13 (岡部疾風視点)
疾風視点です。
途中、瑞姫の怪我に関する痛い表現がありますので、苦手な方は飛ばしてお読みください。
「ごめん、やっぱり俺、先に行く」
カフェで食事を強引に終えた俺は、在原と橘に声を掛ける。
「岡部、過保護過ぎない?」
苦笑して在原が言うが、首を横に振って否定する。
「過保護すぎるくらいでもまだ足りない。瑞姫は誰にも言わずに抱え込みすぎるんだ」
「……まぁ、確かにそうだけど」
「今日はいつにもまして食欲がなかったようだ。結局ポタージュだけしか口にしてない」
橘は、細かいところまでよく気が付くやつだ。
普段の瑞姫と先程の瑞姫の違いがはっきりわかったようだ。
「…………さっきは黙ってたんだけど」
菅原双子の弟がぽつりと言う。
「ミントとユーカリってさ、鎮静効果があるんだよね。痛み止めを使わずに、痛みを誤魔化そうとしてたんじゃない?」
「瑞姫ちゃん、朝からつらそうなのに、頑張って学校に来てるんだもん。それを気付かないやつが当たり前のように瑞姫ちゃんの傍にいるのって、むーかーつーくー!」
「……大神のことか」
今朝の襲撃を思い出し、橘が掌で顔を覆う。
「菅原姉が瑞姫の事を好きだというのはよくわかった。今朝のことは恩に着る。その件については、またあとで」
必ず言えと言ったのに、また瑞姫は痛みを我慢していたのか。
たまらなくなって、やや乱暴にトレイを返すと、瑞姫の教室へと向かう。
廊下は走らないなんて規則に構っていられるか。
俺は全力で走り出した。
東雲学園は無駄に敷地が広い。
食堂は中等部と高等部一緒なので、移動が面倒だ。
回廊はすべて屋根付きなので、雨の日でも濡れる心配がないだけましだが。
雨。
天気が変わる直前、気圧が変わると傷が痛むと瑞姫が以前言っていた。
痛むからと言って、鎮静剤を飲むのも逆に身体に負担が来ると言って我慢してしまうことも知っていた。
なのに何で俺は気が回らないんだろう。
ある程度の対処法は覚えているのに、それを活かすことをしない。
用事があると言っていたが、何の用事だったんだろう。
聞いておけばよかったと、いつもあとから思う。
瑞姫の教室の近くにつき、速度を緩める。
廊下の窓の近くに瑞姫がいることに気付き、声を掛けようとして嫌な奴を見つけた。
諏訪伊織。
あいつが瑞姫の用事の相手か。
瑞姫も人が好すぎる。
諏訪と関わると碌なことがないというのに。
顔を顰めそうになる俺の視線の先で、話が終わったらしい瑞姫がふらりと歩き出す。
だが、何かおかしい。
そう思った瞬間、瑞姫の上体がぐらりと揺れ、崩れ落ちた。
「相良!」
「瑞姫に触るな!!」
床に倒れた瑞姫に手を伸ばそうとした諏訪に俺は怒鳴りつける。
その声にびくりとして諏訪が振り返る。
「おまえが、瑞姫に触れることは、絶対に許さない」
瑞姫が死にかけた責任の一端を負うやつに触らせるものか。
諏訪を睨みつけながら、俺は瑞姫の傍に行くと膝をつき、上体を起こして俺に寄り掛からせた。
ぐったりと目を閉じた瑞姫の意識はない。
顔色は青白く、ヒンヤリとしている。
右腕のシャツがほんの少し、じわりと赤く染まっている。
皮膚が破れたか。
「相良は、大丈夫なのか?」
心配そうな諏訪の声。
「おまえが気にする必要はない」
瑞姫がどう思おうとも、俺たち相良に属するものは瑞姫が諏訪にかかわることを厭う。
俺の声に諏訪が怯んだのがわかった。
瑞姫を抱き上げ、立ち上がる。
倒れた瑞姫を気にしていた者たちが、廊下の端に寄り道を開けてくれる。
なるべく揺らさないようにゆっくりと、俺は保健室へ向かって歩き出す。
こういう時、不謹慎だと思うが、瑞姫がスカートじゃなくてよかったと注がれる視線に正直思った。
瑞姫の怪我は少々どころか厄介だ。
本来なら、とっくの昔に完治しているはずだ。
かなり惨い傷跡となって。
紙一重で助かった怪我は、それこそ想像を絶するものだった。
普通なら、こんな風に歩き回ることはできなかっただろう。
半身不随とか、それこそ植物状態に陥っていてもおかしくはない。
無意識化のとっさの判断が明暗を分けたと後から聞いた。
受け身を取っていたため、頭を打ち付けることがなかった。
身体を横にして丸めていたため、背骨を折ることがなかった。
その代り、右腕と右脚は骨が粉々になっていたけれど。
粉々になった骨を集め、つなぎ合わせ、ボルトで固定し、当座をしのぐ。
他にも折れた肋骨や、傷ついた内臓を何とかする手術は、相当な時間がかかったと聞く。
昏睡状態の瑞姫は、何度も危ない状態に陥り、今度こそ駄目だと思った時に目を開けた。
奇跡という一言では軽すぎる。
それこそ、楽になるはずの死を選ばず、生きることを選んでくれた瑞姫に感謝するほどに。
でも、それこそが瑞姫にとって地獄の日々だといえるだろう。
入院していたのは、たった半年。
だが、その半年の中で手術をしたのは片手どころか両手の指でも足りないほどの回数だった。
こういう事故の場合、1度の手術ですべてが治るわけではなく、何度も繰り返し手術をしなければならないそうだ。
それに加え、次期当主夫人が瑞姫の身体に傷を残すことを良しとせず、形成手術を受けさせた。
これによって、残るはずだった傷跡のいくつかが綺麗になったのはよかったが、瑞姫の体力がついていかなかった。
弱っていた身体は匂いに敏感になり、香水はもちろんだが、洗濯洗剤の香りや花の香りが駄目になり、俺には全くわからなかったが、病院食の食器を洗う洗剤や消毒液の匂いまでを嗅ぎ取り嘔吐した。
固形物を食べることができなくなり、もっぱら点滴で栄養を補うしかなかった。
流動食も消毒液や洗剤の香りがするスプーンや皿を使わねばならないからだ。
胃ろうの処置は取ることはなかった。
それでも次期当主夫人は瑞姫に形成手術を受けさせた。
瑞姫が手術室の扉の向こうに消えるたび、戻ってこないのではないかと不安になった。
だけど、手術をやめてほしいと言えなかった。
瑞姫が頑張っているのに、俺が怖いからという理由でやめてくれなんて言えるわけがない。
ようやく瑞姫が手術を受けたくないと言い出したのは、入院して4か月目が過ぎたころだった。
夫人はそれこそ狂ったように瑞姫を説得した。
だげど、今まで素直に従ってきた瑞姫が、今度ばかりは頑として頷かなかった。
「もう嫌だ!」
その一言を言ったきり、黙り込んでしまった瑞姫に、俺は驚いた。
瑞姫の意志が固く、どうしても頷かないことを悟った夫人は、俺に説得するように頼み込んできた。
その言葉にどうしても従うことができなくて困った俺を助けてくれたのは、お館様と呼ばれる当代様の奥方様、瑞姫の祖母にあたる方だった。
「瑞姫の身体は治りたがっているのだから、しばらくの間、休ませてあげなさい」
「ですが、お義母様! 傷を完全に消さないと! 瑞姫がつらい思いをしてしまいます」
泣きながら奥方様に訴える夫人の言葉に、俺は驚いた。
「あの子は何も悪くないのに、何でこんな目に合わなきゃいけないのかと、傷を見るたびに思っては可哀想すぎます。あんな惨い傷とこれから一生付き合っていかなければならないなんて。女の子なんですよ、瑞姫は!! 私が代わってあげられるのなら、どんなによかったか……」
「それはね、私もそう思いましたよ。この婆の命と引き換えになるなら、いつでも代わってやるのにとね。でもね、頼子さん。母親なら何があっても揺るがず構えていなさい。母親が揺れれば、子供は不安でしょうがない。瑞姫は今まで頼子さん、あなたを安心させるために頑張って手術を受けて来たんですよ。その瑞姫がこれ以上はもう駄目だと言ってるんです。今度はあなたが受け止めなきゃ」
「お義母様……申し訳……」
「はいはい、もう泣かないの。母親なんだから。それにね、瑞姫は『今はもう嫌』って言ってるんですから、後からはいいってことなんですよ。先生と今後のことを話し合った方が泣くよりよほどいいですよ」
そう言って、おふたりは病室の付添室から出て行ってしまわれた。
そのあと、どういう話し合いがなされたのかはわからない。
だけど、形成の手術は身体がしっかりするまでしないという方針に変わって、本当にほっとした。
でも安心するのはまだ早かった。
上腕部と大腿骨を支えていたボルトを外す手術が瑞姫を待っていた。
本来ならば、これも大変だが難しい手術ではなかったはずだ。
抵抗力をほとんど失ってしまった身体は、あり得ないことに感染症を引き当ててしまった。
場所は右上腕部。
縫い合わせた糸を切り、壊死していく肉を削ぎ落とす治療が毎日行われた。
傷が閉じかけたら、再度切り開き、菌に侵された部分を取り除き、洗い、消毒する。
それを繰り返していくうちに、瑞姫の腕の皮膚は非常に薄くなってしまった。
血液検査で菌がなくなったと確認され、中の肉が盛り上がり、表面がケロイド状に傷を覆い隠して、傷が完全にくっついたかのように見えた。
だが、それは見えるだけだ。
傷が閉じても切り開かれるということを身体が覚えてしまったため、腕の皮膚だけが分厚く見えても薄い皮一枚の状態になってしまったのだ。
瑞姫が極度に疲れたり、ストレスを溜めたりすると、その部分の皮膚が破れどろりとした血が滲む。
ここだけは、どうしても身体がそのことを忘れる時間が必要となり、数年かかるでしょうと、形成外科医の説明があった。
いつになったら忘れるのだろう。
そう思っても、まだ2年しか経っていないのだ。
普段は、大丈夫なんだ。
最近では、本当に滅多なことでは傷口が開くなんてことはなかったのに。
ストレスの原因が悪い。
つまり、諏訪だ。
絶対に接触させないようにしよう。
瑞姫が怒ってもかまわない。
そう決めて、俺は保健室の扉をスライドさせた。
東雲の保険医は女医だ。
名前を相良茉莉という。
相良家の長女で、瑞姫の姉である。
女帝と呼ばれるに相応しい美貌と貫禄がある。
「待っていたわ、疾風。そちらのベッドに瑞姫を寝かせて」
どうやらすでに瑞姫が倒れたという情報を手に入れて準備をされていたらしい。
あの事件の時にすでに医師であった茉莉様は、瑞姫の手術の時に執刀医の助手として手術に立ち会っている。
相良家の中で一番瑞姫の怪我について詳しい方なので、安心して瑞姫を預けられる。
防水シートを敷いたベッドの上に瑞姫をそっと寝かせれば、茉莉様は遠慮なくシャツのボタンをはずしにかかる。
いや、俺がいるんですけど!
ちょっと待ってくださいよ。
慌てて後ろを向こうとすると、茉莉様から声がかかる。
「疾風、助手しなさい!」
「え!?」
「瑞姫の手当の助手よ。あなた、瑞姫の傷を見ても大丈夫でしょ?」
「それは、もちろんです!」
それ以前の問題は無視されるようだ。
嫁入り前の娘の肌を、いくら傍付とはいえ男に見せていかがなものかと言いたいところだが、茉莉様は容赦ないからな。
瑞姫の肩を曝し、腕の傷が現れる。
そこにあった傷口は思ってたよりも小さい。
「この傷跡を見て顔色変えないどころか、ほっとした様子を見せるのは、疾風くらいよね」
「この傷は、瑞姫が生きることを選んだ証ですし。思ったより傷が小さくてよかったなと」
「いい子ね。そのトレイみたいなの、傷の下あたりに押さえつけるように固定して持ってて。傷を洗うから」
銀色の深い豆型の皿のようなトレイを渡され、言われた場所に固定する。
精製水で傷口を洗い流した茉莉様は、さらにその周辺を消毒し、傷の内側も念入りに消毒する。
そうして軟膏のようなものをそこに詰め込み、滅菌ガーゼを当てサージカルテープで止める。
無駄のない流れるような作業だ。
「はい、おわり。ありがとう、疾風」
「いえ。お役にたてたのなら、それで」
片づけを始める茉莉様に答えながら、俺は少し迷う。
「あの、茉莉様。瑞姫の着替えを……」
「そうね。させないといけないわね。ちゃんとあるわよ、一式」
どういう方法で校医になったのかはわからないが、茉莉様が保険医であるということは、非常に助かっている。
「やっぱり、まだ駄目なのね」
「……はあ」
何が駄目なのかというと、瑞姫の事だ。
あんな目に合えば、トラウマのひとつやふたつ、あって当たり前だと思うし、克服する努力も今はいらないと思っている。
瑞姫のトラウマは2つ。
ワゴン車を目にすると気分が悪くなってしまうことと、赤だ。
血を連想させるような赤が駄目になってしまった。
赤信号の赤とか、薔薇の赤とか、普段目にするものはそこまで極度な反応はしないけれど、血のような赤は無理だ。
自分で描く絵にも赤は乗せられないらしい。
血の滲んだシャツなどもってのほかだ。
「じゃあ……」
「ちょっと待ちなさい」
午後の授業が始まるからと、教室に戻ろうとした俺を茉莉様が引き止める。
「私一人で着替えさせられるはずないでしょう? 手伝いなさい」
「え!? いや、ちょっ……それは……」
「何のための守役よ? 瑞姫の身体を起こして支えてなさい」
「いやいやいや! 茉莉様、さすがにそれはまずいかと!!」
「姉で医者の私が許可してるのよ。いいに決まってるじゃない。さっさとして!」
茉莉様と次女の菊花様に勝てる気がしない。
そして、何より怖いのが、意識があったとしても瑞姫は全く気にしないだろうということだ。
「もう少し警戒してください。バレたら八雲様に殺されそうですよ、俺……」
「八雲ごとき、怖がってどうするの! ヘタレよヘタレ!! そんなんじゃ、瑞姫をあげないわよ」
「いや、だから。俺は随身であって……選ぶのは瑞姫の意志ですから」
言われるままに瑞姫を抱き起し、視線を逸らす。
絶対に八雲様にだけはバレないようにしなければ。
そう心に誓いながら、茉莉様に従う俺だった。