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予定を伝えねばと思いつつ、色々と準備に追われて数日後。
久々に庭をスケッチしようかと思い、橘を誘う。
デザインを考えるのに、うちの庭はとてもいい材料が揃っていると思う。
橘も二つ返事で頷いてくれたので、疾風も一緒に母屋から庭に向かおうとした。
「瑞姫っ!!」
背後から賑やかな声が響いたと同時に疾風が私の背後に立つ。
がっともどこっとつかぬ重い音がした直後、さらにごつっと鈍い音が響いた。
「瑞姫~っ! 今日も可愛いな!! さすが、俺の妹」
ひょいっと抱き上げられた後、頬擦り攻撃が繰り広げられる。
何が起こったかというと、蘇芳兄上が突進してきたのだ。
ものすごい勢いだったので驚いた疾風が蘇芳兄上を一時的にブロックしたのだ。
兄弟の中で一番の武闘派である蘇芳兄上を一撃とはいえ、防いだ疾風は驚嘆に値する。
2m近くもある長身についた筋肉は飾りではなく、むしろ実践のみの無駄のないものである。
鬼の寿一と呼ばれる大叔父様と唯一同列に渡り合えるのは蘇芳兄上だけであろう。
父様ですら、大叔父様には到底かなわないと仰るほどなのだ。
その蘇芳兄上の一撃を防げた疾風は実に随身の鏡だと言えるだろうが、次の手は悲しいことかな、無理であった。
一撃の力を相殺する間もなく、ぽいっと投げ捨てられたのだ。
それが次に響いたごつっという鈍い音だ。
とりあえず受け身を取って転がれたので大事に至っていないようだが、廊下の上で転がる疾風にハラハラしてしまう。
「……は、疾風……」
蘇芳兄上の顔を押しのけ、声を掛ければ、板張りの上で転がったまま、疾風がひらひらと手を振って無事を知らせてくる。
よかった。
怪我はないようだ。
「……こんのぉ……馬鹿力!」
呻く疾風の声にはまぎれもない怨嗟の響きが。
「はっはっはっは! 甘い、甘い! 俺を止めるなんざ百年早いわっ!!」
楽しげに笑う蘇芳兄上は、最初から疾風で遊ぶつもりだったのだろう。
何かとてもいいことがあったのか、始終ご機嫌の蘇芳兄上だ。
もともと陽気な気質ではあるが、それに輪をかけて賑やかな気配を振りまいている。
「にしても、瑞姫が元気で俺は嬉しいよ」
にこにこと笑った蘇芳兄上の視線がふと降りる。
「お。誉君だ」
私の傍にいた橘にようやく気が付いたらしい。
「うん。君はいい男だな」
唐突に不可思議なことを言う。
「は?」
「待てができる男はいい男だと、うちの嫁が言っていた」
「え?」
蘇芳兄上が口にした言葉を首を傾げて考える。
『待て』とは、多分、先程のことだろうか。
疾風が蘇芳兄上をブロックした時のことだ。
橘も一瞬、身構えたのだ。
相手が蘇芳兄上だとわかってそれを解いたのだが。
多分、そのことを言っているのだろう。
橘も護身術をある程度扱える。
皇族でありかつて朝廷で近衛を拝命していた家系ゆえ、それなりに鍛えてあるようだ。
勿論、武将ではなかったため、うちとは雲泥の差ではあるが。
それでも相手の実力を測るくらいの力は持っている。
橘は相手が太刀打ちできない実力を持ち、なおかつ私の兄であるがゆえに私を傷付けるつもりがないことを見てとって構えを解いたわけだ。
無意識にそれができるということは、そこそこの実力を持っているという証明に他ならない。
疾風が蘇芳兄上を止めたのは、勢いのまま私を抱き上げれば、私の傷が痛むと判断したからだろう。
この場合、どちらの判断も正しいと、私は思う。
だがしかし、おそらくだが、義姉様の言っている『待て』というのは、蘇芳兄上の言っている言葉の意味とは違うと思う。
別の意味合いの方だと思うが、それがどういう意味なのかも状況がわからないため判断できない。
「……ちなみに、蘇芳兄上」
「ん?」
「義姉様はいつ、その言葉を仰ったのですか?」
「瑞姫みたいに抱き上げたときだ」
「………………無茶をなさらないでください。義姉様は、一般の方ですよ?」
兄上の突撃の圧力にとても耐えられるとは思えないのですが。
そういえば、きょとんとしたような表情で蘇芳兄上が私を見る。
深雪義姉様は一般女性の平均身長はお持ちだが、2m近くある蘇芳兄上と並べばとても小さく見える。
しかも、物心つく前から鍛えてきている私たちとも異なり、ごく一般的な生活しかしていない女性だ。
とてもじゃないがあの圧力に耐えられるとは思わない。
気力精神力の意味では、かなり強い女性だと思うけれど、肉体的な意味では本当にごく平均的な強さしか持ち合わせていないと思う。
危険だ、とても危険。
私たちから見れば、とても小柄で可愛らしい女性で、パワフルで内面は強いとわかっていても、相手が蘇芳兄上ならどう考えても危険すぎる。
「わかった。これからは気を付ける」
ちょこっと首を傾げた蘇芳兄上は、素直に頷いた。
根は素直な方なんだ、本当に。真っ直ぐすぎて一直線だけど。
楽しくなると全部忘れちゃうってところが問題だが。
きちんと話は聞いてくれるし、改めてもくれる。
残念感が漂っちゃってるけれど、頭も実はものすごくいい。
完全に理数系なのだ。
何たって、中等部からすべての試験で理数はパーフェクトで一度もミスったことがないのだから。
その分、語学は散々だったと聞いている。
だからというわけではないが説明が苦手で、質問をされても相手が何をわかっていないのかが理解できないと零すことも多々ある。
「そうしてください」
「ん。瑞姫はいい子だな」
ぐりぐりとまた頬擦りしてくる。
どこか呆気にとられている橘の視線が微妙に痛い。
私を抱き上げたまま頬擦りを堪能していた蘇芳兄上は、再び橘へと視線を向ける。
「橘家の件は、俺も知っている。他家が余計な手出しをしないようには手を打っているが、必要なことがあれば言ってくれ」
「ありがとうございます。感謝いたします、ですが、相良家の皆様のお手を煩わせるようなことがあっては……」
「瑞姫のためだ。瑞姫が友を気に掛けるのなら、その憂いを晴らすためのことをする」
にっと笑った蘇芳兄上が、気にするなと橘に告げる。
「その……こういう言い方をしては何ですが、意外でした」
「そうか? 俺は将だからな。柾が大将で指示を出す。俺は現場で派手に動くのが仕事だ。俺が目立てば、八雲も茉莉も菊花も目立たず目的を果たせるだろ?」
蘇芳兄上の笑みは獰猛だ。
なまじ顔が良いだけに迫力がありすぎる。
肉食獣が獲物を見つけたときのようなイメージがある。
「俺がやるのは、味方の被害を少なくして、相手の被害を甚大にしてやることだ。それが将の仕事ってもんだ」
「では、瑞姫は?」
「瑞姫は楔だ。すべての基点になる。差すか抜くかの判断をするのが役目だ。一度楔を引き抜いたら、あとはすべてを押し流すだけだがな」
「そんな物騒なことは致しません」
「だから、自慢の妹だ」
だから、蘇芳兄上。
小さい子ではないので、そうすりすりしないでください。
おひげが痛いということはありませんが、何かがすり減っていくような気がしますので。
「あ。そうそう! 瑞姫、郷に行く予定あるだろ?」
堪能したとばかりに笑顔になった蘇芳兄上が私に問う。
「はい。約束がありますので」
「じゃあ、深雪を一緒に連れて行ってくれるか? 挨拶があるんだ」
「深雪義姉様を? それは構いませんが、兄上がお連れしなくてもいいのですか? それに挨拶って」
郷で挨拶って何だろう?
ものすごく良い事であるのは蘇芳兄上を見ていればわかるのだが。
「俺も後から追うけれど、瑞姫と一緒の方が安心だし、ゆっくりとした行程になるから安全だ」
「……はあ……」
安全?
「もーっ!! 蘇芳くんったら!! 瑞姫ちゃんを放しなさいよ!」
どかっという音と共に、ほんの少しだけ蘇芳兄上が揺れる。
「おお、嫁か!」
「嫁か、じゃない!! 瑞姫ちゃんに無茶したら、その髪の毛とうっすらしたすね毛も全部手で毟ってやるわよ!!」
憤然と兄上を蹴る我が家レベルで小柄な女性は、蘇芳兄上のお嫁さんである深雪義姉様であった。
げしげしと遠慮なく蹴り上げても、残念なことに蘇芳兄上には全くダメージがない。
「それは痛そうだな」
痛そうという割には笑ってますけど、兄上?
「放しなさい! でないと、瑞姫ちゃんをいじめたって八雲君に言いつけるわよ?」
にこやかに脅す深雪義姉様の言葉に、蘇芳兄上は渋々と私を廊下に降ろした。
「八雲に怒られるくらいはかまわんが、あまり大きな声を出すな、深雪。胎の子が驚くぞ」
「あら? 蘇芳くんの子がこんなことで驚くわけないじゃない。出来の悪いお父さんで呆れてるわよ」
「え?」
思わず深雪義姉様と蘇芳兄上を見比べる。
「御子が?」
「蘇芳くん、まだ言ってなかったの?」
きょとんと深雪義姉様が兄上を見上げる。
「瑞姫が可愛かったから」
「それは仕方がないわねぇ」
「納得しないでくださいっ!! ええっ!? じゃあ、今日はそのことを? 郷に行くのはその報告に!?」
蘇芳兄上の言い訳をなぜか納得してしまった深雪義姉様に訴えつつ、兄上に遭遇した理由を問う。
「そういうことなの。まだはっきりはしていないけど年末か年明けくらいが予定なの。忙しいときにごめんなさいね」
「いえ! それは大丈夫です。おめでとうございます。茉莉姉上もいますので、安心して出産準備をされてください」
思いがけない朗報に、嬉しくなって笑う。
「兄上、兄上!! 産着とかプレゼントしてもいいですか!? 冬だから暖かいものの方がいいですよね」
「ううっ 瑞姫ちゃんが可愛いーっ!!」
お祝いに何を贈ればいいだろうかとわくわくして考えていたら、深雪義姉様が背伸びをして頭を撫でてくる。
「さすが、俺の嫁。ブレないなー」
何故か感心したように頷く蘇芳兄上。
「ま、そういうわけで、郷まで一緒に行ってやってくれ」
「はい!」
深雪義姉様が疲れないような行程を組まなければ。
「疾風と、誉くんも瑞姫と一緒に行ってくれないか?」
「……俺も、よろしいのですか?」
蘇芳兄上に誘われた橘が怪訝そうに問う。
「頼む。瑞姫がはしゃいでるからな、ストッパーは多い方がいい」
苦笑した兄上に、ちょっとムッとする。
「兄上、失礼です!!」
「そうよ、蘇芳くん! 瑞姫ちゃんに失礼よ! 蘇芳くんよりしっかりしてるんだからね」
「……嫁。それ、ひどい」
「なによ、顔だけ残念男! 私が嫁にならなきゃ、一生独身だったくせに」
その一言に蘇芳兄上が怯む。
反論を許さない正論だ。
蘇芳兄上の外見は、所謂『肉食系女子』に大変ウケるようで、パーティなどでは速攻ハレムが出来上がるとまで言われるほどだ。
兄上が妻帯者であることは関係ないらしい。
鍛え抜かれた長身とそれに見合う精悍な顔立ちで、傍に私さえいなければ社会人としてソツなく対応できるため、妻を追い落としてもとか、愛人の座をと考える女性が群がるらしい。
まあ、中身がアレなので、早々に諦める女性も9割以上だが。
「瑞姫~っ!! 嫁が酷い~っ!!」
「いいじゃないですか、そんな兄上でもいいとお嫁に来てくださったんですから」
「……それもそうだな。瑞姫を優先してくれるなら、それだけでも充分有難いし」
「そこが、そもそもの間違いだと思うのですが」
何故私を優先させる女性が嫁の条件なのかが問題だ。
まあ、とりあえず、2人に郷行きの件を伝えられたことだけでもよしとしよう。
そう思って、私は兄夫婦に詳細を後で伝えると告げ、庭へと向かうことにした。