11
今年の梅雨は長引くようで、今日も微妙に身体が重い。
降車場に並ぶ車の列もいつもより間隔がくっついているような気もする。
車の乗り降りは、実はひとりですることがほとんどない。
大抵の場合は疾風が一緒に乗って、ドアを開けて降りる介助をしてくれる。
雨の日であれば、誰かが大きめの傘で濡れないように扉付近に差し掛けてくれ、車から降りれば別の傘を手渡してくれる。
実に至れり尽くせりである。
ありがたい話だが、それは時に苦痛でもある。
瑞姫には当たり前のことでも、『私』には異常なことであるからだ。
いまだに『私』は、瑞姫が置かれた環境に慣れずにいる。
今日も車の扉が開けられ、傘が差し掛けられる。
なるべく早く降りなければ、相手も雨に濡れるし、風邪をひいてしまうかもしれない。
そんな思いで鞄を手にし、車から脚を下ろす。
「おはよう、相良さん」
「……大神様? おはようございます……」
傘をさしかけていたのは、相良の人間ではなく、何故か大神紅蓮だった。
「ああ、傘はいいよ。僕のに一緒に入っていけばいいから」
傘を差し出す手を何故か大神が断り、私の腕を軽く引き、自分の傘の中に収めてしまう。
「君が濡れてしまいます」
「だが、こちらの方が安心するから。岡部もいないことだし」
そう言って、大神は私の歩調に合わせるようにゆっくりと校舎に向かって歩き出す。
「相良さんとはいろいろ、ゆっくり話をしなければと思っていたんだ。時間をもらえないだろうか?」
「必要ならば、予定を開けます」
「そう。ありがとう」
静かな声が降りてくる。
これが大神と小柄な女子生徒なら絵になるのかもしれないが、男子用制服姿の長身の私ではどうにもBL方向に走っているような気がする。
何しろ、熱い視線が送られてくるのはほとんどが女子生徒、それもお姉さま方からだ。
「……諏訪の御宅に呼ばれたと聞いたけれど、どんなお話をされたのか、伺ってもいいかな?」
ふと大神が話題を振る。
「律子様にサロンに案内された後、ご当主が来られて……諏訪の話を伺った。会社でいくつか仕事を任されたようですね」
「それだけ?」
「ええ。概ね、そのような話ばかりでしたが」
何を聞きたいのだろうか、大神は。
「八雲様と詩織嬢の婚約とか、諏訪と君の婚約に関する話は出なかった?」
「いいえ。そのような話が出るわけないでしょう。相良が許すはずがない」
「……そう、か」
「大神様は何を気にされておられるのでしょうか? 私は今のところ、どなたとも縁付くつもりはございませんし、兄は条件を付けて精査している最中です」
「君は、誰かを好きになったりしないの?」
「…………誰を?」
何故、雨の中、大神と同じ傘に入って恋愛について論じなければならないのだろうか。
目を眇め、大神を睨むように眺めやれば、こちらに視線を向けていた大神が視線を逸らす。
「大神様はどなたを好きになればよいとお考えですか? 私には、友を愛することはできますが、誰かに恋することはできそうにありません。そういう意味では、相良の者として失格ですね」
大神が答えを言い淀む間に、私は自分の答えを告げる。
「感情よりも理性が先行するタイプだから、かな? 諏訪とは真逆だね」
「いえ。常に感覚が先行しております。兄には野生のカンで生きているとまで言われましたよ」
「相良さんが? 野生のカン? 見えないけど……」
余程驚いたのか、逸らされていた大神の視線が今度は凝視していると言っていいほど据えられる。
「あの事故の時も、無意識に受け身の体勢を取っていたらしく、そのおかげで助かったと言われました。野生の感覚だと医師にも……」
不本意な事実を告げると、大神が盛大に噴出した。
「ご、ごめん。全然見えないんだけど、野生なんだ」
懸命に笑いをこらえようとする姿は紳士的だが、こらえきれてないところが減点だ。
昇降口まで笑い続ける大神と共に歩き、ようやく屋根の下へと入った途端、ちょうど胃のあたりに衝撃が走った。
「瑞姫ちゃん、おっはよーっ!!」
ミニマムサイズな少女が突撃してきたのだ。
「いたっ! いたたたたっ おはよう、千瑛。突撃したあと人の身体を揉むのはやめてもらいたい」
「えー、やだよぉ。女の子の身体は揉むためにあるんだから!」
きっぱりと言い切る小柄な美少女の名前は、菅原千瑛。
学園七騎士の菅原千景の双子の姉だ。
可愛らしい外見とは裏腹に、かなりのオヤジが入っている。
おっさんではない、オヤジだ。
「菅原さん、人前でそういう発言はちょっと……」
苦笑した大神が千瑛をやんわりと窘める。
「どういう発言? 女の子の身体は、男と違って筋力弱いから、負荷がかかりやすいのでよく揉み解してあげないといけないんだよ」
私に抱き着いたまま、千瑛はきょとんとしたような表情を作って大神を見上げる。
聞き手によって、どういう意味にでもとれる言葉を口にしては相手をからかって遊んでいるのだ。
相手が大神や諏訪だとしても千瑛は怯まない。
むしろ嬉々としてやるだろう。
現に、大神は千瑛の言葉で絶句している。
「瑞姫ちゃん、私、なんか変なこと言った?」
言ってないよねーと大きな瞳が私を見上げ、同意を求めてくる。
「充分変だっ! ほら、瑞姫から離れろ。このオヤジめ!!」
追いついてきた千瑛と同じ顔の少年がぐいっと姉の襟を掴んで後ろに引く。
「いたーっ!! ちーちゃん、乱暴! お姉ちゃんに何てことするのー!!」
「誰がお姉ちゃんだ!? たまたま早く下界に降りただけだろう!」
幼さがまだ抜けない丸みを帯びた顔立ちの少年は、千瑛から弟扱いされることと他人から可愛いと子ども扱いされることを極端に嫌っている。
人見知りというよりも人嫌いの千景は、ゲーム中でも攻略の難易度が高かった。
ゲーム設定では双子ではなかったし。
「おはよう、千景」
「おはよう。朝からこの莫迦がすまないな」
「いや。今日も朝から元気でつらいほどだ」
妙に千瑛に懐かれたことで、千景は私には普通に話してくれる。
むしろ、好意的だ。
なんせ鉄砲玉の姉を回収するには私の傍にいればいいと学んだからだ。
もしかしたら、自分と同じ被害者だという意識があるのかもしれない。
今も同情的なまなざしを送ってくれている。
「大体な、何でいつも瑞姫を見たら突進していくんだ!? そして、何故、抱き着く!?」
「だって瑞姫ちゃんがひとりなんだもん。それに柔らかくてあったかくて気持ちいいんだもん。千景はそう思わない?」
「……最初の言葉には頷いてやれるが、後半は無理だ!」
姉弟の微妙な会話が繰り広げられていく。
私がひとりって、大神が一緒にいるんだが、彼は無視か?
存在をあえて消しているのか?
「千景、すまないが先に行く。またあとで」
「おう」
ここでじっとしているわけにもいかないだろうと、千景に声を掛ければ、頷く少年。
そしてふと気が付いた。
千瑛と千景の立つ位置が、大神の進路を阻んでいる。
大神が動けば、千瑛と千景も喧嘩しながら動いている。
私と引き離したいのか。
まさかな。
とりあえず、大神にも先に行くと声を掛け、そのまま教室へと向かった。
教室に辿り着き、席に着けば、疾風がやってくる。
「今日は遅かったが、道が混んでたのか?」
私に異常がないか、ざっと視線を走らせ、心配そうに尋ねる。
「下で千瑛に捕まった。千景が回収していったと思うが……」
「また抱き着かれたのか。菅原姉は何であんなに突進してくるんだ?」
そう、まさに突進。
疾風の言葉は実に的確だ。
「そこに私がいるからだ、と、この間、言われた。今日は、私がひとりだからと」
「ひとりだったのか?」
「大神様に傘に入れてもらった。断れなかったので、仕方なく」
「……わかった。雨の日は、部活の朝練は休むことにする。いや、朝練自体出席するのはやめよう」
柔道部に所属している疾風は、週に2回、朝練に出るため登校が別になる。
そんなときはこうやって部活が終わってから私の教室へやってきて何事もなかったかを確かめるのだ。
すでに段持ちで、私の警護についている疾風は、部活にしかたなく所属しているが試合に出ることはない。
疾風がやっているのはスポーツではないからだ。
だが、乞われて初心者に型を教えたりしている。
「部活動を行うのも学生の特権だぞ。私に左右されず、きちんと学生生活を楽しめ」
「瑞姫の傍にいるのが、俺の一番大事なことだ。頼まれたからといって部活に入らなくてもよかった」
「……疾風」
大型犬が拗ねると実に面倒臭い。
じっとりと恨めしそうな視線を投げかけてくる。
「もうじき1学期の期末試験だな。部活も休みになるから、しばらくは一緒に行けるじゃないか」
「そうだな。瑞姫は今度も主席を狙うのか?」
もうじき試験で部活が休みだということを告げれば、嬉しそうな表情に戻り問いかけてくる。
「狙ってはいない。ミスをなくす努力をするつもりだけど」
「そうか。在原がまた勉強を一緒にしたいって言っていたが、どうする?」
「都合が合えばと答えておいてくれ」
「わかった。じゃあ、何かあればすぐに呼べよ」
授業の合間の休憩時間になれば必ず人の教室へやってくる男は、上機嫌で自分の教室へ向かっていった。
疾風と入れ替わりに教室に入ってきたのは諏訪だった。
表情がやや暗い。
入学当初の再演かと、気付いた者たちがざわりとざわめく。
だが、今回はあの怨念めいた暗い空気は背負ってはいなかった。
「諏訪様、おはようございます」
何人かの女子生徒が諏訪に声を掛ける。
挨拶は大事だと思うが、あの諏訪に声を掛けるとは勇者の称号を進呈したいほどだ。
「ああ。はやいな」
まるで重役出勤の返しに、ちょっとツッコミたくなってしまう。
あの時は、まるっと無視していたが、今回は答える余裕があるらしい。
そのことにホッとした空気が漂っている。
真剣な表情で何か考え事をしているらしい諏訪は、自分の席に着くなりノートを取り出すと何やら書き込んでいる。
思いついたことを書き連ねていく諏訪の表情がいよいよ険しくなっていく。
そのたびごとにちらちらと、私を見る視線が増えてくる。
また、私に何とかしろと訴えたいのだろう。
本人が何も言わない限り、知らない顔をしたいのだが、いかがなものか。
ノートを閉じ、おもむろに立ち上がった諏訪が、まっすぐに私のところへとやってくる。
「相良、相談に乗ってほしい」
真剣な表情の諏訪と、興味津々な空気を隠せないでいるクラスメイト達。
「もうじき授業だ。合間の休憩では時間が足らないのだろう? 昼休みなら応じよう」
「わかった。助かる」
ほっとしたように笑みを滲ませた諏訪は、先程とは違い余裕を取り戻し席に戻る。
何の相談なのかわからないが、とりあえず聞くだけは聞いた方がよさそうだ。
授業の準備をはじめながら、私は手短に昼食を摂る方法を考えた。