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 髪を撫でる大きな手。

 優しく丁寧に指先で梳くように、ゆったりとした仕種で動いている。

 その手が襟足付近に近付くと、戸惑ったようにぴたりと止まる。

 そうして少しためらった後、再び上へと戻っていくのだ。


 小さい頃、寝る前と朝起きたときの髪を梳る役目は、柾兄上のものだった。

 初等部に入ったころには、自分のことは自分でできるようになったため、兄上の手を煩わせることはなくなっていた。

 それでも、八雲兄上や柾兄上は、好んで私の髪を弄っていた。

 お出かけするときなどは、凝った髪形にしようと、2人で櫛の奪い合いをするほどだ。

 そんな2人を余所に、疾風が私の髪を整えていたことも今では懐かしい思い出だ。

 中等部に入ったころには腰まであった髪は、今では後襟につくかどうかという短さだ。

 これを言ってはなんだが、髪を洗ったり乾かしたり、梳ったりという場面で、非常に楽になった。

 着物に合わせて整える時が少々不便だが、普段は髪型を整えるという手間が最低限で済むようになり、時間短縮になっている。

 以前は、髪が短い自分というものが想像できなかったが、今では髪が長い自分というものが不自然に感じられるほどだ。

 だが、長い髪の私のイメージが今でも色濃く残っている柾兄上や八雲兄上は、うなじあたりから髪が削いでまとめられていることに違和感があるようだ。

 私の髪を撫でるたび、戸惑う気配を漂わせる。




「どこから話せばいいか……瑞姫にとっては、辛い記憶だろうし」

 少しばかり考え込むような様子を見せた柾兄上が、ふと顔を上げる。

「詩織さんを襲った犯人は4人いた。これは、覚えているかい?」

 私の記憶はところどころ欠けている。

 事故のショックによるものだと聞いている。

 記憶喪失とは異なるものだ。

 一連の流れをビデオのように記憶していながら、欠けたところがあると認識している。

 普通であれば、ショックで記憶が欠けたとしても、辻褄合わせで記憶が欠けていると思わないように記憶が挿げ替えられることが多い。

 間違った記憶を正しいものだと思い込んだりする場合もあるようだ。

 ところが私の場合、辻褄合わせをせず、ある区間の記憶が途切れているが意識はあったという認識をしているのだ。

 妙に律儀な海馬に呆れてしまうこともある。

「そこは、覚えています。疾風の見舞いに行こうと車寄せではなく、駐車場に向かって歩いていた時に遭遇したと。顔までは、はっきり覚えていないと思います」

 あやふやな記憶。

 鮮明な記憶。

 思い出したくはないと、繰り返し見る夢に悪態を吐きたくなることもある。

 あり得ない方向にねじまがったモノが記憶の最後と言える。

 そこから記憶が途切れている。

 だから、気を失ったのだと思う。

 実際はタイムラグがあり、救急車が到着して運び込まれるわずかな間、救急救命士の声掛けに反応し、質問に答えているらしい。

 そこの記憶は一切ない。

 それを知っているからこそ、柾兄上も躊躇うのだろう。

 失った、あるいは忘れ去った記憶を思い出させていいのだろうかと。

「私は大丈夫です。知るべきことでしたら、仰ってください」

「…………そう、だな。これは、瑞姫に関係していることだ。瑞姫は知って、判断しなければならないことだ」

 覚悟を決めたと表情で語った柾兄上は、私と疾風に話し出した。




 私が遭遇した犯人は4人だった。

 そのうち、2人を私が動きを封じ、1人が私を轢き殺そうと車に飛び乗り、仲間ごと撥ね上げた。

 轢かれた1人は即死、残る1人も数日間、ICUに入っていたが体力が尽きて死亡。

 取り押さえられた2人は警察に引き渡されたとまで聞いていた。

 彼らは、諏訪分家当主に恨みを抱いていた。

 詩織様をさらって、恨みを晴らそうとするほどまでに憎んでいた。

 そこまでは、同情の余地があるというのが、世間一般の反応だったらしい。

 だが、無関係な私を殺そうとしたことで、同情が非難に変わったらしい。

 同級生を救おうとしたまだ幼い少女を、自分たちの計画を目撃したことで死に至らしめようと考えた残酷で身勝手な犯行という司法判断も下されたということだ。

 そう。

 捕まった犯人のうち、私を殺そうとした男は、今でも裁判で全面的に争っているらしい。

 自分は悪くない、あの場に来て、通報しようとした私が悪いのだと言っているそうだ。

 その主張を踏まえて、彼の弁護人は心神喪失状態でまともな判断が下させない状況にあったため、罪を償える状態ではないといういささか苦しい理論展開をしているようだ。

 一方、私を捉えるでもなく、車に乗って轢き殺そうともしなかった犯人の1人は、全面的に罪を認めて裁判結果を受け入れ、上告もせずに刑に服しているらしい。

 こんなはずではなかったと計画について、素直に全部話した。

 拘置所にいる間、ICUに入っていた仲間が死亡したと聞き、何度も自殺未遂を衝動的に起こし、その後、私が助かったと聞いて、号泣したそうだ。

 無関係の人間を殺そうとする仲間を止めることもできず、ただ見ていることしかできなかった自分に嫌気がさしたと残し、首を吊ろうとし、舌を噛もうとしていた男は、知らせを聞いて相当長い間、声を上げて泣いていたらしい。

 そうしてようやく涙を拭いた後、この世と縁を切ると言って、出家願いを切り出し、そうして事情を聞いたある寺院の僧侶が得度を与えたそうだ。

「今現在、服役中だから、僧侶としての修行はしていないようだけれど、出所したらそのまま修行の道に進むそうだ」

 柾兄上の言葉に、私は相槌を打ち、先を促す。

「それで、その方がどうされたのですか?」

「服役中の人たちがどういう生活をしているか、知っているかな?」

「いえ。不勉強で申し訳ありません。服役というのですから、何か罪に応じて仕事をしているのだろうかと想像するくらいで……」

「そうだね、正解とは言い難いが、間違いでもない。その罪に応じて収監され、禁固刑だったり懲役刑だったりと色々な刑に服すわけだけれど、死刑や無期懲役でない限り、彼らは社会復帰しなければならない。けれど、刑務所を出てすぐに生活なんて無理だから、刑務所にいる間に手に職をつけるための職業訓練などを受け、それらに対する報酬をもらい、出所後の生活に使えるお金を蓄えるんだよ」

「……ああ、そうですね。住むところが無かったり、もちろん、就職先や食べるものや服なんてないですからね」

 言われてみれば、納得する。

 だけど、その話がどういう意味を持っているのだろうか?

 私が考えていることがわかったのだろう。

 兄上は小さく笑うと、私の髪を撫でた。

「出家をした身では、お金は必要ない。それでも服役中の身でそれらを拒絶することはできない。そうして、彼は償うべきことがあると言って、毎月、働いたお金を、瑞姫、おまえ宛に弁護士を通じて送っているんだ。金額は、ほんのわずかなものだ。おまえが下絵を一枚描いた金額と比べることもできないほどの少額だが、それでもコツコツと働いて貯めて、送ってくる。どんなに身を粉にして働いても、慰謝料どころか入院費用にも満たないとわかっていても、自分にできる事だからと、謝罪の言葉の代わりに送ってくるんだ」

「……普通の方、だったんですね」

 本来、犯罪を犯すような人ではなかったようだ、この話を聞く限り。

 偶然だったとはいえ、私を巻き込んでしまったことでさぞ罪悪感に苛まれてしまったことだろう。

 どこでどう道を外してしまったのか。

「そうだな、普通の人だ。罪を償おうと、自分なりに必死に考えて実行している人だ。詩織さんの父君と関わらねば、今も普通に暮らしていただろうに」

 仮定の話をした柾兄上は、小さく笑う。

「それで、送ってきているお金はどうなさるおつもりなのですか?」

「瑞姫はどうしたい? 彼は瑞姫への賠償金と慰謝料のつもりで送ってきているんだよ」

「今まで受け取ってこられたのは、その方の意思を尊重するためですか?」

「そうだね。彼は確かに罪を犯した。だがそれは、瑞姫に対してではない。私は彼に対して、特に思うことはない。許せないと思う相手ではないんだ」

 兄上の声に感情の乱れはない。

 確かにそう思っているのだろう。

「私は、ね、瑞姫。おまえを轢き殺そうとした者を決して赦すことはしない。己がやったことを省みず、あの場におまえがいたことが悪いと言い張るような輩を世に出すつもりはない。不満不平を言い続け、それでも外に出られず、いつか突如として行われる刑の執行に怯えながら、絶望の中で日々を過ごせばいいと思っている。だが、彼は違う。己がやったことに恐怖を覚えた。そこから反省し、償うことを選んだ。だから、私たちも赦すという道を選ぶことができる」

 兄上が紡ぐ言葉に、この人は人の上に立つことを選んだ人なのだと思う。

 相手が反省をしたからといって赦せるかと言えば、否だ。

 感情というものは、そんな単純なものではない。

 その感情を捻じ伏せて、必要だと思われる道を選ぶことを当たり前のようにやれるのだ。

 だから兄上は凄いと、素直に思う。

「これは、私たちの判断だ。だが、瑞姫、おまえは当事者であり、被害者だ。どうしたいのか、正直な気持ちで答えていい立場だ。彼の考えは、2つ。微々たる金額でしかないが、送っているお金を受け取ってほしい。それと、出所したら、おまえに会って、直接謝りたい。そう、彼の弁護士から聞いている」

「……柾様、それは、お金は受け取らない。会いたくないと答えても大丈夫だということなのでしょうか?」

 疾風が真っ直ぐに兄上を見つめ、問いかける。

 私が何と答えてもいいように、先回りして最悪の答えを質問という形で口にする。

「もちろん、構わない。相手もその覚悟はある」

 柾兄上はゆったりとした仕種で疾風の質問に頷く。

「お金は、ひとまず受け取りましょう。出所された時に、そのお祝いとしてそのお金を差し上げてください」

 気持ちを送っているのなら、気持ちは受け取らなければならないと思う。

 私がそのお金を受け取ろうが受け取るまいが、彼を赦すのは彼の心だ。

 きっと、これからもっと苦しむことになるのだろう、罪の意識は人それぞれだが時間と共に重くなるものだと聞く。

 それが軽くなるのは、それこそ、ある日突然なのだとか。

 それまで、誰がどう言おうともつらく苦しいものなのだろう。

 刑期を終え、無事に出所したとしても、ここに来れるかどうかもわからない。

 謝罪したくてもできないほどに恐ろしい存在に、彼の中の私はなっているかもしれない。

 だから、謝罪しに来たのなら、自分の心に勝ったお祝いを差し上げてもいいのではないかと思ってしまう。

「それで、いいのかな?」

「はい。例え僧侶になられるとしても、やはりお金は必要でしょう。日常生活での細々としたモノを揃えなければならないでしょうし」

「ああ、そうだね。女の子はそういうところに目が行き届くものだな。失念していた」

 一瞬、戸惑った様子を見せた兄上は、ちょっと目を瞠って、苦笑する。

「一般の方よりもそういった方々の方が身嗜みに細かくチェックが入りそうです」

 私のイメージとしては、仏門に入られた方は非常に身嗜みに気を遣っている感じなのだ。

 身なりを整え、清く保ち、修行を行われている。

 全然関係ないことだが、僧侶の方にも給料はあるのだろうか?

 そこまで取り留めもなく考えて、そうしてもうひとつの答えを告げていないことを思い出す。

「それと、会うかどうかは、今はお答えできないです。その時になってみないと……」

 きちんと正面から向き合わなければいけないとは思う。

 そう思うけれど、諏訪と会った時にフラッシュバックを起こした私が、犯人の1人と会って起こさないとは限らない。

 もっと強くならないと駄目だと思う。

 答えはそれから見つけるべきだ。

「……そうだな。答えを急ぎ過ぎるのはよくない。瑞姫の言うとおりにもう少し時間をおくべきだな」

 納得した兄上が、了承したとばかりに私の頭を撫でる。

「あの、兄上……」

 これで話は終わったと思った私は切り出す。

「ん?」

「そろそろおろしていただいても……」

 さすがに高校生にもなって、御膝に抱っこというのは恥ずかしいと思います。

「だめ」

「え!? 何故ですかっ!? もう、用事は終わったのでしょう!」

「用事は終わってないよ。実に重要な用事だからね」

「は? どんな用事がまだ……?」

 まだほかにどんな用事があるのだろうか。

「久々に会った妹を堪能する。重要だろう?」

 にっこりと笑った柾兄上が、私の頭に頬擦りする。

「重要ではないと思います、兄上……」

 何故、私を堪能する必要があるのだろうか。

「私の存在意義に関わる重要な用事だよ」

「いえまったく」

 このシスコンぶりをドン引きせずに笑って付き合ってくれるお嫁さんが見つかってくれるだろうか。

 少しばかり遠い目になりながら、私はそう思った。

納期数件と服用する薬の副作用とでダウンしておりました。

時間がかかって申し訳ないです。

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