163
前田家当主と相良家当主の挨拶が終わり、客間へと案内する。
我が家のお節料理を振る舞うためである。
ここで微妙な問題が発覚した。
笑美様がお節料理を知らなかったのである。
慶司様と杏子様が結婚し、利正様がお生まれになられてすぐに海外へ出られたため、笑美様は生まれてからずっと外国暮らしであった。
着物が珍しかったように、日本料理も食材がすべて揃うわけでもないためあちらの日本料理店もなんちゃって系なモノが多く、正式な和食を目にしたのもそんなに多くはないのだとか。
所謂、スシ・テンプラは御存知だが、その具材は魚などはほとんどなくフルーツだったりするそうだ。
日本に戻ってこられて、和食の種類の多さに驚き、片っ端から攻略中なのだとか。
たこ焼き、お好み焼きも攻略したと得意げに仰ったとき、誉と利正様が笑美様から視線を外された。
意外とジャンクものと呼ばれる食べ物も果敢に挑戦なさっているようだ、というより、和食に入るのだろうか?
話に聞いたことはあるのだが、たこ焼きもお好み焼きも私はまだ食したことはない。
理由は簡単だ。
親族や料理人の中にその地方出身者がいなかっただけだ。
もしいたら、誰かが作ってくれたことだろう。
それがおやつと呼ばれるモノか、食事と呼ばれるモノに分類されるかは謎ではあるが。
まあ、そういう理由で、初『御節料理』を前にした笑美様の感激振りはすごかった。
杏子様はどこの店で作られたのかとお尋ねになられたので、我が家の女性陣で作ったとお答えしたら固まった。
普通、仕出屋や料亭に頼むのが一般的で、主家の者が料理をするなど珍しいだろう。
上手か下手かは抜きにして、作り方を知っていれば、その苦労も自ずとわかってくるので実際に農家や酪農家、漁業者などの生産者や料理人に対して感謝の気持ちを常に持てるというものだ。
作るだけでも大変なのに、味も美味しくとなれば、どれほどの技術や努力が必要なのか。
気が遠くなりそうだ。
去年からお手伝い要員として下拵えに携わるようになったため、その大変さは多少わかるようになった。
これを毎日、しかも3食作るのだから、ものすごく大変だ。
綺麗な箸使いで御節料理を食べていた誉がふと手を止める。
「そう言えば、岡部は来ていないの?」
「ああ、疾風? いるよ。別棟にいるけれど、呼んで来ようか?」
いつも通りに岡部家は挨拶をした後、お休みだというのにも拘らず、疾風を置いて行ってしまった。
兄上、姉上たちの随身の皆様はきちんとお休みをいただいて帰られたというのに、少しばかり気の毒になる。
しかも私は案内役の任に就いているので、傍に控えるわけにはいかない疾風は暇を持て余していることだろう。
「別棟って、瑞姫の?」
「そうだよ」
「じゃあ、俺が行くわけにはいかないね」
「別にかまわないけれど、誉は気にするだろうから、呼び寄せよう」
誉が考えていることは、何となくわかる。
例え許可をもらっても、主の居ない女性の部屋へは入れないと礼儀正しく思っているのだろう。
すでに疾風がその場にいるので、その条件は微妙に変わっているので構わないと思うのだが、ご家族がいる前で行ってこいとはさすがに言えない。
なので、疾風を呼ぶように連絡役の親族に頼む。
ほどなくして、疾風が部屋にやって来た。
状況はすでに聞いて理解していたらしい。
真っ直ぐに前田翁に挨拶し、慶司様方にも挨拶を済ませ、誉の前へと座る。
息子の友人ということで、ご家族の視線が疾風に突き刺さっている。
興味津々なのだろう。
普段のと言うか、学園での誉の様子というのは、さすがにご存知ないだろうから。
「呼びつけて悪かったね、岡部」
「いや。暇にしていたから、返って助かった」
やはり、部屋で待機はつらかったのだろう。
苦笑をしながら疾風が首を横に振る。
年始の挨拶をしようとした2人は、突き刺さる視線に耐えかねて反対側へと顔をそむける。
「……何か、ごめん」
「いや、気持ちはわかるから」
挨拶したくてもできないというジレンマに陥った2人は、ぼそぼそと小声で語り合う。
「疾風、別棟の応接へ」
案内してはどうだろうかと告げようとすれば、その手があったと目を軽く瞠る疾風とは対照的に諦めた様子で誉が首を横に振る。
「そんなに長居出来ないから」
「そうか。それは残念だな。まあ、いつでも遊びに来ればいいことだし」
「そうだね」
うんと頷き合い、曖昧に笑い合う。
あまりにも微笑ましげに見つめられるのは、無礼ではないのだが、居たたまれない。
良かったと思う反面、別の意味で苦労しているのだろうと推察してしまう。
ある意味、よくわかる。
可愛がられるのは、とてつもなく疲れるものだということを。ありがたいとは思っているが、もちろん。
あまり込み入った話もなく、3学期のことや、最終学年にあがることなどの話を世間話程度にし、落ち着いたところで御重を包んで前田翁に差し出す。
「おや、持ち帰ってもよいのかね?」
「はい。足を運んでくださいました皆様へのお礼の気持ちでございます」
「それでは遠慮なくいただこう。いやなに、きんとんの舌触りが絶妙で気に入ったものだから」
「きんとんは、瑞姫が裏漉ししたって言ってたよね。今年も?」
誉がふと思い出したように言う。
「今年も筋肉痛になりそうになりながら頑張りました」
「瑞姫嬢の一品だったか。なるほど。丁寧に作られたから美味であったか」
ほっこりと微笑んだ前田翁が頷く。
意外と甘党であられたのか、田作りにきんとん、黒豆、紅白なますあたりを好んで食べられていた。
いずれも砂糖多めの味付けだ。
ちなみに、この紅白なますや同じく紅白の叩きごぼうは我が家独特の作り方をしている。
紅はどちらも同じく金時人参を使うのだ。
なますの方は大根と金時人参を千切りに、甘酢とちりめんじゃこを絡めるし、叩きごぼうに至っては、茹でて叩いたごぼうと人参を胡麻酢に付け込むものだ。
地方独特の作り方ではあるが、独特すぎて驚かれることが多い。
味は美味しいとの評判だし、独特でも奇抜ではないため初めてでも食べやすいようだ。
「では、ありがたく」
我が家の家紋が入った風呂敷に包まれた御重を手に、前田家の皆様は御近所な別邸に向かわれた。
********** **********
新学期が始まり、それなりに落ち着いた頃、前田翁が再び我が家にお見えになった。
おそらく、日を改めて来ると仰っていた一件だろう。
誉がしばらくの間滞在していた離れへとご案内し、庭をご覧になっていただく。
「……見事だな」
御祖父様のこだわりが隅々まで行き届いた庭をご覧になって、ほうっと溜息を零される。
「これほど見応えのある庭ならば、離れるのが惜しいと思うのも道理」
冬ではあるが、ここは常緑の設えだ。
陽が差し込む時間帯は春を思わせ、長閑な雰囲気が漂う。
寒さ厳しい冬場だからこそ、一層暖かさを感じさせ見飽きないのかもしれない。
「……橘の、アレが橘で暮らしていた当時のことを聞かせてはもらえぬだろうか? 瑞姫嬢が見たことを」
「それは、どのあたりからでしょうか?」
「初めから」
「幼い頃はそれほど接触してはいませんので、かなり飛びますが、順を追ってお話いたしましょう。ですが、すでに終わったことと承知してくださいますようお願い申し上げます」
前田翁がここに来られたということは、誉の橘での暮らしぶりをある程度調べ尽くしたということだろう。
そうして外側から知る者の記憶から調査の漏れがないかを探すのかもしれない。
しかし、私が知ることを話したことで憤られても困る。
当時、そして今も私はまだ子供の範疇であり、それほどの影響力を持たない。
私が誉を助けられたことはほんの少しもないだろう。
誉が前田の血を引いているということを当時の私は知らなかった。小槙姐さんに会って初めて知ったのだから。
知った後ではある程度の分別がついていたので、闇雲に知らせるわけにもいかないことを理解していた。
他家の事情に首を突っ込んでいいわけがないのだ、部外者が。
ある程度の言質を取ってから、私は私の知る『橘誉』の姿を最近に至るまで話した。
冬の日は翳るのが早い。
まだ夕刻だとは言えない時間帯でも暗く感じてしまう。
己の感情を交えず、見たままを話す私と、黙ってそれを聞く前田翁。
ともに無表情なだけに傍から見ると奇異だろう。
話し終えた私が息を吐くのと同時に、前田翁も細く息を吐く。
「……ありがとう。話辛いことを頼んで申し訳ない」
「いえ」
言葉短く首を横に振る。
前田家は聞く義務がある。権利ではなく、義務だ。
もっと早くに気付いていれば、ここまで深刻な事態には陥らなかったはずだ。
「誰もが隠そうとするはずだ。あまりにも愚かしい」
前田翁の呟きに尤もだと思いつつも同意はしない。
私が部外者だからだ。
余計な感情は伝えてはならない。
「橘からすべてを引き上げてきた。娘も、娘の遺品も孫の物すべてを。籍も抜いた。前田は初めから橘とは何の関わりもない。誉の今迄を否定するようで可哀想に思うが、そうでもしなければ誉を返せと言う莫迦者共が出て来たのでな」
その言葉に思わず顔を上げ、前田翁を見つめる。
「未だに分家を抑えきれぬ阿呆だ、あやつも。由美子を娶せるのではなかったと後悔しても遅いとわかっているが」
ふと溜息を吐き、茫洋と遠くに視線を向ける。
「わたしも結婚に失敗したようなものだ。そんな男が見る目を持たずとも仕方ないというか……由美子の手紙には、真季と誉のことばかり書いてあった。気付けばよかったのだ。誉を我が子と告げた由美子の精一杯の言葉に。早々に会いに来れば、わかったものを……」
それこそ、今更だろう。
過去には戻れない。
やり直せるのなら、私だって過去に戻ってやり直したことがいくらでもある。
でも、やり直してしまったら、私が私ではなくなってしまう。
誉だって、今の性格と違う人間になっていただろう。
そうなると友人になっていたかどうかもわからない。
「今の状況は、色々な者たちの失敗の上にある。だが、誉は失敗ではない。アレが自分を赦されざる者だとは思わず立派に成長できたのは、瑞姫嬢たちアレを支えてくれた友人の存在だ。言葉で言い尽くせぬほど感謝している、ありがとう」
前田翁が私に向かって頭を下げる。
「顔をお上げください。私たちが出来たことは何もありません。すべては誉自身が選び取った結果です。その名の通り、誇るべきは彼自身で、私たちではありません」
「その道を選び取らせた理由となったのが君達だ。何も知らず何もしなかったわたしたちより遥かに支えとして誉に力を与えてくれた。会ってみて初めてわかったが、誉はわたしよりも遥かに器の大きな男だ。誰に似たのか……」
最後は茶目っ気たっぷりに仰った前田翁は、おそらくしんみりしかけた空気を厭われたのだろう。
「……間違いなく、真季さんだと思います」
「そうか、真季か。あれにはわたしも敵わない」
ですよね、と、思わず頷きたくなる。
「それはさておき、瑞姫嬢は3月に誕生日を迎えられると聞いたが、間違いないだろうか?」
間違いも何もないが、とりあえず頷いてみせる。
「少しばかり早いが、瑞姫嬢に誕生日プレゼントを用意したので受け取っていただきたい。ああ、今度の誉のお披露目に付き合っていただく礼も兼ねているので是非に」
「え?」
目録を差し出されて、目を瞠る。
中身に目を通せと促され、おずおずと受け取り、中を見て驚いた。
「……なっ……何て非常識な……」
受け取り拒否はできないらしい。
目録の中に記されていたのは、世界各地の最上級の白の絹織物と染色に使われる膨大な種類の顔料だった。
もちろん、加賀特産の正絹の反物もある。
友禅等の職業に携わる者ならば、欲しくてたまらないものばかりだ。
ものすごく痛い処を突かれてしまった。
「相良殿には先日話を通して許可はもらっておる。遠慮なく受け取られるといい。ああ、あの美味しい御節の礼でもあるな」
にこやかに笑って告げる前田翁に、私は溜息しか出なかった。
本気で倒れてもいいだろうかと、非常識すぎる目録を眺めて、心底思った。