4章 夢渡り・夢織り
「神」とは、本当に存在しているのか。
これまで、神話や伝説の中でしか語られてこなかった出来事が、目の前で繰り広げられている。
アイヒナのおかげで『赤い牡鹿亭』は大繁盛となり、女将は二人に宿代を半額にする事を約束してくれた。その三日後、なぜか宿を移ってきていたトウージュが女将の顔を覗き込んだ。
「どうした、女将? 随分と顔色が悪い」
少し早い夕食をテーブルに運んできた女将、笑いながら答えた。
「いや、なぁに。大した事じゃないんだがね。このところ、ちょいとばかし夢見が悪くてねぇ」
その言葉に、テーブルの三人が三様の反応を見せた。
トウージュの脳裏をよぎったのは、国内の変死事件。いずれも眠ったまま死亡している「死の眠り」の事だ。
ただの疲れさ、と笑う女将に彼が何かを言いかけたとき、アイヒナが割って入った。
「女将。今日は早仕舞いにしよう。今夜の分は明日稼げばいい。それに……夢見が悪いとなれば、それは私の領分だ」
別人のような口調に、女将は目を丸くする。結局、その日はアイヒナの言うとおり店を早仕舞いし、女将を休ませる事にした。厨房の炉の火の始末をトウージュに頼むと、アイヒナと闇姫は女将の寝室へと入っていった。
「どのような状態なのか、出来るだけ詳しく話してもらいたいのだが……」
アイヒナに促されるまま、女将はここ数日間の事を話し始めた。それによると、眠りにつこうとして布団に入ると息苦しく、寝つきが悪い。ようやく眠ったかと思えば妙な夢を見ると言う。夢の内容は覚えていないのだが、とても嫌な何者かに追いかけられたり、まとわりつかれていたような気がするらしい。目が覚めて感じるのは漠然とした恐怖感と不安感、そして肉体の疲労感。
実際、話をしている間にも彼女の顔色は酷くなっていく。
アイヒナはテーブルの水差しからグラスに水を注ぐと、荷物の中から取り出した小瓶を振った。液体を二・三滴水に落とすと慎重に掻き混ぜる。
「あんた、お医者様なのかね?」
アイヒナの勧めたグラスを受け取りながら、女将が不思議そうに聞いた。
「いいえ。私はエルキリュース神殿の巫女。夢織りのアイヒナ。女将さんの夢に入り込んだ夢魔を退治します。これは心を落ち着かせ、眠りに導く薬です」
うなずいて、ゆっくりとグラスを干す女将から視線を外し、闇姫の用意したたらいに水を張ると呪符を落とす。水の上で印を切り、聖別されたそれに小振りの鏡を沈める。
「主殿、そろそろだ」
ベッドの上では、女将が静かな寝息を立てていた。──次の瞬間、闇姫が鋭く振り返った。
「誰ぞ!」
音もなくドアが開き、顔を覗かせたのはトウージュだった。
「いや、あの──覗くつもりじゃなかったんだけど、気になっちゃって……」
ため息を吐きながら、アイヒナは彼に入ってくるように示す。
「ここにいるのは構わないが、何があっても騒いだりしないように。女将さんの命に関わる問題だ」
不満気な闇姫に時間がないと告げると、彼女もしぶしぶ引き下がった。
「始めるぞ」
床に座りリュートを抱えたアイヒナが、闇姫とトウージュの二人に告げた。
リュートの第一音が響くより早く闇姫の姿がゆらぎ、次の瞬間その場にいたのは黒く巨大な狼。艶やかな毛皮と燃えるような紅い瞳。人一人乗せても何の障りもなく、野を疾駆できるであろうその逞しい体。
思わず声を上げそうになって、トウージュは慌てて口を両手で押さえた。
アイヒナと闇姫の変じた狼は、たらいに張られた水に見入っている。窓から差し込む月の光が、たらいの底に沈められた鏡に反射する。と、静かな水面に何かの映像が結ばれ始めた。目を凝らしてみると、どうやら『赤い牡鹿亭』の食堂のようだ。しかし、様子が違う。
棺が置かれている。大きな棺と、寄り添うように小さな棺が。その棺に縋り付いて泣き崩れているのは、今よりも若い女将の姿。棺に納められているのは彼女の夫と子供であるらしい。
見ていられなくなって視線を逸らしたトウージュは、ベッドの上の女将を見て息を飲んだ。彼女の体がドス黒い影に包まれている。
(な、何だアレは?)
トウージュの考えを読み取ったように、アイヒナが静かに言った。
「よく見ておくがいい。あれが『死の眠り』の正体、夢魔の影だ」
水に映った景色が揺らいだ。
──憎かろう
──辛かろう
──やめてしまえ
──終わらせてしまえ
──意味のない生など
声にならない声が頭の中にこだまする。同時に、女将の体を覆った影が暗さを増す。
──疲れただろう
──嫌だろう
──与えてやろう
──夢もない永遠の眠りを
──甘やかなる死を……
「闇姫!」
音もなく、闇姫の変じた黒狼がたらいの水めがけて飛び込んだ。水しぶきを予想して両手で顔をかばったトウージュだが、水滴どころか水面には波紋一つ立たない。
リュートを音高く奏でながら、アイヒナが祈りの言葉を紡ぎ出す。
「遥かなる高みにて在る いと貴き御神よ
その眠りを妨げる 我を許し給え
御身に捧げられたる 巫女なる我が
その名を呼ぶを 許し給え
清浄の闇もて 悪夢を祓わん
楽の音をもて 我が神に請う
鋭き牙もて 悪夢を倒さん
我に一時 御身の神力 依らせ給え」
韻を踏んだ祈りの言葉が、速やかにアイヒナの心を解き放つ。
水鏡となった水面には、すでに女将の姿はない。そこに映し出されているのは、醜くただれた老婆の顔を持つ巨大な鴉と闘う黒狼・闇姫の姿。
「あ、あれがバフォナか?」
嫌悪にしわがれた声で、トウージュが呟いた。
夢魔・バフォナ。名前は聞いたことがある。人の夢に憑き、夢で心を惑わし人の精を糧とする。通り一遍の知識はある。しかし、知っているだけだ。「識っている」のとは違う。
「元々バフォナは、あのように力ある存在ではなかった。人の精を吸うとはいえ、死に至る事例は稀だった。アレは、バフォナを超えた存在になりつつある姿だ」
アイヒナの声は妙に平坦だった。その黄金の瞳は夜の中で、炯炯と光を放っている。銀の長髪が、風もないのに波のようにうねる。
リュートから不思議なメロディが流れ出した。高く、細く、低く、強く……。側にいたトウージュさえも、体の底から力が湧き上がってくるのを感じる。アイヒナの澄んだ心地よい声が唄っている。いや、祈っているのか。
「夢の鎖 戒めよ
夢の荊 取り囲め
夢の槌 打ち据えよ
夢の波 押し包め
全ての夢を侵す存在よ
その身に 夢の獄屋を与えん
夢の翼 解き放て
夢の牙 貫かん
夢の刃 いざ来たれ
夢の風 吹き荒れよ
全ての夢を 護る獣よ
その身に夢の鋼を与えん
疾く来たれ 護りの力よ
しかして 夢は正しくなりぬ」
闇姫の姿が変化する。鋭い牙が伸び、その背に花咲く様に闇色の翼が開いた。力強く翼を打ち振ると、恐ろしい唸り声を上げている怪物の頭上に飛び上がり、後脚で鴉の体を蹴り落とす。無様な格好で落下した怪物の広げた両翼の上に、闇姫が着地した。その四肢は、しっかりと鴉の翼を踏みつけている。しきりと体を捻って闇姫を振り落とそうとするが、鋭い爪がそれを許さない。
もがく夢魔の周囲に、ビッシリと棘の並んだ荊が現れた。夢魔の身体中に絡みつき、確実にその自由を奪っていく。
狂ったようにもがく夢魔の首筋、醜くただれた老婆のうなじに、闇姫が深々と牙を打ち込んだ。聞くに堪えない、耳障りな叫び声が響き渡る。さらに深く牙を食い込ませた瞬間、アイヒナがそっと呟いた。
「至高なる 御身を讃えん」
**
「私は赤ん坊の頃、エルキリュース神殿の前に捨てられていたんだそうだ」
コリョンの街の人々と『赤い牡鹿亭』の女将に別れを惜しまれながら、旅を再開して三日が経った。
アイヒナと闇姫にいたく興味を惹かれたらしいトウージュが、新しい面子として加わっている。
「身許を明かすようなものは、一切つけていなかったらしい。ちょうどその年は天候が思わしくなくて不作続きだったそうだから、口減らしのために捨てられたんだろう。そしてその頃、巫女頭を勤めていた夢長様に拾われたんだ」
闇姫は例によって、アイヒナの影に潜んでいる。道中トウージュと話をしているうちに、いつの間にかアイヒナは自分の身上を語っていた。
「親に会いたいとか、思わないのかい?」
「いや。私の親は夢長様一人だし、今さら会ったとしてもお互いに戸惑うだけだろうさ」
淡々と語られるアイヒナの過去に、トウージュは沈黙で答える。
「なあ。『夢織り』っていうのは、神殿の巫女の事だろう? どうして旅になんか出ているんだい?」
結局、沈黙に耐えかねて口を開いたのは、トウージュだった。随分と高くなった陽を仰ぎ、アイヒナはリズム良く脚を運びながら答えた。
「巫女達全員を『夢織り』と呼ぶわけではない。通常、神殿に使える巫女達は『夢読み』と呼ばれる。彼女達は神殿で法典を学び、人々の不安を取り去る。他の神殿の巫女と同じで、これは階級が一番下の者達だ。その上になると『夢語り』と呼ばれ、神殿の行事を司る。そして人々の夢を解き明かす。それより上位が『夢使い』。エルキリュース神に直接仕える者達だ。そして『夢長』。神意を伝え、全ての巫女を統括する」
冬を迎え始めた街道は、乾いた砂を含んだ冷たい風が旅人の足を急がせる。
コリョンから王都ハディースまでは馬で十日間。徒歩で行くとなれば、早くても十五日はかかる。
「『夢織り』とは『エルキリュース神に捧げられたる者』という意味だ。宗都サンガルの神殿には、私一人しかいない」
そう言うと、街道から離れた木立に目をやったアイヒナが小さく呟いた。
「闇姫、弦が共鳴している」
「では、ここも……?」
足元から闇姫の返事がある。最初は驚いていたトウージュだが、闇姫がドラムーナと言う伝説の中の生き物だと言う事を納得し始めたらしい。
何の説明もなく街道からはずれ、二人と姿なき一人は木立へ向う。
『神に捧げられたる者』──。
それが、神殿に仕える巫女達とどれほど違うと言うのか。正直トウージュには理解できない。一生を神に仕え、乙女である事を誓った女性。神殿から一歩も外へ出ずに人生を送る巫女もいる。教義の一環として、請われれば男と枕を共にする巫女もある。極めて稀に還俗して婚姻し、子を成す者もいないではない。が、全体から見れば「巫女」と称される者達は「神」の端女であると言えるだろう。
そういえば王宮で執り行われる神事にエルキリュース神にまつわるものがなかった事に、今さらながらにトウージュは思い当たった。王族の一人として、国王の代理として、王宮で行われる神事にも、サンガルで行われる神事にも参加した経験のあるトウージュだが、その中にエルキリュースに関係した祭事はなかったように思われる。
アイヒナに疑問をぶつけてみようにも、身分を偽っている今、真っ向から質問する訳にもいかない。考えているうちに謎が謎を呼び、彼の頭は「何故?」で一杯になってしまった。
木立の中へ入っていったアイヒナは複雑に絡み合った下生えを踏みしだき、さらに奥へと進んでいく。
人の手が入っていないほど奥まで来ると、アイヒナは耳を澄ますようにして目を閉じた。サワサワと風が枝葉を揺らす。側に立って辺りを見回していたトウージュは、首筋にチリチリする感覚を覚えてそちらに目をやった。
街道から風に乗って届く音は僅かで、木々の壁に吸い取られてしまう。人工の音は、己の呼吸音と鼓動のみ。不思議な事に、アイヒナからはそういった「音」が感じられない。確かにそこに「いる」のだが、木々の気配に完全に溶け込んでしまっている。
地を這う蟲が立てるカサカサという音。どこかで鳥が飛び立つ羽音。小動物が枝を渡る音。木々が水を吸い上げる気配。木立の奥で生き物が警戒している気配──。そういった自然の気配とは相容れない、むず痒いような、不快感を伴う何か。それが、自分の意識を過敏にしている。
トウージュの視線は木立の奥を透かし、一本の樹に行き着く。蔦の絡まったその樹は、樹齢いかほどのものであろうか。ささくれた断面を見せて、中程から真っ二つに裂けている。まるで、恐ろしい程の圧力で内側から破壊されたようだ。そこから漂ってくる気配は、悪意を孕んだ喜びに満ちている。
「トウージュ殿にも判る程、奴は力を取り戻したと言う事か」
耳元で唐突にアイヒナの声がして、トウージュは我に返った。今まで彼女の存在を忘れていたのだ。
「あ、あの木は──?」
動揺して上ずってしまった声で、トウージュは質問する。
「私のいくつかある目的の中の一つ。この国を脅かす者の足跡」
いささかぶっきらぼうに答えると、アイヒナは裂けた木に近寄った。内側に抱え込んだモノの力に耐え切れず、力尽きたのが見て取れる。
「これで幾つ目だ?」
「十箇所。ここは一月ほど前かと」
「一向に追いつけんな。いつも後手後手だ」
「確実に近づいてはいる。そう、己を責める必要もないだろう、主殿」
トウージュには理解できないやりとりを交わす主従を見つめ、彼は不思議な既視感を覚える。どこかで見た、彼には馴染みの深い光景。
肩を落とし、ため息を吐くアイヒナの姿が、ふと、兄王コルウィンの姿とダブって見えた。
(ああ、病に倒れた頃の兄上と、彼女はとても良く似ているのか──)
国の要という立場ゆえ、コルウィンは自らを厳しく律してきた。その兄が病に倒れた時、思い通りにならぬ己の身体にどれほど歯がゆさを感じていたのか。常に側にあったトウージュは誰よりも知っている。自分の無力さに歯噛みする兄の表情は、眼前のアイヒナのものと同じだ。そしてその表情は、常にトウージュに「役立ちたい」という気持ちを起こさせるのだ。
「アイヒナ、俺にやれることはないのか?」
口に出してしまってから、苦笑する。自分にはやらなければならない事があるはずなのに。
だが、トウージュには妙な確信があった。彼が追っているものと、この主従が追っているものは同じであると言う確信。
「詳しい話を教えてくれないか?」
目を見開いて振り向いたアイヒナは、トウージュの申し出にしばし考え込むと、元来た道へと足を進めた。
「今夜の宿を探そう。話はそれからだ」