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相良柾……相良次期当主の長男で、長子である。
個性的過ぎる相良兄妹のまとめ役ということでも知られている。
実際、蘇芳兄上に対しては殴る蹴るの暴行、もとい親愛行動に出る茉莉姉上も菊花姉上も、柾兄上の言葉には素直に従う。
貫禄が違いすぎるからと菊花姉上の言葉だが、私には『蘇芳兄上が残念すぎるから』という副声音が聞こえてしまった。
幼い頃は八雲兄上とまとめて面倒を見てくれていた柾兄上に、私が逆らうような行動を取ることはない。
ひと回りも違えば、相手が大人すぎてどうにも対応に困るのが実情だ。
そうして、今はとある理由で同じ場所にいるということは稀だ。
柾兄上が結婚されて、子供が生まれるまで、私は公の場で柾兄上と一緒にいることができないのだ。
尤も、柾兄上の仕事が忙しすぎて、一緒に居れない理由以前に家の中でも顔を合わせることが滅多にないという寂しさ。
寂しいからといって、構ってほしいとは絶対に言えない。
言ったら最後、仕事を休んで構い倒してくれることだろう。
兄姉をびしっとまとめる長兄は、他の兄姉たち以上に私に甘かった。
私を膝の上に乗せ、非常に上機嫌な柾兄上は、疾風にも近くに座るようにと手招きする。
「伊織君が、こちらへ来たと聞いたから、そろそろ頃合かなと思ってね」
のんびりとした口調で告げる柾兄上の言葉に、私は顔を上げる。
「兄上?」
「うん。この話をするのは誰が適任かを考えていたのだけれど、私が一番適任のようだ」
苦笑を浮かべた兄上に、私はそうだろうと納得してしまう。
姉たちは、自分の感情が一番だ。
勿論、有事には自分の感情を押さえて必要とされることを行うだけの自制心はある。
だがそれ以外の時には、『嫌なことをわざわざしてどうするの!?』という思わず納得してしまいそうになる理論を振りかざして拒否してしまう。
蘇芳兄上も似たようなものだ。
楽しくないからやりたくないの一言で終わりだ。
説明下手なことも手伝って、誰もあえて蘇芳兄上にはそういったことはさせない。
弁が立つ八雲兄上なら、確かにこういう場面で説明をする役を任されることは考えられるが、柾兄上がそれを託すような内容ではないらしい。
信頼はしていても、末の弟や妹に負担をかけることを良しとしない性格なのだ。
矢面に立つのは自分1人でいいと考えてしまうような責任感が強すぎる面がある。
そんな時は、まだ兄の役に立てない自分が悔しくてしようがない。
負担だと思われてしまうくらい、まだまだ力が伴っていないのだと自覚してしまうからだ。
「もうじき4年になるな、あの事件から」
頭を撫でられ、痛ましげに目を眇める兄上はあの時の傷だらけの私の姿を思い浮かべているのだろう。
「その件で、いくつか疑問があるのですが。主に律子様のことで」
「やはりそう来たか」
苦笑した柾兄上が大きく頷く。
「答えられることならば、答えよう。言ってみなさい」
促されて、ほっとする。
本当はあまり聞いてはいけないことだと思うけれど、どうしても気になってしまったことがある。
「1つは、律子様は『押しかけ女房』だと言われてるけれど、そうすると以前にもしかして、斗織様には決まった方がいらっしゃったのではないですか? それから、2つめですが、私が病院に運ばれた時に、律子様が私が死んだら諏訪たちも死になさいと仰ったそうですが、それに免じて本家が諏訪家への手出しを控えたと聞きました。この相良の対応に、私は納得できないのですが、何故、母親が庇うべき子供に死ねと言えて、それを相良が是としたのでしょうか?」
2つ目の対応は、瑞姫さんから聞かされた時に、ものすごく違和感を感じたことだった。
瑞姫さん自身はさほど疑問を抱かなかったようだけれど、私にとっては不思議でしょうがなかった。
母親から死ねと言われて、諏訪が傷つかないと思わなかったのだろうか、律子様は。
そのことが、どれほどの傷になっているのか、気にもかけなかったのだろうか。
母親は、どんな時でも我が子を庇うものだと、私は母を見て思っていた。
蘇芳兄上がとんでもない悪戯をしでかして、御祖父様や父様に怒られそうになった時、母様が必ず間に入って蘇芳兄上を庇っていた。
そうして、蘇芳兄上に何故そんなことをしたのかを説明させて、それから蘇芳兄上が素直に謝罪できる場を作っていた。
それが母親なのだと思っていた。
私が知る母親像と律子様とはあまりにもかけ離れていた。
子供を庇わない母親、逆に罪を責め、追い込む律子様に、私は、詩織様を理想の母親として慕った諏訪の気持ちがある意味自然なことのように思えた。
そういう環境で育ったからこそ、律子様の対応を是として引き下がったのだと聞かされて、納得できなかったのだ。
「傍から見れば、そのように映っただろうね」
「え?」
「伊織君に死になさいと言った律子さんの母親らしからぬ態度に、私たちは彼女を切り捨てたんだよ。交渉相手は、彼女ではない、とね。そもそも、斗織さんかご隠居が交渉相手であって、律子さんは嫁の立場だ。伊織君の母親として表に出るなら、彼女と交渉したかもしれないけれど、律子さんは自分が諏訪の代表のように振る舞った。だから、私たちは律子さんも斗織さんも諏訪本家として認めないと決めた。交渉相手は、ご隠居、ただひとり。彼が動くまで、どれだけでも待つ、とね」
「……は!?」
この話は、どうやら疾風も知らなかったらしい。
目を瞠って、柾兄上を凝視している。
「そう。ご隠居が動かなかったのも、そこだったんだ。根競べをしていたんだよ、実は」
狸爺2匹で腹の探り合いしてたんだよと、苦笑しながら告げる柾兄上に、呆気にとられる。
「伊織君がご両親を見限ってご隠居の所に駆け込んでくれて助かったよ。それでご隠居が動かざるを得ない場面が出来てしまったからね」
「…………あ……」
そのきっかけを作ったのは、瑞姫さんだ。
だけれど、どうして斗織様は律子様を制止しようとはなさらないのだろう。
表面上は仲の良いご夫妻のように見える。
いや、そう装っているように見える、というのが正解だろう。
確かに律子様は斗織様に惚れ込んでいらっしゃる様子が伺えるが、斗織様にはその熱が感じられない。
そんな場面が瑞姫さんの記憶の中で何度かあった。
「話を最初に戻そうか。律子さんが『押しかけ女房』と言われる理由だね。律子さんには、双子のようにそっくりと言われる従姉妹がいた。その方が、斗織さんの婚約者だったんだ」
穏やかに、冷静に、そう努めている様子で柾兄上が切り出した。
「斗織さんと彼女は東雲学園に通っていた先輩と後輩だった。一方、律子さんは別の学園に通われていて、面識は一切なかった。律子さんが斗織さんと初めて会ったのが、彼女との婚約発表のパーティだったと聞いている。そのパーティで律子さんは斗織さんにひと目惚れ。事あるごと、それこそ、彼らのデートにまでくっついていく始末で、一部では問題になったそうだ。婚約発表した者たちの仲を裂くような真似をするのは、褒められたことではないからね。しかも、その片方が血縁者だ」
「一部ではなく、社交界においてと言った方がよいように思えますが……」
恋は盲目とよく言うが、それでもやっていいことと悪いことがあるような気がする。
それとも、やはり綺麗ごとを言ってはいけない世界なのだろうか。
恋愛なんてよくわからない。
「ところが、結婚を目前にして、婚約者の女性は突然、自殺を図った。はっきりした理由は伝えられなかったが、『斗織さんに申し訳が立たない』という遺書があったそうだ。そうして、彼女のおなかには赤ちゃんがいたそうだ。DNA鑑定の結果、その子は斗織さんの子供だったそうだ。つまり、伊織君のお兄さんだね。その子が生まれていれば、伊織君は次男だったということだ」
その言葉に、私は引っ掛かる。
言葉通りに受け止めれば、確かにそうなのだけれど、何故か気になる。
「柾様、斗織様に申し訳が立たないという遺書が残されていたとすれば、その方はもしかして……」
青ざめた表情で疾風が問う。
「言っただろう、疾風。はっきりとした理由は伝えられていない。疾風が想像していることが本当の理由だとしても、故人の名誉のために口にしてはいけない。一番悔しかったのは、彼女なのだから」
「……犯人は律子様だという噂は立たなかったのですか、兄上?」
婚約、及び結婚を破棄させるには、斗織様ではなく婚約者の方に瑕疵があったとしなければ、大手を振って律子様が嫁ぐことなどできないだろう。
その瑕疵が故意に作られたとして、その方が自ら死を選ばれるような屈辱的な方法を考え付くのは、やはり女性だろう。
そうなれば、疑いが持たれるのは律子様をおいて他にいないと、思われる可能性は高い。
「当時、律子さんは語学留学をなさっていたそうだ」
「それって、2人の邪魔をするなという理由で飛ばされていたとか?」
眉根を寄せて、疾風が呟く。
「メール一本ですべてが行える時代ですよ、今は。それこそ、海外なら証拠隠滅は持って来いじゃないですか。裏サイトの掲示板に書き込むとか、捨アドで指示を出すとか、楽に行えますよね」
瑞姫さんが持つ知識から、ふとそれを思いついて口にすれば、疾風が激しく慄いた。
「女って怖い……」
「もちろん、警察もそのことを基本通りに疑って、マニュアル通りに調べたそうだ。そして、何も出なかった」
やけに含みのある言い方だ。
つまり、証拠が出なかったので、疑わしきは罰せずという理論の下、立件できなかったと考えていらっしゃるのだろうか。
「留学先から戻ってこられた律子さんは、従姉妹の変わり果てた姿に号泣したそうだ。そのあと、ふさぎ込んでいた斗織さんを慰めるという名目で留学を打ち切り、そうしてそのまま諏訪家の嫁に納まったというのが『押しかけ女房』の真相だ」
兄上の説明を聞きながら、私は最悪のことを想像する。
もし、斗織様が、婚約者を死に追いやった犯人が律子様だと想定していたら、どうなるのだろう。
そうして今でも婚約者を想っているならば、諏訪がひとりっ子だという理由に裏付けが出来てしまう。
諏訪家は最低でも子供が2人必要だ。
企業を継ぐ者と、神職に就く者と、だ。
いやだ。
これ以上の詮索は必要ない。
震え出す身体を押さえようと、両手で肩を握りしめる。
「瑞姫、この件については、これ以上、何も考えなくていい。おまえが生まれる前のことだ。どうあがいても何もできない。そうだろう? 相良であるおまえが、他家のことを気に留める必要はどこにもない。もう、なるようにしかならないのだから」
宥めるように背中を軽く叩いてあやされ、そう告げられる。
こうなることを見越して、膝の上に乗せたのだろうか、この人は。
「瑞姫? 柾様?」
私が想像したことは、疾風には想像できないことだったようだ。
不思議そうに首を傾げる疾風に、私はホッとする。
「さて。では、別の話をしようか」
そう切り出した柾兄上の言葉に、私は深呼吸をした。