姫様が生まれた日
真夜中であるにも関わらず、王城内の人間は誰一人として寝ようとしなかった。
夜通しのパーティが開かれたわけではない。その証拠に皆俯きながら黙りこんでいる。
中にはあくびをしていたり、目を閉じかけている者たちもいる。しかしその気持ちを必死で堪えようと何度も頬を叩いて目を覚まそうとしている。
「まだかしら……」
「非常に難産だと聞きました。フロウ女王様は大丈夫かしら……」
城内の侍女たちは皆不安になっていた。
女王の出産に立会いたい気持ちは山々だが、人手が多ければ良いという問題でもなく、そういったことに疎い者たちは寝室の前でひたすら安産を祈ることしかできなかった。
「落ち着きましょう、皆さん。あなたたちがオロオロしてどうするのですか? 今闘っているのは女王陛下なのですよ」
廊下の奥から一人の女性がやってきた。
「これはミスト様!」
「す、すみません!」
「落ち着かない気持ちは分かります。しかし姉上はこれしきのことで音を挙げる弱虫ではありません」
そういって侍女たちをたしなめるのは、王国内でも珍しい黒い髪と瞳をした女性。身に纏っているドレスもまた黒く、ところどころに烏の羽飾りが付いている。まだ二十歳になったばかりの彼女だが、その凛とした態度には年配の侍女たちも一目置いていた。
ミストはフルーウェル王国の第二皇女として生まれ、第一皇女のフロウとは双子の姉妹である。今は第一皇女であるフロウが女王として政治を行い、ミストは主に補佐をして、いずれは他国に嫁ぐものだと思われていた。
フルーウェル王国は水の都と呼ばれている。周囲を小高い山に囲まれており、その頂上から見下ろせば間違いなく大きな湖が目に映る。その湖を中心として北に王城、南側に城下町、そして湖の中心には大きな神殿が聳え立っている。
“全ての水はここから生まれ、ここへ戻ってくる”と言い伝えられ、この国にとって水とは黄金にも勝る財産なのだ。湖に溜まる水は万病に効くといわれ、この水を求めて世界中からやってくる旅人も少なくない。またこの水を発端とした戦争も幾度となく行われてきた。
水も清らかならば人々の心も清らか。この国では生命というものを何よりも重んじる。北に死する者あれば共に嘆き悲しみ、南に誕生する者あれば共に喜びを分かち合う。それが女王陛下の出産ならば、なおさら国民は期待と不安で一杯になった。
――おぎゃあ!
甲高い泣き声が城内に響き渡った。
同時に、奥から出産の手伝いをしていた侍女が走ってきた。
「皆さん、女王様が無事ご出産なされました!」
それまで静まり返っていた城内が一気に歓声に包まれた。
ある者は涙を流し、ある者は抱き合い、またある者は腰が抜けて笑う気力さえも失い―
―世界中の幸せを結集したような光景がそこに広がっていた。
「み、ミスト様……」
ミストにすがり付いてくる侍女は、声にならない声を出しながらへなへなとその場に座り込んだ。傍らには三歳になる彼女の娘が呆然と立っていた。
「ひめさま、うまれたの?」
「ええ、そうですよ」
答えられる状態じゃない母親に代わってミストが答えた。
「おかあさん、わたしひめさま見たい!」
女の子ははしゃぎながらうれしそうに飛び跳ねた。
「あ、アイリス、いけません! そんな大それたことを……」
「構いませんよ。では一緒にいきましょうか」
ミストは硬かった表情を和らげた。
「しかし、ミスト様……」
「上の者には私が頼んでおきます。アイリスはいずれ姫にお仕えになられ、姫とも一番歳が近いので良き遊び相手にもなるでしょう。ならば早いうちから姫のお顔を拝見したほうがよろしいと思います」
「そのようなことを言っていただけるとは……光栄です。アイリス、いってらっしゃい」
「うん!」
アイリスは意気揚々と階段を上がっていった。
「こら、アイリス! ミスト様申し訳ございません、娘がとんだご迷惑を……」
「よろしいのですよ。子どもは元気が一番です」
ミストはにっこりと笑顔で返した。
「本当にありがとうございます」
普段冷たいイメージを持っているミストの笑顔が、侍女たちには素直に嬉しく感じられた。
そんな彼女に別の思惑があるということを、誰も気が付くはずがなかった。
「女王様おめでとうございます。非常に苦しい出産を本当に頑張られて……」
「見てください、玉のように可愛らしいとはこのことですわ。目元が女王陛下そっくりで、陛下がお生まれになられた時を思い出します」
侍女が抱きかかえた赤ん坊を見ると、フロウは疲れきった瞳に輝きを取り戻した。
長時間に渡る難産に耐えた末生まれた赤ん坊が可愛くないはずがなかった。フロウは三年前アイリスの出産に立ち会ったことがあったが、そのときのアイリスと比較して随分小柄に見えた。先ほどまで嵐のように元気良く泣き叫んだ産声も、今は泣きつかれてスヤスヤと眠っていた。
「本当に、うれしい……」
もう少し我が子の顔を見ていようと思った矢先、部屋の戸をノックする音が聞こえた。
「失礼します。ミストです。アイリスも一緒です」
「お入りなさい。他の皆様方は申し訳ありませんが、しばらく出ていっていただけますか」
「はい、かしこまりました」
産婆や次女たちはお辞儀をして退室していく。部屋に残ったのはミストとアイリス、そしてフロウと赤ん坊だけになった。
「ひめさま、ひめさま!」
アイリスははしゃぎながら近付いて、赤ん坊の顔を覗き込んだ。
「アイリス、静かにしなさい。姫がびっくりしてしまいます」
「申し訳ございません。私の独断でアイリスを連れてきたのですが、お邪魔でしたか」
「いいえ、そんなことはないわ。それよりもミスト、そんなにかしこまらなくてもいいからもう少し楽になりなさい。あなたもさぞ辛いでしょう」
その言葉を聞くと、ミストは肩の力を抜いてふっとため息をついた。
「ああ、本当に疲れたわ。誰かさんのせいでこっちは不安で仕方がなかったんだからね!」
ミストの言葉遣いが途端に緩くなった。先ほどまでの堅苦しい雰囲気が嘘のようだ。
「それはそれは、大変ご心配をおかけいたしました」
「ま、あんたもお疲れ様。しかしあれだね。赤ん坊ってやっぱり可愛いね」
「ええ。目元なんか本当にあの人にそっくりです」
「あの人、ね……」
ミストは赤ん坊の傍へ近寄った。
「フロウはどうなの? あいつがいなくなって寂しくない?」
「今更何を。ご心配には及ばず、私は大丈夫です」
「本当に?」
フロウは俯いて黙った。ミストにはそれが本音を押し殺しているのだとすぐに理解できた。
「そっか……」
ミストは赤ん坊を抱き上げた。泣き疲れたのかすやすやと気持ち良さそうに寝息を立てている。
ほんの数時間前まで大きかったフロウの腹が一気に萎み、代わりにこの小さな生命がいつの間にか存在してしまった。つくづく出産とは不思議なものだとミストは感じた。
――ねえ、生まれたよ。あんたの子。すっごく可愛くて、あんたそっくりだよ。
「ひまさま、だっこされてる」
アイリスはこの雰囲気を気にすることもなく無邪気にはしゃいでいる。
本来ならばこの場に真っ先にいなければならない人物が何故いないのだろうか。ミストにはそれが理解できずにいた。
――分かってる。あんたは帰らなきゃならない場所に帰っただけなんだよね。
頭の中で何度も納得しようとするが、どうしてもできない。
そのもどかしさが彼女の中に、ひとつの考えを生み出していった。
「ねえ、フロウ」
「何かしら、ミスト」
「今から我侭を言うから、黙って聞いて欲しいの」
それは彼女の最初で最後の我侭だった――。