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東雲学園の昼食は、家から持ってくるお弁当、カフェテリア、リストランテがある。
もちろん、リストランテと言っても正式なものではないが。
学園内での支払いはすべて学生証で行う。
校内に現金の持ち込みは禁止されている。
何故かと言うと、コインや紙幣は雑菌だらけで不衛生だからという理由だ。
誰が触ったかもわからないようなものを学園内に持ち込んではいけないという驚くべき考え方に愕然としたものだ。
まあ、基本的にここに通っている坊ちゃん嬢ちゃんはカード払いの方が慣れているので、違和感はないのだろうが、いやはや驚いた。
学生証にICチップが埋め込まれ、月締めで請求が家へと送られるのだ。
ちなみに、何故フレンチレストランではなくリストランテかというと、授業の中に週1でマナー講座があるのだが、月1回は必ず食事のマナーがあり、フレンチは年2回ほどは正式なものを食べさせられるので、食堂で食べなくてもいいだろうという方針なのだ。
羨ましいと思うことなかれ。
あれは、非常に苛酷な授業だ。
まず、好き嫌いは許されない。そして、残すことも許されない。
食物アレルギーを持つ人は、具材を変えて見た目はほとんど同じものを出されるので、条件は一緒だと付け加えておこう。
一番恐ろしいのは、マナーが完璧になるまで、何度でも同じものを食べさせられるということだ。
懐石料理ならまだ何とかなるが、洋食系は一品の量が多い。
マナー完璧な人なら、すべて1回ずつで終わるから何てことはない。
『今日も美味しゅうございましたわ』とにっこり笑って生温かい視線を周囲に向ければいい。
だが、何度やってもマナーが身につかない人は、もう駄目だと思ってもテーブルに料理が置かれるのだ。
最初の内は面白がっていた外部生も、6月の3回目の授業ともなれば料理を見た瞬間に涙目になり、9月の5回目を過ぎたころには魂が半分遊離していくような表情になる。
食事のマナーも本格フレンチの他に、和食や中華、地中海料理や北欧系もあれば、立食パーティなどもいろいろなパターンに合わせて用意されている。
食べることが苦行になるとは誰も思うまい。
まあ、そういう理由で、普段の昼食はそこまで重いものではなく、気軽に楽しめるものにしておこうということでそれが選ばれたわけだ。
早く食べて教室に戻ろうと思った私が選んだのは、カフェのサンドウィッチである。
種類も豊富だし、天気がいい日はボックスに詰めて中庭で食べることもできるので、人気のメニューだ。
雨の中、そんな酔狂はやらないが。
疾風と共にカフェテリアへ行けば、先に来ていた在原たちが手を上げて席が空いていることを教えてくれる。
トレイにコーヒーとサンドウィッチを乗せて彼らの対面へ座る。
「瑞姫、それだけで足りるのかい?」
乗せられた皿に視線を落とした橘が心配そうに問う。
「ああ、うん。これでも多いかなと……」
「ダイエットが必要ないのに、その量は少なすぎると思うよ。せめてもう一品、サラダとかスープでもいいからつけておいでよ」
貴様は私のおかんか!? と、言いたいところだが、曖昧に頷く。
「あまり時間がなくてな。これからちょっと用がある」
「ねえ、それって大神と相合傘してたのとつながりある? 随分噂になってるけど」
在原が不愉快そうに告げる。
「いや、ない。相合傘ってナニ? 車から降りようとしたら大神が待ち受けてて同じ傘に入れられただけだが。どんな噂になってる?」
「……ああ、そういうことか。いや、大丈夫。すぐに消える程度だろうね。そのあとの菅原姉の突撃の方が話題になってるから」
濡れた手拭で手を拭いて、パンを摘まもうとした手が止まった。
元々なかった食欲が減退してしまった。
「千瑛のこと、悪く言われたりはしてなかった?」
「概ね好意的。というか、羨ましすぎるという方向性で……抱き着いて、しかも揉んだって聞いたけど」
「脇腹をね」
「……そっちかぁ!」
残念そうに在原が唸る。
女子はBLが好きだが、男は百合が好きというのはあながち嘘ではないようだ。
もちろん、二次元に限るが。
「セクハラ退散なのよ? 瑞姫ちゃんはもうちょっとお肉ついてふくよかになってもいいとは思うんだけど」
小さな手が伸びてきて、私のサンドウィッチを摘まむとしゃりっとレタスを噛む音がする。
「……千瑛」
「うん。毒味完了。まあまあってとこかしら。食べても大丈夫よ、瑞姫ちゃん」
にっこりと笑ったミニマム美少女が、2つめのサンドウィッチに手を伸ばす。
「千瑛!! 人のを食べるな! 自分のがあるだろ、この食欲魔人!!」
またしても千瑛の襟首を掴んでテーブルから引きはがした千景が双子の姉を睨みつける。
「だって、瑞姫ちゃんがなかなか食べないから、毒殺を心配してるのかと思って」
悪びれずに千瑛が弟に主張する。
一体、私はどういう世界に生きているんだろうか。
毒殺って普通ないはずだけど。
「悪い、瑞姫。またこの莫迦が迷惑をかけたな」
姉の不始末を潔く謝った千景が、自分のトレイからポタージュスープのカップを私のトレイへと乗せかえる。
「これは詫びだ。遠慮なく受け取ってくれ」
千景、できる子。
千瑛が絶対に何かやらかすと悟ってのオーダーなのか!?
どんだけ迷惑かけれらてきたんだ、不憫な子。
だが、食欲減退中の私にとってサンドウィッチよりもポタージュスープの方が胃が受け付けやすい。
まさかふたりしてそれを狙っていたというわけじゃないよな。
「ありがとう、千景。よかったら、ここで食事を摂っていかないか?」
ポタージュスープを受け取るという形で、千瑛の行動を水に流す。
これが対外的に問題が少ないだろうことは明白だ。
「ん」
「苦しゅうない。隣に座ることを許すぞ、千景」
ちょっと躊躇う千景に、ちゃっかり私の隣に座った千瑛がぽんぽんと自分の隣の席を叩く。
「許さんでいい。むしろ、お前がこっちに座れ。瑞姫に迷惑かけるな、莫迦!」
むっとした様子で千景が千瑛を叱りつける。
このやり取りを在原と橘がぽかんとした表情で見ていた。
「や……聞きしに勝る苦労ぶりだね……」
人嫌いの千景というよりも奇行に走る姉を世話する苦労性の弟という目で見る橘に、千景がばつの悪そうな表情になる。
「苦労は金を払ってでも経験した方がいいんだよ。橘君は知っていた?」
その苦労の元凶がけろりとした表情で問う。
「ことわざとしては知っているけど、苦労の内容は選びたいよね」
「確かにね。毒殺は嫌だもんねー」
苦笑した橘の答えに、全く見当違いのことを返す千瑛。
「君の中で私の毒殺説は決定事項なのかな、千瑛?」
一応、訂正しておかないと、また変な方向へ噂が転がってはたまらない。
「瑞姫ちゃんを毒殺したら、全人類的損失だと思うけどねー。あ、瑞姫ちゃん、いい匂いがする! それって、お香? ほら、千景も匂い嗅いでみて!」
エステティシャンを目指す千瑛は、香りに敏感だ。
癒しの香りを探すのに夢中なのだと自分で言っている通り、他人が纏う香りに即座に反応する。
それは、双子の弟である千景も似たようなものだ。
千瑛の言葉に誘われ、私の鎖骨付近へと顔を寄せる。
「ほんとだ。ミントとユーカリ? それから、ネロリかな?」
ミントとユーカリは殺菌と鎮静の効果がある。
あと、表面温度を下げ、体内温度を上げる効果も。
つまりは痛み止めだ。
「アロマだよ。じめじめして気分が億劫になるからね、気分転換にいいかと思って」
「へえ、そうなんだ」
私の言い訳を千景は納得したように頷いてくれる。
相手が敢えて隠したいことを暴くような真似はしない。
「お香に興味があるなら、香席に参加してみるか? 祖母がたまに香の席を開いているんだが」
「はいはーい! 行ってみたいです」
「素人でも参加させてもらえるのなら、興味はある」
菅原の双子は香席に興味を示す。
「わかった。祖母に聞いておこう。もしかしたら、席ではなくて稽古という形で招待してくれるかもしれないな」
「わーいっ!! 瑞姫ちゃん、大好きー」
嬉しそうに笑う千瑛に、よかったねと無表情に千景が言う。
それを微笑みながら眺め、ポタージュスープを飲み干す。
時間も丁度良い。
「すまない。用があるので、今日は先に失礼する。皆はゆっくりしていってくれ」
そういうと、空いた皿を自分のトレイに乗せて席を立つ。
「瑞姫!」
「疾風も食べていなさい。ついてこなくても大丈夫だから」
慌てた疾風を引き留め、トレイを返すとカフェを出た。
教室に戻れば、自分の席で難しい表情をしている諏訪がいる。
「待たせてしまっただろうか?」
謝罪も兼ねて声を掛ければ、諏訪の表情が一変する。
「いや。こちらこそ無理を言った」
「どこで話をする?」
「ここでは迷惑になるか。廊下でいいだろうか?」
立ち上がった諏訪が廊下の窓を示す。
「了解した」
頷いて教室から廊下へと場を移す。
廊下を通る者はそう多くはなく、そして、騒がしいわけでもない。
人が話をする分にはもってこいだ。
諏訪は、廊下の外窓を開け、中庭の景色を眺める。
雨音がある程度の声を消してくれる。
「さて。用件を聞こうか」
窓の桟に凭れ掛かり、穏やかそうな表情を作って問いかける。
「父の会社で、今、ある程度の仕事を任されているというのは、聞いているか?」
「ああ。諏訪のご当主に聞いた」
「そうか。なら、話は早い。そこで、納得のいかない資料を見つけた。詳しくは言えないが、不正に関するものだと思う。相良、おまえならどうする?」
私に向けられたまっすぐな視線は葛藤で微妙に揺れている。
あくまで疑惑の段階で、証拠を掴んではいないのだろう。
そうして、その書類はわざと諏訪のご当主が紛れさせたものだと推測する。
息子が、次期当主が、どう判断を下すか、試すつもりなのだろう。
「諏訪。その前に、明確にしておかなければならないことがある」
かつてやったことのあるゲームを思い出し、私は諏訪を見る。
「おまえが、諏訪の次期当主として、守りたいものはなんだ?」
「守りたいもの?」
「グループの体面か? それとも、利益か? グループで働く従業員とその家族か?」
たった1つのことでも、見る角度によって対応も変わる。
自分の立ち位置を明確にしなければ、答えは変わる。
父の後を継ぎ、頂点に君臨することを義務付けられた諏訪は、それが最も顕著となることを自覚しなければならない。
「……諏訪で働く者たちだ」
やや間があったものの、諏訪が答える声に迷いはなかった。
その間に、不正が何であるのかを予測する。
一番ひどい現実を我が子に突き付けたのだろう、あの当主は。
「そうか。不正というのは厄介だ。まず、確実に証拠を集めなければならない。不正が行われたという事実をな。次に、誰が行ったのか、というのが大事だ。調べていれば、絶対に誰か疑惑のある者が浮かび上がる。だが、その人物がダミーである可能性も捨てがたい。ここが、重要だ。不正は何時かはバレる。その時に、不正をした人物を偽装しかねないということだ。誰もがある程度、そのことを予想し、自分に疑惑が向かないように山羊を用意することがある」
「生贄の山羊か」
「そうだ」
目を瞠った諏訪に、私は頷く。
「慎重に慎重を重ねて、絶対的な証拠を集めたのち、報告する先も留意しなければならない。諏訪は従業員を守りたいと言ったな? では、決して諏訪の体面を守りたい者にその情報を渡してはならない」
「何故だ?」
「わかっているだろう? 握り潰されるからだ。当主の子供というのは、他のもが思うほどに握っている力は少ない。だから、会社の体面を気にせず、公平に判断できるものにその証拠と情報を手渡さなければならない」
架空の都市の市長になるゲームをもとに開発された財閥当主のゲームは、実に現実に即していながら大変なゲームだった。
信頼する部下に裏切られたり、突然天災に見舞われたり、次から次へと問題が発生するのだ。
私がそのゲームをしたのは初等部の時。
すでに成人している兄や、学生でありながらある程度会社の仕事を任されている姉兄たちと張り合うことなど、土台無理。
その無理を承知で、私は強制的にゲームに参加させられ、結果は惨敗。
それでも最低位ではなかったことが救いだ。
一番不利な状況で始めたゲームだが、負けず嫌いが災いした。
知識不足、経験不足。
それらを十分承知でも、負けたくなかった。
ちなみに最低位は蘇芳兄上だった。
「そうか。それで、犯人とその家族はどうすればいい?」
「そこも状況次第だ。見込みがあるようであれば、家族は犯人と切り離す方がいいだろう。犯人に関しては、罪状によりけりだ。刑事責任を負わせるか、内々に済ますか、おまえの考え方ひとつだな」
「………………そうか」
真面目な表情で考え込んだ諏訪は、ゆっくりと頷く。
「参考になった、ありがとう」
「不正の証拠を集めるにあたって、忠告を1つしよう。決して、決めつけるな。その人が不正をしているに違いない。または、まさかするわけがない。そういう考えを持っていれば、証拠集めにばらつきが出る。中身を考えずに淡々と集めるのが一番だ」
「……そう、だな。重ね重ね、すまない」
一瞬、言葉に詰まった諏訪が泣き出しそうな表情で頭を下げる。
「本当に助かった。相良はそういう経験があるのか?」
「……ゲームでな」
問いかけられ、正直に答える。
「ゲーム?」
「ある程度、年齢が達したら、当主が子供たちの資質を確かめるために経営者のゲームをさせるんだ。すぐ上の兄とも5歳の年齢差がある私が、他の兄姉たちと一緒に経営ゲームができると思うか? 結果は惨敗だった。かろうじて最下位ではなかったがな」
「それは、激しく悔しいな」
「予想している数倍は悔しいぞ。絶対に一矢報いねば、悔しくて夜眠れないくらいにはな」
「そんなにか!」
「私に経営の才能がないというのは、あの時よくわかった。そして、年齢差があることに腹が立った。今なら、多少、取るべき対応が変わってくるだろうが」
そう答えた私に、諏訪が驚きの視線を向けてくる。
「本当に参考になった。慎重に対応しようと思う」
礼を言った諏訪が頭を下げ、すべての会話を打ち切る。
話が終わったのだと理解した私は、頷き返すとふらりと歩き出す。
この間から、ストレスが溜まりすぎた。
このまま放置していれば、絶対に倒れるなと思いつつ、私はすでに手遅れであることに気付く。
右腕に感じた違和感。
閉じていた傷口がぶつりと口を開く。
痛みよりも先に血の気が失せる。
ヤバいと思うよりも先に、身体が重くなる。
身体のコントロールが効かないことに焦りが生じる。
だが、それを口にする前に、私は意識を手放した。