乙女の世界へ
少女は湖面を眺めていた。
水面には真剣な表情をした自分の顔と、小魚が数匹見えるだけ。周囲にも誰もおらず、鳥の鳴き声だけが響き渡っている。
少女の容姿は金髪の長い髪に、青い瞳。着ているのは黒いワンピースに白いエプロンといったメイド服。普段城に仕える彼女がこんな湖にやってきたのにはもちろんわけがあった。
今からすることは、自分にとって“大事なもの”を失うことになる。しかしこの大きな代価を“支払う”ことによって、昔失った別の“大事なもの”を取り戻せる――。
深呼吸を繰り返しながら、少女は水面を三回擦った。
「ひっひっひ、お久しぶりだな、お嬢ちゃん」
どこからともなく声が聞こえてくる。陽気な男の声だ。
「ええ、本当にお久しぶりです。久しぶりすぎて顔も忘れてしまい、どうしようかと思いました」
「かぁ! そいつぁひでえな。俺っちはお嬢ちゃんのことをオシメしてたころから知っているってのによ」
「顔を忘れられたくないのなら、ちょくちょくお城のほうに顔を出してくれればよろしいのに」
そこまで言って、ようやく声の主が水面から顔を出した。
それは大型の魚だった。体長は虎一頭分くらい、水色と銀の斑模様。そいつが現れると、周りの小魚たちは一目散にそいつから離れていった。
「生憎だがな、俺っちはどうもあそこの面々とは折り合いが悪いみたいなんだ。だからそういったのは勘弁してくれ。ところで、今日は一体何の用だ?」
口をパクパクと開閉させながら、大魚は上手に喋る。
「これを見てください」
少女は右手の薬指から指輪を外して湖面に向けた。
「ほう、それは? 随分と大切にしているみたいじゃねぇか」
「母の形見です」
少女は物悲しそうに言う。
「そっか、おふくろさん亡くなっちまったのか。道理で最近見かけねぇと思ったぜ」
「お願いがあります。これを代価に、ある人を連れてきてください」
「ふぅん、なるほどね」
エラを左右に捻りながら、大魚は少女を見据えた。
「で、本当にいいのか? その指輪、大切なものじゃないのか?」
「それは……」
少女は一瞬俯く。
「誰かに頼まれたのか?」
「違います!」
「ふぅん……ま、俺っちはいいんだぜ。それ相応の代価さえ払ってくれればな」
少女の顔がますます険しくなる。
彼女自身、ここに来ることに戸惑いはあった。誰の相談もなしに来て、やることはひとつ間違えば亡くなった母を冒涜する行為ではないのか――。
しかしそこまで考えると、ふと母が生前に残した言葉が脳裏をよぎる。
「あなたは、あなたの信じた道を生きなさい。後悔する道かもしれないけど、その道はきっとあなたにとって新しい可能性の道を作り出してくれるわ」
いつの間にかその言葉を、彼女自身が口に出していた。
「懐かしいフレーズだな」
大魚が答えた。
「母がよく言っていました。一度は後悔する道を選んだとしても、過去には決して戻れない。だからこそ、そうやって次の可能性を考えたほうが楽しいって……」
「あー、知ってるよ。それはな、実は俺っちの相棒の言葉なんだよ」
「えっ?」
初耳だった。てっきり母自身の口癖だと少女は思っていた。
「ホントに、あの馬鹿は今頃何してんだか……」
「相棒って、まさか……」
「おっと、話が逸れちまったな。それじゃ、契約成立ってことでいいな」
「え、まだ誰を連れてくるか申して……」
「んなもん分かるよ。“姫様”だろ?」
少女は息を呑んだ。
「すごいです。まさか当ててしまうなんて」
「あたぼうよ。俺っちは二世界を繋ぐ渡し守、カーロン様だぜ」
「それならば話は早いです。世界の渡し守カーロンよ、我が願いを聞きなさい……」
「あいよ」
少女は指輪を湖に落とし、大魚はそれを勢いよく口に咥えた。
大魚はぐりんと身体の向きを変え、湖の中心部へと泳いでいった。
「お願いです……どうか、女王様の……そして私にとっても一番大切なお方を……取り戻してください」
少女の呟きは、大魚には聞こえなかった。
「しかし、また面倒臭いことになっちまったな。下手なことをしたら“あの女”がごちゃごちゃうるさいだろうし、どうにかしてあの女に会わないように連れてこないと……となると“あそこ”に繋ぐしかないか……」
大魚の呟きもまた、少女に聞こえることはなかった。
「ったく、マジで最悪な日だな……」
下校途中降り出した雨に身体を湿らせながら、龍華は自宅にたどり着いた。
そしてある程度身体を拭くと、龍華はすぐさまパソコンを立ち上げた。
「今日は疲れたし、とりあえず実況プレイを録画したら寝ようっと」
龍華は着々と実況プレイの準備を始める。
時雨との追いかけっこが原因で、今日は遅刻をしてしまった。また授業中もそのせいで疲れが取れず、度々寝てしまう場面が何度かあった。
若干ローテンション気味になりながらも、龍華は実況を始めようとした。
「さてっと、えー、どうも『姫神』……」
ガラッ、ドゴォォォン!
外から聞こえる突然の雷鳴。
それと同時に龍華の視界が真っ黒になる。
「うわ、停電かよ。ホントに今日はついていな……」
――その時だった。
一度は消えたはずのパソコンの画面が、ぼわっと弱々しく光りだした。
そして画面がふつふつと点滅を繰り返し、光は徐々に青みを帯びていく。
しかし、龍華にはそれを不思議に思う余裕がなかった。
その時――。
彼は既に意識を失っていた――。
――ここは?
彼はその空間を漂っていた。
これを例えるなら、宇宙空間か……
いや、違う。
宇宙空間ならこんな強い“流れ”は存在しない。
ふわりと浮き沈みを繰り返し、ある一定の方向に強く流される、そんな感覚――。
――そうか。
これは河だ。
いや、違う……のか?
河に流されているのなら、こんなに息苦しくないはずがない。
少年はふと目を開ける。
そこに広がるのは暗い空間。そうとしかいえなかった。そんな無の空間を少年は漂っていた。
宇宙でも河でもなければ、ここは一体……
「よう、迎えに来てやったぜ」
突然、どこからともなく声が聞こえてきた。
同時に、大きな魚が彼の目の前にやってくる。明らかに声はその魚が発していた。
「なんだよ、お前は……」
朦朧とする意識の中で、彼は喋る魚の存在をすんなりと受け止めてしまった。
「だから言っただろ。迎えだよ、む・か・え!」
「意味分かんねぇっての。てかお前誰だよ?」
魚はふぅっとため息を吐く。
「初めまして。俺っちの名前はカーロン。世界と世界を繋ぐ道の案内人……いや、案内魚か」
――カーロン? 案内魚? 世界と世界を繋ぐ道?
抱かずにはいられない疑問が少年の脳裏をよぎる。
そして、一番手っ取り早い答えにたどり着く。
――そうか、これは夢なんだ。
「んじゃ、俺っちの背中に乗りな」
尾ひれを動かしながら魚はゆっくりと少年に近付く。
少年はそそっと彼の背中に乗ると、ゆっくりしがみついた。
「どこに行く気だよ?」
「えー、こほん。これからご案内しますのは、君たちが言うところの剣と魔法の世界ってヤツです」
「へぇ」
急に丁寧口調に変わった魚に対して、曖昧な口調で返事をする少年。
しかし彼の心の奥底では、その話に高揚している部分もあった。
「あー、やっぱこういう喋り方は苦手だから元に戻すぜ。えっと、御伽噺とか、お前さんたちくらいの年代ならロールプレイングゲームとかで見たことあるだろ? 中世ヨーロッパ風味の、あんな感じの世界だ」
「てことは戦争とか魔物とか、そういう戦いが日々繰り広げられていたりするんだ?」
魚は首、いやエラを横に振った。
「うんにゃ。いないこともないが、今はそうでもない。十年ほど前に魔女戦争という世界最大級の戦争が起こったが、それが終結してからは魔物も消えて、みんな平和に暮らしているぜ」
「なんだ、そうなのか」
少し肩透かしを食らった気分だったが、気を取り直して魚の方を向いた。
「ちなみに、だ。お前さんがこれから行くのは、平和と命をこよなく愛する水の都、フルーウェル王国だ。剣をカンカンバチバチさせているような戦争を期待してもまずムリだからな」
「分かってるよ、そのくらい」
「分かってるならオーケー。それでは、フルーウェル王国へ、一名様ごあんな~い」
少年はゆっくりと瞳を閉じた。
――目が覚めたら、きっとまたいつもの日常に戻っているだろう。
また起きて、
霧華と喧嘩をして、
海斗と他愛もない話をして、
夏野の口うるさい小言を聞いて、
片桐先輩に追い掛け回されて、
帰ったら実況プレイ――。
至って“当たり前”の日常。
そんな日常は嫌いじゃないけど、もしこの夢の続きを見られるのならば、是非見てみたい。たとえ、その“当たり前”が失われようとも――。
「……ん、んん」
龍華はそっと瞼に力を入れる。なかなか開かない眼球に、ゆっくりと視界を取り戻させていく。
――えっ?
そう思わずにいられない違和感が、龍華の目に映し出された。
いつもならアパートの鼠色の天井と蛍光灯が目に映るはずだが、いつの間にか真っ白な天井と豪華絢爛なヴィクトリア調のシャンデリアに変わっている。
いや、それだけではない。ゆっくりと周囲を見渡すと、部屋の中が椅子から鏡、家具類全般に至るまで中世ヨーロッパ風のもので揃えられており、部屋の大きさもアパートの自分の部屋より広くなっている。
まだ、夢を見ているのかな……龍華がそう思ったとき、
「お目覚めになられましたか」
突然彼の耳に届く、知らない声。
龍華が横を向くと、これまた見たこともない少女がじっと見つめていた。その格好もまた珍妙といえば珍妙だった。輝くような長い金色の髪に青い瞳。そして黒と白のメイド服といった格好に目を奪われる。
「君は、一体……」
龍華が上体を起こした途端、少女ががばっと彼に抱きついてきた。
「お、お会いしとうございました……」
「ちょ、ちょっと!」
抱きつかれた感覚で、ようやく龍華はこの光景が夢でないことに気がつく。
――じゃあ、ここは?
「ねぇ、君……」
「あ、す、すみません――」
少女も冷静さを取り戻したのか、赤面しながら彼から離れ、コホンと咳払いをする。
「うれしいです。こうしてあなた様が戻ってこられて――」
「戻って……こられた?」
「何も覚えていらっしゃらないのですね。まぁ無理もありませんよね」
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少女が何を言っているのか、龍華にはさっぱりだった。
何度も心を落ち着けようとするが、混乱を止めることができない。
「一体、ここは……?」
「ここはフルーウェル王国。あなた様の故郷ですよ、“姫様”!」
――オレの故郷? フルーウェル王国? このメイドは一体何を言っているんだ……?
いや、それよりももっと気になる単語が聞こえた気がした。
「あのさ、今“姫様”って」
「はい、あなた様のことですよ。リュウカ姫さま」
数十秒の硬直――。
そして、ふと我に返った龍華は一気に目を丸くする。
「オレが、オレが“姫様”だってええええぇぇぇぇぇえええええ!?」
龍華の叫び声が、城内に響き渡った。