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夢幻の瞳 現の涙  作者: 橘 伊津姫
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8章 夢魔・神の御技

旅先で出会った少年の頼みで、病に取り付かれた家族を救いに行くアイヒナ。

しかし、そこで起こった出来事は、彼女の胸に暗い影を落とす。

 アイヒナとトウージュ、闇姫の三人は、王都ハディースの城門の前で検問の順番を待っていた。

 数日前に降り出した季節外れの雨は、今はジメジメとした霧雨に変わっており、灰色の毛織のマントに身を包んだ人々をさらに憂鬱な気分にしていた。いくら厚手のマントをまとっていても、細かく吹き付ける霧雨は防ぎようがなく、じっとりと身体中が湿ってくる。人の列が緩やかに動き出してから、小一時間も経っただろうか。二人の予想した通り、闇姫の退屈の虫が暴れ始めた。

「いい加減に飽きたぞ、吾は! まだ中へ入れんのか!」

 やっぱりという顔をして、アイヒナとトウージュはため息をついた。

「落ち着けよ、闇姫。ほら、子供がお前の事見て泣きそうになってるぞ」

「大体お前、引っ込んでろっていう人の忠告を聞かずに出てきたんだ。文句言われる筋合いはない」

 ガルルルルル──と喉の奥でうなる闇姫を、二人がかりでなだめる。

 このところ立ち寄った町や村で小物の夢魔にしかありつけなかった闇姫は、いたくご機嫌ナナメだった。

「主殿は意地悪じゃ。城壁の中から、夢魔バフォナの匂いがプンプンしておるのに、こんな所で我慢せよと言われる。吾をいじめて楽しんでおるのだろう」

 闇姫が不満気に漏らした一言に、アイヒナとトウージュの顔が強張った。

「王都の中からか?」

 かすれた声でトウージュが闇姫に尋ねる。

「吾の言葉を疑うのか? 吾はドラムーナ。夢魔の匂いを間違えたりするものか」

 噛み付きそうな勢いで闇姫が反論した。

 アイヒナが何か言いたそうな表情でトウージュを見やったが、彼は静かに首を振った。

「いや。今はまだ、俺の事を誰にも知られたくない」

 確かにトウージュが身分を明かせば、順番を待つことなく王都へ入れるだろう。しかし衛兵やその他の人間にいらぬ詮索をされるだろうし、不必要な厄介事に巻き込まれる可能性がある。やはり大人しくしていたほうが得策というものだ。

 ジリジリと焦る気持ちを抑えて検問を抜けたのは、それから更に一時間を過ぎた頃だった。

 城門はハディースの四地区に一箇所ずつ設けられており、アイヒナ達が入った街は南のタリスだ。四地区の中で唯一、女性の統治官が治める街でハディースでもっとも清潔な街として有名だった。

 ようやく街へ入った闇姫は、濡れた毛織のマントと湿った服についての感想を延々と語り、とにかく一刻も早く乾いた場所へ移動したがったが、他の二人にも異存があるはずもない。とにかく着替えをしたいと手ごろな宿屋を求めて通りを見回したアイヒナは、肩がフッと軽くなるのを感じた。

「え?」

 追い抜き様に紐を切られ、背負っていたリュートを袋ごと奪われたのだ。アイヒナがそれに気が付くのと、トウージュと闇姫が駆け出したのが同時だった。出遅れたアイヒナが二人を追いかけて路地を曲がると、濡れた地面に押さえつけられた犯人と、その上に馬乗りになった闇姫。荷物を拾い上げるトウージュが見えた。元から機嫌の良くない闇姫にいたっては、文字通り牙をむき出しにしている。

 差し出された袋を受け取り、アイヒナは犯人に目をやった。歯を食いしばり、もがいているのは十二・三歳の少年だ。その横にかがみこみ静かに声をかけた。

「なあ、教えてくれまいか。この袋の中身を知っていたのか?」

 側で聞いているトウージュが拍子抜けするほど、淡々とした口調と内容だった。

「どうして財布じゃなく、この袋を狙ったんだ? かさばるし、第一、持ちにくいだろう」

 少年は上目遣いに彼女を見ていたが、口唇を舌で湿すと、やっと口を開いた。

「知ってた。リュートだろ、それ」

 ぶっきらぼうに答える少年の態度に、闇姫の眉がピクリと動く。

「っこの小童こわっぱ──!」

 更に強く押さえ込もうとする闇姫に、アイヒナは静止をかける。

「やめろ、闇姫。話が出来なくなる。坊や、どうしてこんな物を盗ろうと思ったんだ?」

「だってそれ、エルキリュース神殿の紋章が縫い付けてある」

 少年にとって彼女のリュートは、金貨の詰まった財布よりも重要な意味があるらしかった。

 闇姫をどかせると、少年を助け起こしながらトウージュが話しかける。

「おい坊主。なんでリュートが欲しかったんだ?」

「坊主じゃねえやい! おいらにはウェインって、ちゃんとした名前があるんだ!」

 自由になった途端、ウェインと名乗った少年は強気を取り戻したようだ。

「分かったよ、ウェイン。質問に答えてくれないか」

 ほんの一瞬ためらってから、ウェインは口を開いた。

「おいらの姉ちゃんが、一週間位前に『眠り病』にかかったんだ。そん時、父ちゃんがウィルカの領主様のお屋敷にお医者様がいるって噂を聞いてきて。姉ちゃんを荷馬車に乗っけて、おいらと二人で連れてったんだ」

 話しているうちに、気持ちが昂ぶってきたのだろう。涙ぐんでいる。

「キレイな女の人が出てきて、姉ちゃんの事を治してくれるって。でも、治してるところを絶対に見ちゃ駄目だって言われてたんだ。けどおいら、姉ちゃんの事が心配で。だって、エルキリュースの神殿にも行ったんだ。神殿の女の人達がリュートを弾いて祈ってくれたけど、姉ちゃん、目ぇ覚まさなかったし……」

 息と一緒に涙を飲み込んでから、ウェインは話を続けた。

「だけど、おいら見たんだ! あんな奴、お医者じゃねえ! 姉ちゃんの口の中に、変なヌルヌルした虫みたいなのを入れやがった。あんなの薬なもんか! 確かに姉ちゃんの目は覚めたけど、今の姉ちゃんは姉ちゃんじゃない!!」

 叫ぶように語り終えたウェインは、とうとう泣き出してしまった。

「だ、だから、おいら──。エルキリュースの紋の入ったリュートなら、ね、姉ちゃんの中の、変な奴を──た、退治できるっておも、思って──」

 言葉が続かない。言葉の代わりに、想いのこもった涙が溢れる。

 ウェインの頭に手を置くと、トウージュは髪をくしゃくしゃと掻き混ぜた。

「坊主、それならそうと、ちゃんと説明すれば良かったんだ。盗人のような真似をするから、話がこじれる」

 闇姫がため息をついてそう言った。

「ぼ、坊主じゃねえやい」

 精一杯の強がりを言うウェインに、優しい笑みを見せながら、アイヒナが口を開いた。

「ウェイン。君の話は良く分かった。だが先程も闇姫が言ったとおり、初めからちゃんと話をしてくれていれば、私たちも手荒な事はしなかった。第一、このリュートは神聖魔法が掛かっていて、私でなければ音が出ない。だから君が持ち帰っても何の役にも立たなかったんだ」

 ウェインはがっかりしたようにうつむき、ポツリと言った。

「……ごめんなさい。お願いします。姉ちゃんを助けて」

「君の家へ、案内してくれるかい?」

 降り続ける霧雨の中、三人はウェインに導かれて歩いていく。少年の横を並んで歩きながら、アイヒナは複雑な表情で口を開いた。知らせるのは気が重い。しかし、伝えておかねばならない事だった。

「出来る限りの事はすると約束しよう。必ず、君のお姉さんに憑いているモノは退治する。でも、私にも手出しする事の出来ない領域もあるんだ。君の話から察するに、どうやらお姉さんは夢魔バフォナの『種』を飲まされているらしい。定着が進んでいれば、お姉さんとの融合を完全に解く事は難しいだろう。ウェイン。本当はこんな事を言いたくはない。しかし、最悪の事態も覚悟していて欲しい」

 ウェインはうなずいた後、元気に付け足した。

「だけど、大丈夫だと思う。姉ちゃん、とっても運がいいんだ。他には何の取り得もないけど、これだけは自慢だって言ってたし」

 明らかに空元気だと判るこの言葉に、残りの面々は口を閉ざす。

「着いたぜ。ここがおいらの家だ」

 石造りのこざっぱりした家が、ウェインの家だった。少年はアイヒナの横を駆け出し、家の中に飛び込む。

「ただいまっ! 父ちゃん、エルキリュース神殿の人を連れて来たぜ! 姉ちゃんを助けてもらうんだ!」

 遅れて家の中を覗き込んだアイヒナは、椅子に腰掛けた父親に事情を説明するウェインを見た。

「お前、まだそんな事を言ってんのか? 気のせいだって、何度も言ったろう」

「本当なんだってば! おいらこの目で見たんだから! あのカーティって女が、姉ちゃんの口に変なモノ入れてんの」

 父親は腕に取りすがっているウェインの手を振り解き、彼の肩をガッチリと掴んだ。

「見ていたのか、お前?」

「何言ってんだよう。見たから言ってんじゃねえか。痛いよ、父ちゃん」

 表情の険しくなった父親の表情におびえながらも、ウェインが告げる。

「あの方の技を盗み見たばかりか、あろうことか神殿の人間まで連れてくるとはな。どこまで愚かなガキなんだろうな」

「え……父ちゃん……?」

「ウェイン!」

「主殿!」

 父親の肩が弾け飛び、無数の触手が現れる。

 アイヒナが戸口から飛び込み、ウェインを抱え込んでかばう。

 それらは同時に起こった出来事だった。

「トウージュ! ウェインを頼む!」

 戸口にいたトウージュにウェインを任せ、アイヒナは異形の姿となってしまった父親と向き合う。

「と、父ちゃん、どうしちゃったんだよ?」

 しゃくりあげるウェインの声に、別の声が答えた。

「さっさとお前にも、我等の種を飲ませておけば良かった。そうすれば、余計な奴を連れてくることもなかったのに」

「姉ちゃん──」

 隣の部屋から姿を現した十五・六歳くらいの娘が、冷たい視線で一同を見回していた。

「トウージュ、ウェインを連れて外へ出ろ」

 二人から目を離さずに発せられたアイヒナの言葉に従がおうとしていたトウージュから、焦りを含んだ返事があった。

「駄目だ。見えない壁があって、外へ出られなくなっている」

「ホホ。逃がすと思うてかい」

 敵意に満ちた娘の声に、アイヒナは歯噛みした。ウェインの目の前で、彼の肉親と闘わなければいけない。出来る事ならそれは避けたかった。

「他の奴を心配している暇はないぞ」

 父親の肩から伸びた触手が、アイヒナの目を狙って伸びてくる。もう迷っている時間はない。

「闇姫!」

 主の呼び声に応えて、肉のムチを弾き飛ばした闇姫は、そのままスルリと彼女の影に溶け込む。

「──ウェイン、目を閉じていろ」

 トウージュの言葉に反して、ウェインは目を閉じる事が出来なかった。体が固まってしまったように動かない。頭が考える事を拒否してしまっている。ただ、壊れたからくり人形のように、同じ言葉だけを繰り返す。

「父ちゃん……姉ちゃん……」

「ホホホ。お前の父も姉も、もうこの世に存在などしていないわ」

 姉だった者が、五指の爪を剣のように伸ばしてアイヒナに斬りかかる。髪をまとめていた布が刃を受けて切れ、長い銀の髪が流れ落ちる。

「お前もすぐに、二人の所に送ってやるよ。ラ・ズーの腕の中へな」

 父だった者が、縦長の瞳でウェインを見る。

 アイヒナは一瞬だけ目を閉じ──硬い声で呼んだ。

「エルキリュース。我が父にして母よ」

 彼女の影の中から、細長い棒状の物がせり上がってくる。黒い、刀身までも黒い一振りの剣。柄頭に輝く紅玉がその姿を際立たせている。

 娘が昆虫の複眼を思わせる両目を細めて、確認するように呟いた。

「黒塗りの長剣──。銀の髪に黄金の瞳。貴様がエルーシャか。御主様の敵。あの方のお心を占める者──」

「ああ、そうだ。お前達の主人を追う者。夢魔を滅する、夢織りだ」

 剣を構え、低い声でアイヒナは告げる。戦わなければ、トウージュとウェインの命もなくなる。

「小賢しい! お前一人で、何が出来ると言うのだ!」

 ダラリと垂れた舌を蠢かせている男の触手が、猛スピードでアイヒナに襲い掛かった。

「一人? これは心外だな」

 軽く振られたかに見えた剣は、その全ての触手を斬り落とす。

「お前達の天敵、ドラムーナの剣だ」

 がああぁぁぁぁっ!!

 神経をやすりで擦り上げるような耳障りな悲鳴が発せられ、トウージュの腕の中のウェインが身をすくませた。

「だが、こっちの人間は凡人ただびとだ!」

 いつの間にか天井に張り付いていた娘の髪が、無数の蛇の如くに広がった。少年を庇い込んだトウージュにチラリと視線を送り、アイヒナは空にヒュヒュンと印を刻む。サアァッと銀の髪が緑色の光に包まれる。

「イシュリーンよ! 御加護あれかし!!」

 その瞬間、二人めがけて伸びていた娘の髪が激しい火花と共に弾かれた。

「お前達の相手はこの私。夢織り(エルーシャ)のアイヒナだ! さあ、こっちは名を与えたぞ。どうする?」

 グルルルと喉の奥で唸っていた父親が、ガチガチと歯を鳴らして答えた。

「良かろう! 俺はグーマナーンだ! お前を相手と認めよう」

 娘が髪を逆立てて答えた。

「御主様より頂いた名はルカス。私もお前を相手と認めたわ」

 二体の異形がアイヒナへ向かって突進してくる。肉のムチを振り立て、残忍に光る爪をかざして。

「ネフティよ! 宿れ刃に!」

 緑の光と赤い光が、瞬きの間に入れ替わる。手にした黒剣の刀身を、灼熱の炎が駆け上がる。

 バフォナ・グーマナーンの触手を灼き斬り、かえす剣でバフォナ・ルカスの顔を斬りつける。炎の残像を引いて、アイヒナの剣が印を切る。

「ケシュよ、枷を我が手に!」

 柄から左手を離し頭上に掲げる、赤く染まった彼女の髪に、藍色の房が現れた。

「き、貴様! 一度に二柱の“力”を使えるのかっ!?」

「私には、お前達のように肉体を変化させる芸当は出来そうにないのでな」

 掲げた左手に生み出された清浄な水の塊を、グーマナーンへと叩きつける。

「そんな水玉なんぞ、飲み干してくれるわ!」

 ガッと裂けた口を開いて、グーマナーンは投げ付けられた水の塊を飲み干そうとする。その頭部を、柔らかく広がった水のベールが包み込んだ。

「な、何ィ!? ッガ、ゴボッ」

 顔面に張り付いた水の膜に呼吸を妨げられ、苦しげに喉元をかきむしるグーマナーンの爪が、近寄ったアイヒナの衣服を引き裂いた。目にも鮮やかな白い肌が現れ、まろやかな双丘が露になる。そのふくらみの間には複雑な色彩に淡く輝く神名の刺青。

 グーマナーンへ向かって突っ込んでいくアイヒナの首に、ルカスの黒髪が絡みつく。

「ぐっ──」

「このままでは済まさん。その首、へし折ってくれる」

 ギリギリと首を締め上げるルカスの髪に抗いながら、アイヒナは黒剣をグーマナーンの胸に埋めた。燃える剣は易々と、男の胸を貫いた。目を見開き、口腔を限界まで広げてグーマナーンは絶叫を上げる。しかし水のベールに包まれた口からは、くぐもった音しか漏れてはこない。

「おのれ!」

「バルメッサよ、天風の鎖を」

 途端に剣から炎が消え、水の膜が四散する。アイヒナの髪がフワリと浮き、銀とは違う白い輝きに彩られる。首に絡みついた黒髪を切り払い、剣先をルカスに向ける。切っ先から放たれた風が、女怪の体を縛る鎖となる。そのまま張り付いていた天井から床に叩きつけられた。

 崩れ落ちたグーマナーン──ウェインの父親──へチラリと視線をやり、ウェインへと視軸を移したルカスが口を開いた。

「ああ、ウェイン。助けて頂戴! この女に殺されてしまうわ!」

 哀れな口調でウェインに懇願する。複眼を思わせる目は、いつの間にか人間のそれに戻っている。

「姉ちゃん──!」

 風の鎖に捕らえられた姉の姿に、トウージュの腕の中でウェインが身じろぎする。

「駄目だ、ウェイン! そこから動くな!」

 アイヒナが制止する間もなく、ウェインはトウージュの腕を振り解き、守護陣から足を踏み出す。

「ウェインッ!!」

 トウージュとアイヒナの叫び声が重なり、集中の途切れた術が消えてしまう。

「ほほほ。そう、ウェイン、いい子ね」

 瞬き一つで異形のそれに戻った眼を細めて笑い、自由を取り戻したルカスがウェインに襲い掛かる。信じられない思いに凍り付いて動けない、弟だった存在に。

 アイヒナが床を蹴る。

 トウージュが腕を伸ばす。

 ルカスの爪がウェインの頬をかすめる。

 ウェインが両手を広げる。

 すべては一瞬の出来事。

 姉弟の視線が一点に集中した。ルカスの胸から生えた、漆黒の切っ先。

 トウージュは無力感に眼を閉じ、アイヒナは悔いのにじむ眼を閉じる事が出来ない。

 ドラムーナの黒剣は、バフォナの命を喰い尽くす。まだ、あどけない少年の目の前で。

「──」

 何かを言いかけたようにルカスが口を開く。しかし、ついに言葉は紡がれる事はなかった。夢魔の命を喰らうドラムーナの剣は、現の肉体に傷を残しはしない。床の上に倒れた二人は、まるで眠っているように穏やかな顔をしている。だが、その生命の灯はとうに消えている。グーマナーンとルカス。そういう名前の存在に変じた時点で。

「父ちゃん──、姉ちゃん──」

 ギクシャクと、二人の許へ歩み寄るウェインに、書ける言葉を誰も持ってはいない。

「嘘だろ? 今朝、おいらとケンカしたじゃないか! 父ちゃん、眼ぇ開けてくれよぉ! 姉ちゃん! 何とか言えよぉぉ!!」

 父親の身体に取りすがるウェインの肩に、トウージュが手を置いた。

「ウェイン……」

「触るな!」

 その手を払いのけ、少年が叫んだ。

「助けてくれって言ったじゃないかっ! 何でだよ! どうしてだよ!? 返せよっ! 父ちゃんと姉ちゃんを返せよ、この人殺し!!」

 憎悪に彩られたウェインの叫びに、アイヒナの手から剣が落ち、自身の影に突き立った。そのまま静かに影の中へ沈み込んでいく。

「──ウェイン、済まない。私には、どうする事も出来なかった……」

 アイヒナの言葉は虚ろに滑っていく。何を言っても時間を戻す術はない。

「お前のせいだ! お前がおいらの父ちゃんと姉ちゃんを殺したんだ! お前だって、化け物じゃないかっ!!」

 その一言が、アイヒナの胸を深々とえぐる。彼女の髪を彩っていた輝きが揺らぎ、静かに消えていく。

「行こう、トウージュ殿。私の存在が、ウェインを苦しめる──」

 口を開きかけたトウージュを促し、まだ霧雨の降り続く表へ出る。隣家の人間に事情を話し、ウェインとその家族だった者達の世話を頼む。必要になるであろう金子を渡してその場を後にした。

「アイヒナ──」

「いい、気にするな。慣れているから。人に恨まれるのも、化け物と呼ばれる事にも。だから頼む。下手な慰めや同情は口にしないでくれ」

 トウージュの考えを見透かしたように、アイヒナは無表情に言った。ぐっと言葉を飲み込むと、トウージュは眼をすがめて空を仰ぎ、ぽつりと言った。

「──宿、探そうか」

 手頃な宿を見つけて湯を使い、乾いた服に着替えて、温かい食事をして、やっと落ち着く。だが、二人の心は冷え切ったままだった。

 食堂のあちこちで交わされる会話は、謎の救い主・カーティと、彼女が旅立った後に亡くなったウィルカの領主・ソキアの事ばかりだ。

「ソキア様も運のない方だ。せっかくカーティ様がおいでになっていたというのに、旅立たれて間もなく亡くなられたそうだ」

「今は細君のターニヤ様がウィルカを取り仕切っていいらっしゃるそうな」

 話は尽きる事がない。砂色の髪の謎の美女・カーティ。その名前は今や『救世主』と同義である。

 トウージュはスパイスの効いた温かいワインをすすりながら、店内の噂話に耳を傾けていたが、向かいに座るアイヒナは虚ろな表情で黙り込んでいる。いつもなら、何かにつけて場を盛り上げてくれる闇姫も、姿を見せようとはしない。沈み込んだ空気だけが、二人の間を埋めていた。カタリ、と椅子を引く音に顔を上げると、アイヒナが立ち上がっていた。

「済まない──。先に休ませてもらうから」

 言葉少なにアイヒナは引き上げていく。その後姿に、トウージュは拒絶された気がした。アイヒナが心に負った傷は計り知れない。トウージュには思いやる事は出来ても、痛みを分かち合う事は出来ない。悔しさで歯を食いしばる。自分の無力をアイヒナは恥じている。だが、何の異能も持たない己は、もっと惨めだ。

『慣れている。人に恨まれる事も、化け物と呼ばれる事にも』

 数々の神意をらせ、その力を具現する奇跡のように美しい姿。しかしそれは、力を持たぬただの人間にとっては異様に映る。

 物思いに沈んでいたトウージュは、向かいの椅子に誰かが腰掛けた音で我に返った。

相伴しょうばんするぞ」

 意外な相手に驚きながら、トウージュが口を開いた。

「闇姫──? 何で? 誰も呼んでないぞ?」

 黒い長髪を無造作に流した黒衣の美女は給仕の運んでいた酒を奪い取ると、更に酒を持ってくるように命じ、テーブルに頬杖をついてトウージュを見た。膨れっ面で給仕はカウンターへ戻っていく。

「吾を低俗な使い魔と一緒にするでない。主殿の影に潜んでおるのは、あくまで吾の意思じゃ。出ようと出るまいと、吾の勝手よ」

 手にしていたジョッキに口をつけると、まるで水のようにカプカプと飲み干す。

「アイヒナはどうした?」

 闇姫の出現で少し心がほぐれる。何ものにも動じないこの『伝説の獣』は、不思議と人の心を惹き付ける。

「主殿は部屋で勤行中だ。亡くなった二人の御魂を、エルキリュースとラ・ズーへ託すためのな」

「そうか」

 ワインを口に運ぶトウージュをジョッキ越しに眺めて、闇姫がおもむろに言葉を発した。

「お前、そろそろ我等から離れた方が良いのではないか?」

 いきなり何を言われたのか理解できないトウージュは、杯を持つ手を止めた。

「一国の身分ある者が共に旅をするには、少々、難のある連れだろう。恐らく、今日のような出来事はこれからも続く。人殺しや化け物と呼ばれる者と一緒にいては、後々差し障りがあるぞ」

 彼と視線を合わせないようにジョッキの中に話しかける闇姫は、らしくなく沈んでいるかに見える。

「俺は──」

 乾いた口を湿すために、一口ワインをすすり言葉を続ける。

「俺は他の人間と比べて、少し特殊な環境で育ってきたから。この世の中には、奇麗事ではどうしようもない事があるのを、身に染みてよく知っている。誰に何と言われようと、成さねばならないことがあるのだと言うことも判っている。アイヒナと闇姫のやっている事は、俺達、何の力も持たない者から見れば異質なのは事実だ。しかし、他の誰にも出来ない事を成している」

 言葉を身内に探す。どうすれば理解してもらえるだろう?

「俺は、あんた達二人に出会えて良かったと思う。『夢織り(エルーシャ)』がアイヒナで、ドラムーナが闇姫くらきで良かったと思う。アイヒナがアイヒナである事が、闇姫が闇姫である事が、俺にはかけがえのない真実だ。たとえ誰がなんと言っても、二人の真実は、俺が知っている」

 束の間、静かな空気が漂う。杯に残った液体を喉に流し込み、深い息を吐いたトウージュの耳に、低い笑い声が響いてきた。

「フフ──。主殿が主殿である事、吾が吾である事、か。吾も思うよ。お前に出会えて良かった。お前がお前である事が真実だ。いかなる肩書きや称号があろうと、真実は変わらぬ」

 肩をすくめて闇姫が笑っている。

「お前、主殿をどのように思う?」

 不意打ちだった。適当な答えを用意する心のゆとりはない。

「あ、いや、い女だと思うし、結構好みだったり──。っと、そんなアレじゃなくて、何て言うんだろう? 守ってやりたいって言うか、一緒にいたいって言うか──」

 しどろもどろに答えるトウージュに、闇姫は優しい瞳で語った。

「トウージュ殿よ。立場があるのも判っているが、あえて頼む。主殿を信じてやってくれ。まだ主殿が語っていない事も多い。だが、何があってもトウージュ殿を裏切るような真似だけはしない。だから、頼む」

 主殿を信じてやってくれ。普段からは想像も出来ない闇姫の言動に、トウージュも心から答えた。

「俺のすべてにかけて、アイヒナを信じると約束しよう」


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