7章 王都 ハディース
旅の薬師・カーティ。彼女は巧みな話術と病を癒す術で、街の権力者に取り入っていた。
一方では病を癒す奇跡の救世主。しかし、もう一方の顔は……。
その日、アイナセリョースはいつものように国王名代として謁見の間で朝議に参加していた。病がちな国王は、美しい王妃の才能を正確に見抜いていて、瑰国の共同統治者として声明を発していた。が、その異例の措置に、王宮内は蜂の巣をつついたような騒ぎになったのも事実である。
もう一つの玉座の空白を痛いほど意識しながら、アイナセリョースは日々の責務を行っていく。訴状の内容を吟味し、重臣達の言葉に耳を傾け、的確な判断を下していく。
彼女を侮る心無い言葉や、視線に含まれる棘にも、もう慣れた。
全ての訴状と報告をさばき、妙に張り詰めた空気の中、朝議が終了する。その内容を伝えるために、アイナセリョースは王の寝室へと足を向けた。コルウィンが病に倒れてから、国王夫妻の寝室は別々になっている。中庭に面した珠春宮の中でも一番日当たりの良い一室が、現在の国王の寝室だ。
途中で出会った侍女から薬湯と季節の花の載った盆を受け取り、先を急ごうとした彼女の背中に声がかかった。
「王妃殿下」
振り向いた先にいたのは、羊皮紙の束を抱えた宰相のリュフォンだった。
「まあ、宰相閣下」
「これから陛下の御寝所へ?」
「ええ。朝議のご報告と、お薬をお届けに」
リュフォンは王妃の持つ盆へと目をやった。
「そのような事は侍女にお任せになればよろしいのに」
臣の中には、このような王妃の振る舞いに眉をしかめる者もいる。曰く、高貴な身分の者のすることではない。出自が卑しいので、自ら侍女のような真似をする、と──。
そんな宰相の言葉に、アイナセリョースは笑って見せた。
「どれほど生まれが貴くとも、大切な方の看病は自分でやりたいと思うものですわ。違いまして?」
「御意にございます」
リュフォンは同意しながら、羊皮紙の陰で指を立てて見せた。それを見た王妃は明るく提案した。
「あら、わたくしとした事が。無駄話で宰相閣下をお引止めしてしまいましたわ。お急ぎだったのでございましょう? よろしければ、ご一緒に陛下の御寝所へ参りましょうか。そうすれば、陛下への御用も一度で済みますし、陛下への負担も少なくて済みますわ」
「お気遣い、ありがとうございます。喜んでご一緒させていただきます」
二人は並んで国王の寝室へ向かった。部屋の中へ入りドアをピッタリと閉めると、アイナセリョースは国王に声をかける。
「陛下、お加減はいかがでございますか?」
ベッドに半身を起こして本を読んでいたコルウィンは、まぶたの上から目を押しながら答えた。
「まあまあかな。リュフォン、ご苦労だな」
「陛下。お休みのところ申し訳ございません。トウージュ王弟殿下より、書状が届いております」
廊下でリュフォンがアイナセリョースに見せた合図は、隠密裏の書状が届いたというサインだった。王権が安定しているとはいいがたい現在、廊下などでうかつに大事な話は出来ない。貴族たちの放った密偵がどこかで耳をそばだてているのは必至だからだ。
差し出された書状に目を通しながら、病床の国王は呟いた。
「思ったより早かったな。内容が内容なだけに、もう少し時間が掛かるかと思ったのだが」
読み終えると手紙をアイナセリョースに渡し、代わりに薬湯のカップを受け取る。
「まあ。偶然とはいえ、幸運な事ですわね」
王妃の感想にコルウィンもうなずく。
書状の内容は、運良くエルキリュース神殿の巫女「夢織り」と同行する事が出来た事。詳しくは書けないが、流行病の原因が判明した事。創世の秘密に触れた驚き。瑰国の王家の存続が重要な鍵である事。いくつかの注意事項と、愛を込めた結びの文。
「我等に出来る事はなさそうだな。トウージュと神殿の巫女に任せるしかあるまい」
トウージュが王宮を離れ、『死の眠り』について探っている事は、国王夫妻と宰相しか知らない。その他の臣達は、トウージュがまた市井に降りて遊興に耽っているとしか思っていない。まさか、王弟殿下自らが、密偵の真似事などをしていようとは夢にも思わないだろう。
国政を省みず、勝手気ままに振舞う王弟トウージュ。それがパーティルローサでのトウージュの評判だ。トウージュ自身が望み、そして操作した噂ではあるのだが、あちこちであからさまに囁かれる弟の陰口を耳にするたびにコルウィンの胸は痛んだ。これ程までに自分を犠牲にして尽くしてくれるトウージュに、コルウィンは何も返すものを持っていないのだ。
「しかし、トウージュ殿下の申される『創世の秘密』とは何でしょうな? いたく興味を惹かれますが」
物思いに沈んでいたコルウィンの思考を、リュフォンの言葉が引き戻した。
「そうだな。しかし余は、人の住む世界の事だけで手一杯だ。この上、神々の世界の事まで考えるゆとりはないよ」
空になったカップを妻に渡し、コルウィンは苦笑した。
「それに、全てが無事に済んだら、きっとトウージュが話してくれるだろう。あれは、そういった事を黙っていられる性質ではないのでな」
「差し当たって必要なのは、ノーヴィア公爵の動向に気をつけることですわね。王都からは、何か報告がありまして?」
アイナセリョースがベッドの乱れを直しながら、宰相に問いかけた。
「はい。ハディースに送った者達によれば、この病による死者はゆるやかに減少しているようです。しかし王弟殿下のご報告に照らし合わせてみますと、これは次の段階へと移行したと考えた方がよろしいでしょう。ノーヴィアにも、手の者を送っておきます」
「わたくし達もしっかりと目を開き、耳を澄ましておきましょう。殿下の働きを無駄にせぬよう。そして邪魔にならぬように」
「そうだな。これ以上の面倒事は、勘弁して欲しいからね」
コルウィンは中庭に目をやった。三人の心配も知らぬ気に、天は今日も晴れ上がっている。心に掛かる暗雲を払うかのように頭を振り、国王は気持ちを切り替えた。
「さて、それではいつもの仕事に掛かろうか」
「かしこまりまして」
そして陽光差し込む国王の寝室は、瑰を支える退屈にして重要な決定を下す、執務室へと早変わりする。
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王都ハディースの北地区ウィルカ。領主であるソキア男爵の館は、常ならぬ人の出入りで大層な賑わいを見せていた。
これまで誰にも治す事の出来なかった『眠り病』。その病にかかったソキアの妻ターニヤが、旅の薬師の力により全快したという噂が、枯野を渡る野火の勢いで町中に広がったのだ。噂を聞きつけた人々が、自分も恩恵にあやかろうと詰め掛けてくる。病人を抱える者はもちろん、健康な者までもがやってくる。何しろ、いつ病に倒れるのか判らないのだから。
砂色の髪の謎めいた美女は、静かに人々の話に耳を傾ける。乞われれば相手の家まで赴き、病人に会いもした。不思議な事に、今までどのような薬もいかなる祈りも退ける事の出来なかった恐ろしい病が、カーティの手によって癒されていく。人々はカーティに群がり、感謝を捧げ、神に対するように祈った。ウィルカのみならず、東地区のザイルやカッパードからも人の波は押し寄せてくる。ソキアの館はいまや、王都・ハディースで一番の名所と化していた。
屋敷の一番良い部屋に陣取ったカーティの側にはターニヤが控え、ソキアは彼女の代理人のように振舞う。事実上の主人はカーティだった。最後の訪問客が部屋を出ると、ソキアはカーティのご機嫌伺いにやってくるのが最近の日課になっていた。
この太った小柄な男は、金はあるが力のない小貴族の末席に生まれた。幼い頃から権力への憧れが強く、自分には才能があると自惚れていた。決して美男子ではなかったが、彼の金に群がる女たちは多かった。やがて、パーティルローサで行われる新年の謁見の儀で、ヴァルド男爵の娘ターニヤを見初めた。本来ならば成立するはずのないこの結婚が、どうしてまとまってしまったのか。その原因は、やはり金の問題が絡んでいた。
度重なる当主の放蕩で、ヴァルド男爵家は山のような借金を抱えていた。そしてソキア・ベルドアには、その借金を返して余りある財産があったのだ。つまり、ソキアは自分の立場を最大限に活かし、妻と爵位を金で買ったのだ。人質同然に嫁してきたターニヤは決して夫に心を許さず、彼に子を成す能力がないと判明してからは、ますます夫婦間の溝は深くなっていったのだ。
愛情によって結ばれた夫婦ではなかったが、ソキアはソキアなりに彼女を愛していた。その想いだけは真実だったのである。ターニヤが倒れた時、ソキアは四方八方に手を尽くし、何とか妻を助けようとした。医者も祈りも役に立たず、絶望の底に落ちた彼の目の前に、砂色の髪の薬師が現れたのだ。ソキアにとってカーティは、いまや神にも等しい存在である。
「今日も一日、ご苦労様でございましたな。何か飲み物でも運ばせましょうか、カーティ殿」
ロウソクの柔らかい灯りに照らされて、カーティは机に向かっていた。
「ああ、ありがとうございます。それでは、お茶を一杯頂けますでしょうか」
にっこりと微笑みながら、ソキアに答える。家令に茶を運ぶように言いつけると、彼はカーティの側に妻の姿がない事に気がついた。
「おや? ターニヤはどうしました?」
「奥方様は、お加減が優れないとか。もうお部屋へ退られました」
その一言に、ソキアは表情を曇らせた。
「そ、それは、まさか……」
顔色を失くしたソキアに目をやり、カーティアは手を振りながら言う。
「いえいえ。あの病がぶり返す事はありません。このところ人の出入りが激しいので、気疲れされてしまったのではないでしょうか」
少しうつむいて、小声で付け足した。
「長居をさせていただくばかりか、私のためにお屋敷まで使わせていただいてしまって──。申し訳なく思っています。このままお屋敷に置いて頂くのもご迷惑でしょう。そろそろ、お暇しようかと考えているのですが」
妻の病が再発しないと聞いてホッとしたのも束の間。今度はカーティが出て行くつもりなのを知り、ソキアは新たに顔色を失くす。
「カ、カーティ殿! 何か至らぬ点がありましたか? 使用人が無礼を働いたとか?」
領主の慌てぶりは、見ているほうが哀れを感じるほどだった。ソキア自身がカーティをあがめているのは本当だが、それよりも彼女が自分の元を去ることで失われる自分自身の名声を考えているのも事実だ。
「まさか。お屋敷の皆様には、とてもよくしていただいております。ですが私の旅の目的は、私の持っている知識を、少しでも世の為に使えればと思っての事。一つ所に長居するのは、私の本意ではありません」
口調は丁寧だったが、紛れもない本心を感じ取り、ソキアはため息をついた。
「判りました。しかし、今すぐにとは言わないで頂きたい。街の者達も不安がりますし、何よりターニヤが寂しがりますからな。せめて後一月、この屋敷においでください。その間、ご自分の家のように使っていただいて結構。使用人達にも、よく言い聞かせておきますので。おや、茶がきたようですな。それでは失礼致します。また明日お目にかかりましょう。お休みなさいませ、カーティ殿」
「ええ。お休みなさいませ、ソキア様」
そそくさと部屋を出て行くソキアの背中に、カーティの返事がかぶさる。しかし言葉の中に込められた冷笑には、とうとう気付かなかった。
「今さら言い聞かせるまでもなく、屋敷中の人間は皆、すでに御主様のものだというのに」
香りの良い茶と軽い夜食を用意してきた家令は、閉じた扉を見やりながら、吐き出すように言った。
「まあ、そう言うな。それよりも、頼んでおいた事は?」
カップから漂う香りを楽しみながら、カーティはまるで主人のように振舞う。
「はい。次の王位に一番近いのは、王弟であるトウージュ・ラムナ・イルスを除けば、先王の妹であるイルネア・エメス・ノーヴィアの夫、サマル・ビュイク・ノーヴィア公爵です。我々には幸運な事に、この国は女性の王位継承を認めておりません。つまり──」
家令の言葉を横から奪ってカーティが言った。
「王家の血筋は、そこで途絶える訳だな」
「御意」
「なるほど。ノーヴィアに子はあるのか?」
「今年、五歳になる息子が一人あるようです。御主様の噂は、ノーヴィアの元にも届いている事でしょう」
「ならば、じっくりと策を練ろうか。我が瑰国の社交界に手をかける絶好の好機だ。万が一にも、しくじりたくはない」
すっかり暗闇に閉ざされた外の景色を窓越しに眺めながら、カーティは茶を口に運ぶ。季節外れの冷たい雨が、街を濡らし始めていた。
「ここもそろそろ潮時だな。居を移したほうが良さそうだ。間もなく、ここにも我の想い人が来る。──否、我の方が想われておるのか」
「ソキアはいかが致しますか?」
つまらない事柄の指示を仰ぐように、家令が口を開く。
「我がここを出てから、お前達の好きにするがいいよ。街の人間に慕われた領主、眠り病にて急逝。薬師は旅立った後で、手の打ちようがなかったとな。ソキアも我のお蔭で、一時の夢を見られたであろう。己の名声が上がり、人間どもに感謝されて」
暗い空から落ちてくる雨は、次々に強さを増していく。