15
期末試験までのスケジュールは、かなりハードだ。
試験の後には夏休みが待っている。
それゆえ、その夏休みが持つ危険性を生徒たちに十分知らしめないといけないからだ。
東雲学園の生徒というだけで、外部からの一般生徒にも危険があるのだ。
東雲は有名なセレブ校のひとつだ。
そこに通っているということだけで、セレブと間違えられる可能性は非常に高い。
むしろ、車で送り迎えをしてもらわない彼らの方が狙われやすいのだ。
体育の授業は簡単な護身術の授業へ代わり、男女別から男女合同へと変更される。
普段は男女別であるがゆえに、女子も男子も微妙にそわそわとテンションが高い。
「それでは、本日の授業内容は、簡単な護身術ということで、もし襲われた時にはどのように対処すればよいのかを学んでいただきます」
女性教諭が淡々と説明を口にする。
「特に女子のみなさん、この時期から変質者、誘拐犯、または強引な手口で交際を取り付けようとする方々が増えてまいりますので、必ずマスターしてください」
その言葉に小さな悲鳴を上げる女子生徒が出る。
「まあ、どうしましょう。恐ろしいですわ、瑞姫様」
私の周囲にいた女子生徒たちが心持ち身を寄せてくる。
あはははは……王子様役を割り振られたか。
周囲の男共の嫉妬の眼差しがちょっとばかり心地良いぞ。
「大丈夫ですよ、水瀬様。なるべく集団で行動するということを心掛けていらっしゃれば」
「そうですわね。人が多ければ、手出しはしにくいものですものね。もしその時に瑞姫様がいてくだされば、守ってくださいますか?」
「ええ、もちろん」
理想の王子様ならこのぐらいのことはにっこり笑って答えなければならないだろう。
八雲兄の穏やかな笑みを思い出しながら微笑んでみせると、女子生徒たちの頬が赤く染まる。
なかなか楽しいかも、これ。
今日の体育は2クラス合同だ。
私たちのクラスと疾風たちのクラス。
在原と橘も疾風と同じクラスだった。
体育服と短パンの集団の中でただひとり、ジャージ姿の異質さに驚く在原と、いつも通り悪戯っぽい笑みを浮かべる橘に笑って応えると、同じクラスの女子生徒たちがうっとりとした溜息をもらす。
「瑞姫様の笑顔なんて……」
「羨ましすぎて憎い限りですわ、在原様と橘様が!!」
何故、あの2人が憎まれる!?
「瑞姫!」
少し遅れてやって来た疾風が、私の姿を見つけるなり駆け寄ってくる。
「教室にいないから、ちょっと焦った。リストバンド、渡そうと思ったのに」
「疾風?」
疾風が手にしているのは、学園指定のジャージと同じオフホワイトのリストバンド。
手首から肘近くまでをサポートする長めのものだ。
「これは?」
「そのままだと暑いだろ? ジャージを袖まくりできるように考えて作らせてきた。そんなに強いゴムじゃないから、傷跡には負荷は掛からないと思う」
その言葉にリストバンドを受け取ろうとして伸ばした手を疾風に取られる。
「俺がつけるから、こっちに来て」
集まっている輪から外れ、体育館の隅へと連れてこられ、彼らに背を向ける位置に疾風が立つ。
腕を晒すから、人に見られないように気を使ってくれたのか。
「ありがとう、疾風」
「ん。これなら、俺にできる事だから」
ちょっと得意げに笑った疾風は、腕を出すように告げ、慎重な手つきでリストバンドをはめてくれる。
パイル地のリストバンドは、非常に肌触りがよく、まったく肌を締め付けない。
手首と肘のあたりにあるマジックテープで外れないように調整するつくりだ。
この間倒れたあたりから、疾風の様子が変わった。
部活は完全に辞めてしまったらしく、登校と下校は常に傍にいるようになった。
そして、身の回りのことも、ひとりでできる事は自由にさせてくれるが、少しでも不自由さを感じるようなことは前もって手を打つようになった。
岡部家の方で何か言われたのかと聞いたが、それはないと答えるばかりだ。
「着替えの方に不便はない?」
ふいに問われた言葉に、一瞬、きょとんとする。
「え? あ、ああ。大丈夫だ。女子更衣室は、中は個室になっているから気兼ねなく着替えられるし」
男子の更衣室がどうなっているのかは知らないが、女子更衣室はシャワーブースのように個室になっている。
しかも、人数分きちんとあるので慌てて順番取りをしなくてもいい。
恥ずかしがり屋さんでも安心して着替えられるのだ。
さすがにひとりで着替えられないという御嬢様はいないようだ。
「ちょっと手を動かしてみて」
「うん」
疾風に促され、右手を動かす。
「見た目は大丈夫そうだけど、締め付け加減とかは瑞姫的に問題ない?」
「大丈夫だ。サポーターとかはあの締め付けが逆に皮膚を傷めるんじゃないかと思って怖くてつけれなかったけど、これなら安心してつけられる。ありがとう、疾風」
「それならよかった。今日は護身術って言ってたから、瑞姫が前に立たされるだろうと思って」
「まあ、そうだね。以前なら怪我を前提に断ってたけど、もう大丈夫だしな」
相良家が武道に秀でているのは周知の事実であるため、こういう時に前に立って実際に動きを見せる役を任せられるのはいつものことなのだ。
上の兄姉たちも経験してきたことなので、私だけがそれを外されるということはありえない。
「身体の調子は?」
「すごくいい。あ、先生が来られた」
まだチャイムはなっていないが、教諭の姿が見えたため、輪に戻ることを疾風に促す。
「無理はしないように。少しでもおかしかったら、俺が止めるから」
「はいはい。心配性だな、文句はないけど」
「瑞姫!」
笑いながら皆のところへ戻り、整列に加わる。
チャイムが鳴り響き、授業が始まった。
教諭の説明の後、実際にどのようにして対処するかを実演する。
「相良さん、お願いできますか?」
私に襲われた女子生徒役をやれるかと尋ねられ、私は一瞬、間を取る。
「はい、できます」
「では前に来てください」
「はい」
何故、教諭自身が実演しないかというと、説明する人がいなくなるからである。
それと同時に、いくら体育教諭だからと言って、必ずしも武道経験者であるとは限らない。
つまり、人ひとりを簡単に投げ飛ばす技術を持っているとは言えないわけだ。
私が前に出ると、教諭は男子生徒を見渡す。
「暴漢役を誰かにお願いしましょうね。相良さんと組んでいたのは……」
「俺です」
諏訪が名乗り出る。
授業はすべて名前順で割り当てていくので、同じサ行の諏訪が私と組むことになる。
「では、諏訪君に」
「いえ。先生、岡部君にお願いできますか?」
私は教諭の言葉を遮り、疾風を指名する。
「相良! おまえの相手は俺だろう!?」
むっとした様子で諏訪が主張する。
「それは知っているが、実演するなら受け身ができる疾風の方がいい。投げ飛ばされる役も受け身の仕方を見て覚えないと怪我をする」
私の答えに諏訪の動きが止まる。
「諏訪は武道経験がないだろう? 受け身ができないのに危険なことをさせられない」
「いやん。瑞姫ちゃんってば格好良すぎる!」
顔を上げて何かを言おうとする諏訪を遮る形で在原が茶化すように声を挟む。
「やっぱり僕をお嫁さんにして!」
どこまで本気なのか、場を和ませるふざけた声に笑いが起こる。
「考えておこう」
そのおふざけに乗っかる形で私も重々しく頷いて見せると、さらに場が湧き上がる。
「だが、その前に橘を倒して、疾風と交換日記から始めてもらおうか」
「それ無理っ!! 何で交換日記を岡部と僕がするわけ!?」
私の提案は一瞬にして蹴られた。
いい考えだと思ったのだが、あたりは爆笑の渦に飲み込まれていた。
「瑞姫の嫁になるなら、相良のしきたりを全部覚えてもらわないと困るから当たり前だろう?」
ごんっと在原の頭に拳を落とした疾風が前に出てくる。
「先生、相良さんとはよく組んで稽古をしていますから、俺でいいでしょう?」
穏やかな表情で疾風が教諭に許可を求める。
「ええ、そうね。岡部君は部活でも指導していた腕前だと先生も聞いています。そちらの方がより安全ですからね」
身を守る訓練をするのに怪我をしては本末転倒だと頷いた教諭に疾風が嬉しそうに笑って礼を言う。
「ありがとうございます!」
「え、ええ。お願いね、岡部君」
ほんのりと、頬を染める体育教諭。
疾風よ、おまえのことは年上キラーと命名してやろう。
教諭の説明の下、地味に拘束を外す技をいくつか見せる。
相手の動きを封じ、逃げるための時間を作るものだけに派手な動きも力も必要ない。
あまりにも地味すぎて、ただ見るだけでは厭きてしまう。
そのため、厭きた空気が漂いそうになると少し派手な動きを取り入れて空気を引き締める。
「今までの動きをきちんとマスターすると、背後から襲われた時に相手を投げ飛ばすということもできます」
最後の大技を見せろと促され、肩越しに背後を振り返り、いつでもいいぞと疾風に合図を送る。
頷き返した疾風が前を向いた私の背中から襲いかかる。
数人の女子が息を飲んだり、悲鳴を上げたりしているが、他の生徒たちは声も出せないようだった。
大柄な疾風の素早い動きに意識を呑まれてしまったのだろう。
それでも普段よりは格段にスピードを落としているため、一緒に稽古をしている私には相手を捉えることが容易かった。
捕まれそうになった手首を打ち据え、撥ね上げた後、襟元を掴んで脛を蹴り上げ、投げ飛ばす。
タイミングを合わせて自分から疾風が飛んでくれたから、実に綺麗に投げが決まった。
いや、ほんと。
投げるのって、体格差や体重差が如実に出ちゃうんだよね。
嫌がって抵抗する人を投げるのは、本当に重い。
相手の隙を見て、一瞬で投げを打たないと自分が崩れ落ちてしまう。
疾風が自分から飛んでくれたから、ふわりと軽く投げなれた。
まあ、自分から飛ぶと、受け身も取りやすいし、投げられた衝撃も見た目と違ってはるかに軽い。
だんっと派手な音を立てて背中から落ちるふりをした疾風はそのままころりと横に転がって起き上がる。
一瞬後、歓声が湧き起こる。
「はい、説明はこれで終了です。では、実際にやってみましょう」
無情に教諭の声が次の指示をだし、中途半端に空気が断ち切られる。
「相良さん、岡部君、あなた方は指導の方へ入っていただけますか?」
「承知しました」
稽古に参加しなくてもよいというお墨付きを頂いた私と疾風は生徒たちの中へと戻っていった。
「諏訪」
興奮冷めやらぬ生徒たちの中をかいくぐり、諏訪の傍へと行く。
「綺麗な動きだな」
珍しく目許を和ませた諏訪が柔らかな声で告げる。
「ありがとう。だが、本来の動きには程遠い。相手の動きを封じるくらいなら充分だろうが。すまないが、諏訪、あちらの丹生様と組んでくれないか?」
疾風と組むはずだった令嬢を示し、私は頼む。
「え? 俺の相手はお前のはずだが」
「私は練習には参加しない。私は加減ができないからな、諏訪を怪我させてしまう。それに、丹生様は疾風を怖がってしまっている。あれでは練習できないだろう」
丹生家の令嬢は大人しやかな方だ。
先程の疾風を見てしまっては恐ろしくて技を出せないだろう。
内気な令嬢というのは、庇護欲をそそるが、それ以上に排他的で厄介だ。
良かれと思ってやったことがすべて裏目に出てしまう。
怖がられてしまえば、何もすることができない。
丹生様には諏訪すらも恐ろしいだろうが、疾風よりはましだ。
「それとも、諏訪は私を投げ飛ばすか?」
指導の立場に立った私は、技をかける方ではなく掛けられる方になる。
私とコンビを組むことに執着するなら、当然諏訪は女子生徒と同じく技をかける方になる。
「それは御免被る! 女子にそんな真似できるか!」
当然のことながら、女子に紛れることを良しとできなかった諏訪が反発する。
「では、丹生様をよろしく頼む」
「……わかった」
不承不承頷いた諏訪は、溜息ひとつ零すと、列を離れて丹生様の方へと歩いていく。
それを目で追っていた私は、声を掛けた諏訪が丹生様に怖がられている姿に吹き出しそうになった。
同じ年頃の女子生徒は、諏訪の姿を見かけると声を掛けたがり、近付いてくることが普通だ。
諏訪自身もそれが当たり前だと思っているフシがある。
怖がられて避けられるという経験は諏訪にはない。
怯える丹生様を宥めるようにと、諏訪と疾風の視線が注がれる。
それに笑って頷いた私は、気になる動きをしている生徒たちに少し注意の言葉を告げながらそちらへ移動した。