら試験勉強対策をしている。
それを知った千瑛と千景も、今までなかなか足を向けなかったサロンに来るようになった。
「足の具合はどう?」
私の脚に掛けられた膝掛を見た千瑛が問いかけてくる。
「調子は悪くないよ。膝掛は予防措置だから」
「そう。でも、冷えると調子悪くなるのよね?」
「まぁ、ね。傷口を締め付けるのはあまりよくないから、ストッキングやタイツが使えないからねー」
「摩擦でケロイドが広がる恐れがあるしね。冷えると、血流が悪くなるから、筋肉も委縮していくし」
「……あれ? 千瑛って、医科志望?」
ふと思いついて問いかけてみる。
「そうね。瑞姫ちゃんを見て、医者になるのも悪くないかもと思ったわ。第一志望はエステの方だけど。あれも人の身体に詳しくないと駄目だしね」
「千瑛のマッサージは気持ちいいよ。資格試験、合格するといいね」
「ありがとう。頑張るつもりだけど。医学の知識も、正確に欲しい気もしてるのよねー」
珍しく悩んでいる様子の千瑛に、私は驚く。
人前で悩むような性格の子じゃないだけに、意外に思ったからだ。
「必要な知識なら、遠回りしても手に入れるべきだと思うけれど、決めるのは千瑛自身だから」
「そうね。もう少し考えてみるわ。あと少しだけ、時間的余裕はあるものね」
頷く千瑛の隣で頬杖をついた千景が私を眺めている。
「そういう瑞姫は、もう進路決めた顔をしているよね? 教えてくれないの?」
「やりたいことはあるんだけど、まだ、カードが揃ってないんだ」
千景の言葉に私は正直に話す。
「ふぅん。前から思ってたけど、瑞姫って、肝心なところで秘密主義になるんだよね。そんなに周りの人間を巻き込むのが怖いの?」
「そりゃあ、怖いよ。自分の置かれた立場を考えればね。我儘だと思われないか、余計な争いの種にならないか、きちんと見極めないと前に進めない臆病なんだよ、私は」
「水臭いって言われるだけでも?」
「完全に安全だとわからないうちは、見切り発車はしないよ」
「そっか。それも仕方ないね。でも関わるつもりはあるからね。覚悟してよ」
「そーそー! 千景も私も、瑞姫ちゃんのこと大好きなんだもん。覚悟してよね」
双子たちは、笑みを浮かべてそう告げる。
「わかった、覚悟しておくよ」
2人の言葉に頷いて、私は開いていた教科書を閉じた。