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 ゲームの始まりは、ブレイク・ショット。

 きれいに並べられた球を手玉で崩し、散らす。

 トップクラスのプロになれば、このブレイク・ショットでゲームが終わってしまうこともある。

 ゲームはナインボール。

 初心者の在原におじさまが教えたのがこちらだったからだ。

 覚えやすいゲームだから、そうなさったのだろう。

 自分のキューを手早く組み立て、先端にチョークをこすり付ける。

 このキューの手入れの仕方も、おじさまに教わっている。

 先端に粉をつけっぱなしにしてはいけないので、毎回、きちんと拭き取って全体を磨いて片付けるようにしている。

 準備を整え、台に向き合う。

「じゃあ、静稀、始めるよ?」

 ゲーム経験のない在原に問いかける。

 ナインボールとはいえ、ゲームを始める時は独特の緊張感が伴う。

 その緊張感を覚え始めている在原の強張った表情に気が付いたからだ。

「お、おう」

 案の定、がちがちに固まった在原が、がくがくっと音がしそうなほどぎこちなく頷いて返事する。

 おじさまと橘が苦笑する姿が視界の隅に映る。

 これは、確実に疾風の負担になるな。

「大丈夫だ、静稀。君の出番はないから」

 ぽんっと肩を叩いて言えば、在原の表情が一転する。

「何だとーっ!? ちょっ! 瑞姫ちゃん、それ、ないんじゃない?」

 ありえないだろうと、よく変わる表情で訴えてくる。

 緊張がほぐれたようだ。

「じゃあ、始めるから」

 そう言って、台の上に身を乗り出す。

 手玉から少し離れた位置に左手をつく。

 人差し指で輪を作り、その間にキューの先端を招き入れる。

 軽く何度か予備動作を行い、手玉を突く位置を決める。

 台の上で身体が面に触れそうなほどに沈め、低い位置から打ち込む一撃。

 がつんという音の後、さらに音の連鎖が始まり、台の上を的玉が勢いよく散らばっていく。

 そしてがこがこっと鈍い音共に的玉がいくつかポケットに吸い込まれて落ちていく。

「……すっげー……」

 呆然と台を眺めていた在原が、突然くるりと疾風を振り返る。

「岡部! おまえ、瑞姫が上手いなんて一言も言わなかったじゃないか!!」

 掴みかからんばかりの勢いで、文句を言い出す。

「大伴様が今は教えてないっていう意味、わかるか? って、言っただろ!? もう教える必要が何もないからだってことだ!!」

 疾風は疾風で在原が早とちりしたんじゃないかと応じる。

 疾風は言葉が足りない時があるからな。

「1、2、4、6!」

 おじさまが落ちた球のナンバーをコールする。

「9は落ちてないから、続行だね。瑞姫ちゃんからだ」

「はい。じゃあ、慎重に3だけ狙おうかな」

 3番ボールの傍に行き、手玉の位置とその周辺の球の関係を確認する。

 手玉を突くというが、本当は撞くというのが正しい。

 手玉を突く箇所は9点ある。

 基本は中心を撞くセンターショットだ。

 水平に撞かなければまっすぐに進まない。

 センターショットが完璧にできるようになれば、ゲームの先行を決めるバンキングを優位に進めることができる。

 センターショットを覚え込まされたあと、他の8点の位置を正確に撞けるようにこれまた特訓された。

 ブリッジを作る人差し指が攣るんじゃないかとまだ短い指で思ったことが何度もある。

「これ、無理なんじゃない? 間に7番入ってるし」

 センタースポットの近くに3番、少し間をあけて7番のボールがあり、そしてさらにその手前に手玉がある。

 空クッション、つまりクッションボールと言われるクッションに当ててから3番に当てる方法を取ると楽なのだが、そのクッションが遠い。

 そして、クッションに当ててしまうとセンタースポットに落ちないで別の方向へ走り出してしまうだろう。

 そのことを読み取った在原が難しい表情でテーブルを睨んでいる。

 私がサーブを仕損じれば、次は在原の番だというのに、私が落とす方法を案じている素直さ。

 競い合うゲームだとわかっていても、撞く人間が成功することを願うまっすぐな気性はこの世界では貴重で微笑ましい。

 私や橘なら、仕損じた球がどこへ移動するのかを予測し、どうやってそれをポケットに落とすかを考えてしまうだろう。

 疾風は私がこのポジションで失敗するとは思っていない。

 だから、のんびりと見守っている。

「瑞姫、右と左、どっちで行く?」

「んー……右!」

 橘の問いかけに答え、私は台を回り込んで位置につく。

 手玉の中心位置から水平に右側を撞けば右回り、左側を撞けば左回りに曲がる。

 あとは撞く力の強さを計算すれば、その半径が決まる。

 ちなみに中心より上を撞けば押し玉といって、手玉がまっすぐ押し出されるように進み、中心より下を撞けば引き球で手玉が手許へ戻ってくる。

 これに左右撞きを組み合わせてひねりの押し玉引き球ができる。

 左右ひねりを撞く場合、テーブルの隅だとストロークできない場合がある。

 そんな時には垂直にキューを立てて撞くことがある。

 曲打ちのように捉えられ、映画なんかの見せ場になったりするあの撞き方だ。

 そしてブレイクショットの次のショットのことをサーブという。

 サーブはミスショットしやすく、ここで勝敗が決まってしまうこともある。

 ミスショットはファールと呼ばれる。

 手玉が的玉に当たらなかったり、違う番号の的玉にあたることをいう。

 ファールになれば、交代だ。

 位置を決め、手玉を撞く。

「え!? 曲がった!? え? ええっ!?」

 在原の素直で愉快な反応を楽しみながら、センタースポットに3番が落ちていくのを眺める。

 手玉はそのままクッションにぶつかり、テーブルの中央付近で止まる。

「瑞姫」

 橘が片手を上げる。

「次よろしく」

「了解」

 ハイタッチでにこやかに笑いあうと橘に次を譲る。

「5番はどこかな?」

 すでにどこに5番があるかなど把握しているくせに、おどけた様子で5番を探した橘は、手玉の傍で構え、難なく5番を落とす。

 私と交代し、7番を落とす。

「嘘……マジで僕、出番なし?」

 目の前であっさりポケットにボールが吸い込まれていく様子を見た在原が、愕然とした呟きを漏らす。

「……瑞姫、いい?」

 的玉の配置を見た橘が、私にファールしてもよいかと聞いてくる。

「うん、構わないよ」

 私は橘が言いたいことを察して頷く。

 橘なら8番を落とすことなどわけないだろう。

 だが、それだと在原が楽しくない。

 1度でいいから手玉を撞かせてあげようといっているのだ。

 もちろん、在原がこの配置でポケットに落とせるはずもない。

 少しばかり8番の位置を変え、撞きやすいと在原が思う位置へと移動させ、なおかつ手玉を少しばかり離れた位置に運ぶ。

 多分、橘の考えはこうだろう。

 そのあと、コンビネーションで8番と9番を私が一気に落とせばいいと思っているはずだ。

 何も触らずに終わってしまうより、1度でもいいから、失敗してもいいから、手玉を撞くことができれば、在原の性格なら次の勝負を挑んでくるはずだ。

 橘は常に自分より周囲のことを考えている。

 初心者である在原を楽しませたいのだろう。

 その考え方は、私にはない。

 ゲームをする以上、手を抜かずに相手をすることを一番に考えるからだ。

 ただ、その時には3番ボールを落とした時のように、自分の持ってる技術を見せて在原がそれを覚えやすいように、どういう時にどういう判断をしているのか学びやすいように仕向けることくらいは心掛けるが。

 橘は私の考えを理解して、ワザと手玉を仕掛けやすい位置へと運んでくれた。

 今度は私が橘の考えに同意をする番だ。

「ありがとう」

 にっこりと笑った橘が、手玉を撞き、8番を9番ボールの近くへと動かしてそこで止める。

 手玉は引き球となってヘッドライン上で止まる。

「おーっ!! ファール!! 誉が失敗した。やりぃ!!」

 はしゃぐ在原におじさまが苦笑する。

 疾風は苦い顔だ。

 橘が在原に譲ったことに気が付いて、それに気付かない在原に指摘するかどうかを悩んでいるところなのだろう。

「疾風」

 疾風を呼び、私は軽く首を横に振る。

「わかった」

 疾風は言うなという私の指示に頷き、肩の力を抜く。

「何? 岡部」

「在原、おまえが撞け」

 疾風の声に彼を振り返った在原が問いかける。

 それに答えるような形で疾風が誤魔化してしまう。

「いいの?」

「構わん。落とせたなら、フォローする」

 面倒見がいい疾風は、簡単にどこを狙って撞けばいいかをアドバイスする。




 いいやつだよなぁ、疾風は。

 私限定標準装備のおっきいわんこな性格ももちろんだが、友と認めた相手にはとことん面倒見がよくなる。

 手を貸し過ぎたりはしないが、相手をよく見て必要なときは相手が何も言わなくても先回りして手を貸してしまうところとか。

 橘は周囲の空気をよく見て、知り合いでなくても必要だと判断すれば動くが、疾風は相手が友人かそうでないかで切り分ける。

 場を大切にする橘と、友を大切にする疾風。

 どちらが正しいのかなどは判定する必要などない。

 あえて言うのなら、立場が違うだけ。

 ちなみに、そういう場面で在原は気づかないので動かないことが多いし、私はわかっていても動かない。

 私が動けば、相手に迷惑がかかる。相良とは、そういう家なのだ。

 今まで瑞姫がろくに友達を作らなかったのは、相手が身を守る術を持たなければ危険にさらしてしまうことを教えられ、身をもって体験したからだ。

 友達を作って遊びたいという子供らしい欲求は、幼稚舎の時に打ち砕かれた。

 名家と呼ばれ、力ある財閥の子供として生まれた以上、ごく普通の年相応の幼子として過ごすことは許されない。

 私のわがままで相手の子供を傷つけ、死なせるわけにはいかないからだ。

 だからと言って孤独のまま幼少期を過ごせば、歪み過ぎた人間が出来上がってしまう。

 一緒にいても大丈夫な友達をと、岡部家が同じ年頃の子供を相良の子供につけてくれたのだ。

 疾風がいるから、私は同じ年頃の子供たちとの接し方を覚え、そうして距離を置くことを言われても寂しがらずに済んだ。

 岡部家の子供は、相良の子供と一緒にいても、身を守る術がある。

 だから安心して遊ぶことができるし、対等に喧嘩だってできる。

 本当に幼い頃には、瑞姫は疾風と泣き喚いての大喧嘩をしたことがあるのだ。

 理由は些細なものだったが。

 泣き止んだ後は、その前のことなどけろりと忘れて仲良く遊んだという微笑ましいものだ。

 私が傍に寄せる友を作るということは、相良を標的にした悪意から身を守ることができる相手という最低ラインの基準がある。

 相良本家の中で未成年であるのは私一人だ。

 つまり、外から見れば、私が相良家の弱点と思われやすい。

 しかも2年前に生死を彷徨う大怪我をした身であることは調べればすぐにわかる。

 加えて兄弟たちは私に甘いということは、社交界でも知れ渡っている。

 ガードが固いであろう私自身を狙うより、私と親しい友人を狙う方が容易いことだ。

 付き合う人間を選べと言われる意味の中には、こういう意味も含まれている。

 大切な友人なら、傍目に親しいと思われないように接する方が望ましいのだ。

 その点、在原や橘は最低ラインをクリアしているので安心だ。

 疾風も確認しているので、そこは信用できる。

 同性の友人も欲しいところだが、今のところ千瑛しか合格ラインがいない。

 友達がいなくて寂しいなど子供じみたことを言えない立場なのだ。

 疾風がいるので寂しいなどと思ったことは一度もないが。

 人は、生まれた土地、時代、生家の財力などの基本的基盤により、育てられ方が違う。

 だから決して、自分の物差しだけで相手を判断してはいけないのだと、訓えられた。

 相手の基準を調べて、その物差しを変えて測る必要があるのだと。

 この物差しは財力に関して、という意味だったが。

 我が家が裕福なのは、それに見合った重い責任を課せられてきたからである。

 その責任をきちんと果たしてこそ、得られたものだ。

 他の者たちはその身の丈に合った責任を果たして得られたものだ。

 大多数を占める彼らは彼らの常識があり、我々には我々の常識がある。

 決してそれを混同してはならない。

 そうして驕るな、侮るな、己を律せよと訓えられる。

 武と知で身を立て、人々を守ることを義務とした家の考え方だ。

 これの対極に位置するのが諏訪家である。

 諏訪は神に仕える一族だった。

 昔、人々は神を敬うように、神に仕える諏訪一族を敬った。

 もてはやされた一族は、己が神であるかのように驕った時期もある。

 だが、今は神が遠い時代だ。

 諏訪一族は一部を除いて神域から外へ出て、人々に交じることを選びながら、今でもなお神話の時代に生きている。

 諏訪たちの考えがどこか甘いのは、そういう理由がある。

 だからと言って、それを正当化はできないのだが。

 私は、私の理由で動かない。

 見守るだけに留めなければいけない。

 そして、いつか、瑞姫が戻ってきてもいいように。




 疾風のアドバイスを受け、在原がキューを構える。

 その様子はなかなか様になっている。

 おじさまの特訓がきいているのだろう。

 おじさまも機嫌良さそうにそんな在原を眺めている。

 もちろん、この後の展開は百も承知の上で。

「よっしゃ、いくぞ」

 気合を入れた在原が、グリップを握りしめ、ストロークする。

 がつんとキューが手玉を撞くが、センターからずれ、在原のストロークの強さとは裏腹に手玉はひょろひょろっと力なく転がっていく。

「あれ? なんで?」

 手ごたえを感じていた在原は、思わぬ結果に首を傾げる。

 手玉は8番ボールの手前で止まり、見事なファールだった。

「センターショットじゃないからだ。水平にキューが動いてなかったし、中心からずれたところを撞いたから、力がうまく伝わらなかった。ちゃんと、狙えって言ったろ?」

 淡々と疾風が告げれば、がっくりと肩を落とす在原。

「じゃあ、次、瑞姫な」

 苦笑しながら橘が告げる。

「ん」

 頷いた私は遠慮なく手玉を撞く。

 無造作に撞いた手玉は8番へぶつかり、その8番が9番にぶつかる。

「え!?」

 在原が驚いて目を瞠る中、2つのボールはそれぞれの方向へと転がり、ポケットに落ちた。


 しばらくの間、沈黙が降りる。

「瑞姫!! もう1回!! もう1回、頼む!」

 がっつりと私の両腕を掴み、揺さ振るように在原が訴える。

「い、いいけど」

「やりっ! ありがと、瑞姫!」

 ものすごく嬉しそうな表情でポケットから球を取出し、テーブルの上に置いていく。

「じゃあ、ブレイク・ショットは静稀がやるといいよ」

 ここまで喜ばれたら、とことん付き合ってやろうという気にはなる。

 そうして頷いた私は、在原の一点集中型な性格に唖然とすることになる。

 この後、『もう1回』が何度続いたか、数えるのが馬鹿らしくなるくらいコールされたからだ。

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