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郷から屋敷に戻ってきた私を待っていたのは、八雲兄上の強烈な抱擁であった。
「瑞姫~っ!! お帰り! 会いたかったよ。僕が傍にいない間、何もなかったかい?」
何を指して『何もなかったか』と聞かれているのかがわかりませんが、今、背骨が折れそうな勢いでみしみし鳴っていますが、聞こえませんか、兄上?
「八雲様! 八雲様! 力を緩めてください!! 瑞姫が苦しそうです」
疾風が焦ったような声を上げているのが、何故か遠くに聞こえる。
おかしいな。
確か右斜め後ろにいるはずなのに。
「瑞姫? 瑞姫!! 大丈夫!?」
「え? 瑞姫!?」
色々と声が重なっているけれど、ちょっと待ってください。
息、させて。
力が緩められた瞬間、空気を求めて咳き込んだ。
「八雲様、いくらなんでもこれはやりすぎです!!」
猛烈な勢いで疾風が文句を言っている。
「瑞姫! ごめんね」
「あ……に、上……私の背骨、折る気ですか……」
咳き込み過ぎて少しばかり枯れた声で告げれば、八雲兄上の顔色が見事に変わった。
「あ。そんなつもりは……」
「あったらシメるわ!」
「いっ!!」
ゴッという音と共に八雲兄上が頭を抱えてしゃがみ込み、その背後に菊花姉上の姿が現れる。
「いついかなる時でも瑞姫には手加減しなさい。妹なんだから」
「申し訳ありません、菊花姉さん……」
涙目になりながらも素直に菊花姉上に謝罪する八雲兄上。
女王様には敵わないと即座に白旗を掲げる潔さは見事だと思う。
「お帰りなさい、瑞姫。疾風もご苦労様。次期殿、我らが郷は楽しめましたか?」
にこやかな笑顔を作っての対応は流石だと思う。
ほんの一瞬前まで般若顔だったとはとても思えないほどの和やかさ。
橘が引き攣った笑みを浮かべて頷いたのは見なかったことにしておこう。
「ところで瑞姫」
菊花姉上が私に視線を向ける。
「はい?」
「郷で不審な人物と遭遇しなかった?」
「いいえ? 疾風は知ってる?」
問われた内容に首を傾げ、疾風にも確認する。
「いえ。不審な人物及び不審な行動を取る者は見かけませんでした」
きっぱりと答える疾風に、菊花姉上と八雲兄上はほっとしたような表情を浮かべる。
「……姉上、兄上。何かありましたか?」
「大したことはなかったわ。ただ、ね。愉快な噂が流れてるのは事実よ」
「愉快な噂?」
「ええ、そうよ。ザマーミロって大爆笑しちゃった」
にやにやと笑う菊花姉上に、大体の予想はついた。
おそらく私に関係する、そうして相良が気に入らない人物に不幸ともいえることが起こったのだろう。
周囲から見ればお祝いごと方面で、本人にとっては不本意この上ない事が。
でなければ菊花姉上がここまで愉快そうな表情を浮かべることはない。
我儘放題で傍若無人に振る舞っているように見える菊花姉上だが、この方は見た目のイメージとは異なり、実にクールな人なのだ。
私を構いたがることと蘇芳兄上を足蹴にすること以外に於いては。
「嫌がって逃走して、瑞姫のところに駆け込むかと思ったが……あ。それとは別に、大神家の株が暴落してるけど、何かした?」
廊下に座り込んでいた八雲兄上が、ふと気が付いたように疾風を見る。
「いえ。俺は何もしていません」
表情を消して、疾風が応じる。
「疾風?」
「俺がタブレット扱ってるところを見たか?」
本当かと確認を取れば、逆に疾風が問うてくる。
「……見てないな」
「だろ?」
「疾風は直接手を出していないということか」
「はい」
あっさりと頷く随身に、微妙な違和感を覚える。
直接手を出していないということは、間接的に手を出したということか。
つまり、誰かを唆したとか。
「……疾風?」
「あの騒ぎを見ていた奴がいてな、トレーディングをしているクラスメイトだったが。仔細を聞かれたので、大神は諏訪より阿呆だと言っただけだ」
正直に話せと見上げれば、澄ました顔でとんでもないことを言い出す。
やっぱり元凶じゃないか!
「よくやったわ、疾風!!」
褒めてつかわすというように菊花姉上が疾風の肩を叩く。
「お見事、疾風」
八雲兄上までもが頷いている。
「おふたりとも!! 遊んでる場合じゃないでしょう」
「あら、お遊びの範囲でしょう? たかだか噂1つ捌き切れない大神が阿呆なのよ。それこそ、疾風の言った通りにね」
「そうそう。瑞姫も予告してたんだろ? そうなる可能性があるってね。前もって知らせているのに防ぎきれないなんてそれこそ阿呆だよね」
「うちのせいにされるのでは?」
「証拠を見せろって話でしょ、それこそ。勝手に人のせいにするのなら、根拠を差し出せって言ってやるわ。簡単な話じゃないの」
実ににこやかな菊花姉上と八雲兄上は、私の抗議もあっさりと受け流す。
「……瑞姫」
橘が私の肩に手を置く。
「大神の自業自得だ、瑞姫のせいじゃないし、気にする必要は欠片もないよ」
「そうそう。わかってるじゃないの、次期殿。瑞姫、次期殿の仰る通りよ。気にする価値もないわ」
「新学期にどう出てくるかで、さらに大神家の価値がわかるさ」
実に呑気なことを言い出す姉と兄に、私は溜息を吐くほかなかった。
********** **********
新学期。
学園内はある噂でもちきりだった。
大神のことではない。
八雲兄上と菊花姉上が心配していた不審者の件であった。
いや、本当に不審者だったわけではない。
実によく知った相手だ。親しい相手ではないが。
皆、噂話に耳を傾けながら、ちらりと私に視線を投げかけてくる。
無関係だから。
そう言いたい気分だが、尋ねられていないことを言うわけにはいかないので沈黙を守るのみだ。
教室に入ると大神が私の前に立つ。
「よくもやってくれたね」
「何のことだろう?」
ああ、まだ情報を集めることに苦戦しているのか。
呆れて見やれば、大神がわずかに怯む。
「あなたがやったのでしょう?」
「だから、何のことだと訊ねている。私はこの夏、疾風と橘誉とで郷の方に戻っていてね、そちらで習い事をしていて忙しかったのだが」
「え?」
驚いたように目を瞠る大神に、私は肩を竦める。
「問い合わせればすぐにわかることだ。調べもしないでとやかく言うのはやめてもらいたいものだ、迷惑だ」
「では、誰が……」
「だから、何度同じことを言わせる気だ? 何を言われているのかさっぱりわからないことに答えられることはない」
頭痛を堪えるようにこめかみに手を当てれば、伊達の姫や数名の女子生徒が寄り添ってくる。
「瑞姫様、大丈夫ですか?」
「ええ、まあ」
「大神様も少しはお考えになられるとよろしいのですわ。相良の姫が姑息な手を使われるとお思いですの?」
「それは……」
「そんなこともわからないなんて、大神様も大したことはないのですね。姑息というよりは、稚拙な手ですわよ? そんな手に足許を掬われるなんて」
くすくすと笑う姫君たちに、少しばかり慄いてしまったが表面上は取り繕えていると思う。
「思い込みというのは本当に目を曇らせてしまいますのね。犯人ありき、で物事をつぶさに捉えないとは」
ああ、あの場にいた御婦人方の御身内がいらっしゃったようだ。
さて、この幕引きをどうするべきか。
そう考えていた時だった。
廊下から誰かが走って近付いてくる音が聞こえてきた。
それも、かなり激しいというか、凄まじい音だ。
全力疾走と言ってもいいくらいの足音だ。
「ああああああああっ あのっ!! すみませんっ!! ゴカイなんです!! すみません、相良先輩っ!!」
悲鳴というよりは大絶叫で教室に飛び込んできたのは、安倍彬だった。
これは、どう収拾つけたらいいのだろうか。
瞬きをしながら私が考えたのは、これらの事態の責任は誰が負うべきなのだろうかということだった。