28
小さなバスケットを持った楚々とした日本美人。
艶やかな黒髪をゆるく編んで淡い色のリボンで束ね、清楚で涼しげな雰囲気を作っている。
非常に暑そうな夏の空気が一転して、高原のそよ風のような爽やかさを感じさせる。
美人とは汗をかかないのだろうか。
こんなに外は暑そうなのに、どうしてこの人は涼しげなんだろうか。
思わぬところで遭遇してしまった藤原梅香様に対する感想がこれであった。
私と対するのが気恥ずかしいのか、視線をやや下げながらも頬はほんのりと染まっている。
周囲の男性陣からの視線が痛い。
何故、見知らぬ男共から見当はずれの嫉妬まみれの視線を受け止めねばならんのだ。
しかし、本当にどうしたものか。
このままここに留まるのは、病室まで送ってくれる予定の担当医に迷惑をかけてしまう。
彼にもこの後予定というものがあるのだから。
「藤原様、今日は何方かのお見舞いですか?」
にこやかに穏やかの声を掛ける。
在原が困っていた通り、この方は非常に好い性格の方なのだ。
少々夢見がちな乙女なだけで。
なので、あまり礼を失した態度を取ることはできない。
「ええ。静稀様に瑞姫様が……あ、ごめんなさい。勝手にお名前を呼んでしまって……静稀様がそう仰っていたものですから」
「構いませんよ。この病院には姉も務めておりますので、相良ではどちらかわかりませんからね」
「ありがとうございます。嬉しいですわ。あ、そうそう。その、静稀様に瑞姫様がこちらにご入院なさっていると伺いまして、お見舞いをさせていただこうと……」
「そうでしたか。それは、ありがとうございます。このような見苦しい姿で申し訳ありません。よろしければ、病室へご案内しましょう」
この場でさよならという手は取れなかったか。
在原め。
何故、私がここに入院しているなどと話したんだ。
多分会話が続かなかったんだろうな。
橘と違って、さして親しくない相手との会話が苦手な在原のことだ、会話のネタに困ったことだろう。
仕方ないと諦めて、梅香様を部屋に誘う。
担当医に申し訳ないと頭を下げれば、柔らかな笑顔が返ってくる。
松葉杖をつきながらゆっくりと歩き出せば、梅香様と先生がそのあとからついてくる。
「静稀様のお話では、普通に歩かれていると思っておりましたわ」
「ええ、そうですよ。先程までリハビリをしておりましたので、これは疲れた脚を労わるためです。少しの距離なら走れるようになりました」
嬉しそうな笑顔を作って話せば、ほっとしたように梅香様も笑みを浮かべられる。
「それはようございましたわ。わたくし、運動はとても苦手で、走っていても歩いているのと変わりないのですわ。きっと走っている瑞姫様はとてもお速くて素敵なのでしょうね」
うっとりとした表情で梅香様が言う。
梅香様の脳内で颯爽と走る私の姿が思い描かれているのだろう。
それは脚色であって、事実ではないと思う。
そして、担当医よ。素直に笑え!
小刻みに肩が揺れているぞ。
「買い被らないでいただきたい。今の私は、さほど速くはないのですよ。もどかしいと思うくらい、遅いのですから」
一応、聞こえてないとは思うが、訂正だけは入れておく。
エレベーターホールまでたどり着き、ボタンを押して、しばし待つ。
軽やかな到着音と共に扉が開く。
その中に乗り込み、最上階のボタンを押し、扉が閉まるのを見つめる。
独特な浮遊感と共に、エレベーターのゴンドラが上へと上がっていく。
最上階へと到着すると、右側の部屋が私の部屋だ。
「先生、ありがとうございました」
いつも通り、部屋まで送っていただいたことにお礼を言う。
「はい。お部屋に到着ですね。今日はゆっくりと足を休めてくださいよ、相良さん」
「わかりました。そのようにいたします」
担当医に松葉杖を渡し、しっかりと頷く。
無茶は致しませんとも。
痛いのは、嫌ですから。
担当医を見送った後、梅香様を部屋へと促す。
「どうぞ、そちらのソファへお座りください。今、お茶を用意いたしましょう」
そう告げ、ティーセットを取り出すと、紅茶の支度をする。
「まあ、瑞姫様が自らでございますか?」
「ええ。これでも兄の執事になろうと思って、お茶の淹れ方は特訓したんですよ。うちは、他の家とは違って、質実剛健が旨ですので、自分のことは自分でするのが普通なのです」
お茶の支度をしながら、梅香様に説明する。
場所が病院なだけに飲茶セットは用意できなかったが、中国茶は一時期凝って、淹れ方は完璧にマスターしたのだ。
ぜひ披露したいところだが、披露できる相手がなかなかいなくて残念だ。
ティーセットをテーブルの上に運び、時間を計ってティーポットからカップへお茶を注ぐ。
「暑い中、お見えになられた方に冷たいものでなくて申し訳ありません。体を冷やさないようにと言われておりますので、熱い紅茶でお付き合いください」
そう声を掛ければ、梅香様が微笑む。
「わたくしの大好きなペルガモットの香りですわ。アールグレイは大好きですの。嬉しいですわ」
そう言って、カップを手にして一口含む。
「まあ、本当に美味しいですわ。瑞姫様は何でもお出来になるのね」
「いいえ。これは、先程も申し上げましたように、兄の為に特訓した成果です。お気に召していただけたのなら、幸いです」
笑顔で答えれば、梅香様の頬がほんのりと染まる。
「わたくし、実は、大伴様のパーティで、お帰りになられる瑞姫様をお見かけいたしましたのよ」
「そうでしたか。声を掛けけていただければよかったのに。在原も一緒にいましたよ」
あの日、梅香様とは会えなかった。
だから作戦変更をすべきだと考えていた。
見られていたとは思わなかった。
「ええ。静稀様が、あのように屈託なく笑われている姿を目にしたのは、初めてでございました。お友達の前だと、あのような無邪気な笑顔をなさるのですね、静稀様は」
何となく羨ましげな口調で梅香様が言う。
すみません、ごめんなさい。
あれが在原の標準装備な笑顔です。
つか、どんな顔をして笑ってたんだよ、在原!!
「私が見ているのは、いつもその顔なので、藤原様が御存知の在原の笑顔というものがよくわからないのですが」
「瑞姫様と同じ笑い方をなさいますわ。それを見て、初めてわかりましたの。静稀様は本心から笑ったことがなかったということに」
何となくしょぼんとした様子で梅香様が呟く。
「それはどうでしょうか? 在原は、自分の感情に素直な男です。笑いたくない場面で笑顔なんて見せませんよ。あなたと一緒にいたときに、笑っていたとすれば、間違いなく在原は笑っていたのでしょう」
少しばかり気の毒になって、本当のことを告げる。
「そうでしょうか?」
「もちろんです。在原は、自分の感情に素直な男ですから」
重ねて言えば、梅香様が嬉しそうに笑う。
「よかった。瑞姫様がそうおっしゃるのなら、本当の事ですわね」
そうですけど。そうなんですけどーっ!
少しは疑って。
「わたくし、女子高育ちで、引っ込み思案で、とにかく、親しい方以外の人とお話しするのが苦手なんですの。それなのに、瑞姫様とは普通に話せるので驚いておりますの」
「そうなんですか? それは光栄ですね」
自分もお茶を飲みながら、とりあえず答える。
「瑞姫様は、とても柔らかで優しい雰囲気を醸し出していらっしゃるから、つい、何でも話したくなってしまうのですね。静稀様も、だから、瑞姫様と仲が良いのでしょう」
何か、納得したように話される女性に、私は注意深く彼女を見つめる。
婚約者と親しくしている女性が気にならないという反応ではない。
どちらかというと、婚約者と親しい友人(男)という扱いだ。
「瑞姫様や岡部様のお話は、色々なところからお伺いしておりましたの。本当に、王子と騎士という言葉がぴったりな雰囲気で、素敵でしたわ。信頼し合っているというのは、このようなことを言うのだと見ていて思いましたの。そこに静稀様や橘様がご一緒されて、一幅の絵のような光景に、わたくし、声がかけられなかったのですわ」
どこかうっとりとしたような表情の梅香様。
お願いですから、BL展開はやめてくださいね?
そう正直に願ってしまう。
腐を知っている者は、腐を発酵させ、脳内で思うままに勝手に楽しんでくれるので、その事実を知った時に戦慄が走った。
私は、例外中の例外ですから、一緒にしないでください!
そう思いながらふと気が付くと、梅香様は私の唇をじっと見つめていた。
「瑞姫様」
「はい?」
私が聞いた話と全然異なる配置図だ。
「わたくし、静稀様に取り返しのつかないことをしてしまいました」
いきなりの言葉に、私は前のめりになる。
「どういうことでしょうか」
聞きたくないが、聞かなければならないことがある。
聞いたという事実が必要なのだ。
「わたくし、以前、別の宴で静稀様をお見かけしましたの」
そういう梅香様の表情は複雑そうなものだ。
「わたくしにとても親切にして下さった静稀様に、わたくし、ひとめぼれをしてしまったと勘違いいたしましたわ」
「勘違い?」
「ええ。静稀様にはとても申し訳ないことをしえしまいました」
「静稀に?」
「そうですわ」
頷いた梅香様は、困ったように告げた。
「わたくし、大伴様のパーティで、恋をしてしまいましたの」
「……はあ……」
思いもかけないことに、私も困る。
「静稀様に何と切り出してよいものか……」
「普通でよろしいのでしょうか」
何と答えればいいのかわからずに、曖昧に笑いながら言葉を返す。
「在原は実直な性格です。嘘が嫌いな男ですから、正直に伝えれば、素直に受け入れる事でしょう」
私がそういえば、梅香様も素直に頷く。
「ありがとうございます。気が楽になりましたわ」
穏やかな微笑み。
しかし、何故私がこんなところでお悩み相談室をしなければならないのだろう。
そう思いながら、私は梅香様の次の言葉を待った。