3章 出会い・聖と邪と
病の打開策を見つけようと、市井に飛び出した王弟・トウージュ。
彼はとある酒場で、運命的な出会いをする。彼女たちは一体何者なのか。
時は前後する。
王都ハディースから東へ離れた都市『匠都ホルテス』。産出された玉は、原石のままホルテスへと運び込まれる。ここで原石は美しく磨かれ、加工され、姿を変える。この匠の街から商人の街『商都スガン』へと出荷され、国外へと送られる。
そのホルテスの関門の外、街道沿いに広がる森の中を、一人の女性が走っている。しきりと背後を気にしながら、昼間でも薄暗い森の中を、慣れぬ足取りで進んでいく。
とっくに陽は落ち、ホルテスの関門も閉まってしまった時刻に、なぜ女一人で森の中を走っているのか?
疲労に呼吸が乱れ、足がもつれた。
「あっ──!?」
茂みの中に倒れこみ、その拍子に左腕にザックリと裂傷を負う。
「っく! ハァ、ハァ、ハァ……」
酸素を求めて喘ぐ体は、本人の意志に反して動こうとしない。せわしない呼吸を繰り返しながら、彼女は背後を振り返った。
森の中を渡る風と、小動物の気配。そして、うるさいほどの自分の心音。
歯を食いしばり、次第に治まってくる呼吸音に、かすかな嗚咽が混じる。茂みの中で膝を抱え、子供のように丸くなりながら彼女はボロボロと涙を流す。
「──しょう。ちくしょう。ちくしょう!」
血を吐くように、彼女の口から呪詛の言葉がこぼれる。
「あいつら、許すもんかっ! いつか絶対殺してやるっっ!」
<何がそんなに憎いのか?>
ふいに、誰かの声が頭の中に響き渡る。
「誰っ!?」
ギクリ、と体をこわばらせて、彼女は周囲を見回す。
<それほどに憎い相手がいるというのなら、我が力を貸してやろう>
「誰よ! ──ううん。誰でもいいわ。本当に力を貸してくれるのね?」
心を占めていた恐怖が去り、憎しみが膨れ上がる。
「見返りは何? まさか、タダで力を貸してくれるわけじゃないんでしょう?」
取り引きを申し出た彼女への返事は、甲高い哄笑だった。
<はぁははは──。気に入った! 気に入ったぞ! 地を這う人間の分際で、我に取り引きを持ちかけるとは! 良かろう。我の力と引き換えに、そなたは何を差し出そうと言うのか?>
体の底から湧き上がってくる震えを止める事が出来ない。自分は取り返しのつかない事をしようとしているのかもしれない。……しかしその思いも、彼女の心を抑えるだけの効力を持ってはいなかった。
「命を! あたしから全てを奪った奴等の命を全部、あなたにあげる! それで足りないってんなら、あたしの命も持っていけばいいわ!」
<その申し出、しかと聞き入れた! 我はそなたに力を貸そうぞ。そなたの名を、我が前に示すが良い>
茂みに隠れていた丸い石に血だらけの左手をついて立ち上がる。
「カーティよ! 工匠バンクスの娘、カーティ!」
<契約は成された!>
カーティの血の付着した丸石が、赤い光を放って震える。光の中に人影が浮かび上がった。全身を黒いローブに包んだ、長身の美丈夫だ。赤い光の中でなお、燃え盛るような輝きを持つ朱色の瞳が、残忍な光をたたえて煌く。滑るような輝きを持つ黒い髪は、生物の如く蠢いている。
「礼を言うぞ、カーティ。永きの封印は破れた! 世界に散った我が身の欠片を取り戻し、我は再び君臨する! そなたに我が名を呼ぶ事を許そう。このアーカバルの名を」
立ちすくむカーティの左手を優しくとると、流れる血に口をつける。
「ア、アーカバル様……」
恍惚とした表情で、カーティは呟いた。
「良い娘だ。我を受け入れよ。まったき闇の祝福を受けるが良い」
空にかかった月神リュスが、まるで身を隠すかのように雲に遮られ、森は深い闇に沈んだ。
**
陽が落ち、家々の窓に明かりが灯る頃になると、『赤い牡鹿亭』は一日の中で最も忙しい時間を迎える。食事と酒と喧騒。仕事の不満を洩らす者、カード遊びに興じる者、出世を祝う者。様々な感情が混じり合い、不思議な世界を造り出している、とトウージュは思った。
トウージュ・ラムナ・イルス・瑰。第二位の継承権を持つ、王弟殿下。先王クリュスト・ブロン・アーナス・瑰の庶子。
王宮における彼の立場は、決して安定したものではない。殊に、当代の国王が病弱で跡継ぎがないとあれば、尚更である。現にコルウィンを廃し、トウージュに即位を求める声が重臣達の間から挙がった事もある。その時は、宰相を務めるリュフォンの働きで事なきを得たが、この先もこういった問題が噴出しないとも限らない。
元々、宮城であるパーティルローサに居つく事の少ないトウージュが、市井へ繰り出す回数が増えたのもこの頃からだ。これには二つの理由がある。一つは、彼を擁する官吏達が失望してくれる事を狙ったものだ。そしてもう一つの理由は、政治へ直接参加できない兄、コルウィンへの情報提供のためである。
腹違いであるとはいえ、トウージュはコルウィンを深く愛していた。身分の低かった彼の母は、まだ幼いトウージュを残してこの世を去った。後見のないトウージュを引き取ったのは、先王の第一王妃ティメイラである。彼女によって、コルウィンとトウージュは実の兄弟のように育てられた。そうして少年だったトウージュの心に、ある決心が芽生えた。
いつか、この恩に報いたい。
身分を隠して街へ出て、トウージュは人間の強さ・しなやかさを知った。王宮の奥深くにいては判らぬ事を理解した。
国とは、統治する者と支える者で成り立っている。どちらが欠けても成り立たぬ。王族は国を治める重責、民の生活を守る努力を負うからこそ、王族として認めてもらえるのだ。それを忘れたとき、王は力尽くで玉座から追われるだろう。王とは、その首で国民の命を贖うために存在しているのだ。
そんな事を食堂の隅のテーブルで、酒杯を傾けながら一人考えていた。そんな時、ふと店の中に静寂が訪れる。何事かと顔を挙げると、女が二人、二階から降りてきたところだった。
腰まである銀髪を一本に編んでいる女と、黒髪を流した長身の女。女性二人の旅人は確かに珍しいだろうが、なぜ皆が言葉を飲み込むのか、と不審に思ったその瞬間。
二人が同時に振り向いた。燃えるような紅眼と、吸い込まれそうな黄金の瞳。
美しいだけの女ならば王宮で山ほど見た。大層魅力的な姫君も幾人も知っている。聡明さを兼ね備えた女性は身近にいた。前王妃ティメイラと現王妃アイナセリョースだ。
しかし、今目の前にいる二人が纏う圧倒的な存在感は何だ? 美しさとはそのまま力となる事を具現化した、この二人は何者なのだ?
トウージュの自問は、ドアが乱暴に開けられる音に中断された。
「おうい、女将! 酒だ、酒!」
すでに出来上がっているらしい、粗野な服装の巨漢三人組が入ってくる。店内の客達は彼等を見るなり眉をひそめた。
「やれやれ、またバルモスの奴だよ」
「誰も何も言わないんだから、好き勝手のし放題だ」
テーブルで交わされる小声の会話から推し量るに、どうやらこの三人組、近所でも有名な鼻つまみ者らしい。
「よう、兄貴。こんな所に、たいした別嬪さんが二人もいるぜ」
連れの一人が挙げた声にバルモスが振り向いた。窓際のテーブルに落ち着いた、アイヒナと闇姫を目にする。
「へえぇ、こりゃあ、すげぇ上玉じゃねえか。なんだい、姉さん方。二人っきりかい? 俺達と一緒に飲まねえか」
断りもせずに彼女達のテーブルに腰を下ろす。しかし、二人は知らん顔でグラスを口に運んでいる。他の客達は気の毒そうな視線を送っているだけで、誰も何も言わない。とばっちりを恐れているらしい。
「黙ってねえでよぉ。どうせ男の相手しながら金稼いでるんだろ? 愛想の一つでも見せて、酌ぐらいしてくれ──っ!」
最後まで言えず、バルモスの巨体が椅子から吹っ飛んだ。アイヒナの横に腰掛けたバルモスが、言葉の途中で彼女の肩に手を掛けようとしていたのを、闇姫が正面から蹴り付けたのだ。
「薄汚い手で主殿に触るでないわっ、この下衆が!!」
凄まじい怒号が飛ぶ。
連れの男に助け起こされながら、バルモスが怒りに顔をゆがめる。
「っこの──。女だと思って優しくしてやりゃ図に乗りやがって。ワイト、ゴメス、やっちまえ!」
手空きの一人──こちらがワイトだろう──が闇姫に向って手を伸ばし……。
「わっ、いててて!」
「なあ、主殿。こいつ等全員、かみ殺してもよいか?」
ワイトの右腕を捻り上げながら、闇姫が憎憎しげにアイヒナに問う。
あっ、と言う間に大騒動に発展させてしまった相棒に、アイヒナは大きなため息を吐く。
「お前の頭の中には、穏便に解決しようと言う考えは、全くないんだな……」
今にも殴りかかってきそうなバルモスとゴメスに視線をやると、静かな声でこう言った。
「バルモス殿、とかおっしゃったか? 私とて、気分次第では愛想も作ろうし酌もする。しかし、連れと二人でくつろいでいるところへ強引にねじ込まれては、興も殺がれようというものだ」
「う、うるせぇ! 少しばっかりキレイな面してやがるからって、所詮男と枕並べて金もらう類の女なんだろうが! 偉そうな事ほざいてんじゃねえぞ!」
店中の客が注目している中で恥をかかされ、このまま引き下がる訳にはいかない。アイヒナの衿元を掴み上げると、バルモスはすごんで見せた。
(たかが女一人、ちっとぐらい痛い目に合わせてやれば、泣いて謝罪するに違いねえ)
そう考えた自分に後悔するのに、さして時間は必要なかった。
「何か誤解があるようなので言っておくが、私はエルキリュース神殿の夢織り・エルーシャだ。乞われれば音曲も披露しようが、金をもらっても体は売らん。彼の神により眠りを奪われても構わんというなら、試してみるか?」
冷静に答えを返し、バルモスの腕を優しく掴む。
「もっとも、私も大人しくしている気はないが」
次の瞬間、店内に悲鳴が響き渡った。アイヒナの胸元を掴んでいたはずのバルモスの右腕が、肘の所でブランと垂れている。
聞き苦しい悲鳴を上げながら右腕を抱え込む男に
「虚け者めが。ドラムーナでさえも恐れる我が主に、手を出したりするからだ。肘が外れただけがそんなに痛いのか。大の大人が見苦しい」
相変わらずワイトに逆関節を極めながら闇姫が呟いた。
「いい加減、他のお客人にも迷惑だ。お引取り願おう」
「ううっ、こいつ──」
ゴメスが懐から何かを取り出そうとした瞬間、鈍い音がして周囲に素焼きの破片が飛び散った。白目をむいたゴメスが、ゆっくりと沈んでいく。
「兄さん方、そこまでにしときな。これ以上やったら洒落にならん。退いた方が身のためだろう?」
彼女達のテーブルからやや離れた席に腰掛けていたトウージュが口を挟んだ。
バルモスが涙ながらに何かを言いかけた時、厨房のドアが開き女将が姿を現す。どうした事か、その手には長箒が握られている。
「店の方が騒がしいと思ったら。また、あんた達かい! うちにゃあ、あんた達に売る酒はないよ! ほら、帰った帰った!!」
こうして肘の骨を外されたバルモスと意識のないゴメスを担いだワイトは、女将の箒によって捨て台詞も言えないまま、店の外へ掃き出されてしまった。
「まったく。図体ばかり大きくなって、やってる事はガキのまんまだよ」
腰に両手をあてて、女将はフンと鼻を鳴らした。そのままクルリとアイヒナ主従の方へ向き直り、
「悪かったねぇ。ちょいと地下の酒蔵に降りてたもんだから、騒ぎに気付くのが遅くなっちまったよ。大丈夫だったかい?何かされなかっただろうね?」
申し訳なさそうに謝るのに、
「いえ、お気になさらず。私には心強い相棒がおりますし、こちらの方が助けて下さいましたから」
と、笑顔でアイヒナが手を振る。先程の助け舟を出してくれた青年が、気まずそうに口を開く。
「すまん、女将。ジョッキを一つダメにしちまった」
床の上には、ゴメスを撃沈した素焼きのジョッキだった物の破片が散乱している。
「なぁに、構うもんかい。気にしなさんな。お客さん方に怪我がなくて何よりさ」
手にした箒で手際よく床を掃き清めていく。もしかしたら、このような事態には慣れているのかもしれない。
「ホントに……。大の大人がこんだけ雁首揃えて、女の子一人守れないんだからねぇ。嫌ンなっちまうよ」
女将の言葉に、店内の客達がキマリ悪そうにうつむいた。
「まぁまぁ。それよりも女将、よぉく冷えたエールを一杯もらえないか?」
「あいよ。ちょいと待てておくれね」
トウージュの言葉に、ホッとした空気が流れた。
「ところでさ、お姉さん方。そっちのテーブルに行ってもいいかな?」
彼の申し出に、闇姫は胡散臭げな視線を投げる。そんな相棒に苦笑しながら、アイヒナは席を示した。
「先程はありがとうございました。私はアイヒナ。こちらは、連れの闇姫と申します」
頭を下げるアイヒナに、トウージュは笑いながら告げた。
「いやぁ、俺の出る幕じゃないとは思ったんだけどね。さすがに刃物はマズイと思ってさ。あ、俺、トウージュ」
「ほう、王弟殿下と同じお名前ですね」
神殿関係者である以上、王族の系譜は頭の中に叩き込んである。
「王弟殿下と同じ年の生まれでね。親が殿下にあやかろうってんでつけたのさ。しかし、いくら何でも不敬だよな」
女将の運んできた新しいジョッキと夕食の皿に手を伸ばしながら、会話は弾んでいく。
「ふん。王弟とやらがこれ程に軽薄であったならば、たちまち瑰は立ち行かなくなるだろうよ」
鶏の脚をもぎ取り、パクリと咥えて闇姫が言った。トウージュは内心、苦笑するしかない。
「これ。お前は口が過ぎる。それに殿下は、珠春宮パーティルローサの重臣達よりも民に深い理解があると、下々には人望が厚い」
アイヒナの言葉に、いよいよ正体が明かせなくなってしまったトウージュである。
そのまま差し障りのない世間話が続く中、闇姫とトウージュが見事な健啖ぶりで、テーブルの上の料理を平らげていく。
食後の香茶を楽しんでいると、客の一人がおずおずと声をかけて来る。
「なあ、姉さん方。あんた、さっき頼めば音楽もやってくれるような事を言っていたが、本当かね?」
どうやら、バルモスとのやりとりを聞いていたらしい。
「ああ。あいにく吟遊詩人ではないので、流行の曲には疎いかもしれんが、それで良ければ」
別の客から声が掛かる。
「構うもんかい。何か一曲やってくれないかい? お代は弾むぜ」
「それなら、一曲につき金貨一枚だ」
横から闇姫が口を挟む。
「なにぃ? そいつぁ高けぇや。もちっとまけてくんない」
「悪いな。こちらも懐が心許ない。もちろん、聞いてからで構わんぞ。だが、断言してもいい。お前達は金貨を払うよ」
妙に世間ずれしているドラムーナである。苦笑すると持ち歩いているリュートの袋の口を開け、アイヒナは手に馴染んだ楽器を取り出す。先刻切れたはずの弦は、もちろん張り直されている。
「まずは、何を弾きましょうか?」
「おう。そいじゃあ“エギル王とシュルス姫の恋歌”をやってくれや」
客の声にリュートを爪弾きながら、記憶を確かめるようにリズムを口ずさんでいたが、おもむろにアイヒナは唄い始めた。彼女の声が響き始めると、店内のざわめきが消えていく。
朗々と流れるアイヒナの声は、高くもなく低くもなく、人の心にまろやかに染み渡る。吟遊詩人達の唄うバラッドは、珠春宮の宴で何度も聴いた。拙い者も名人と呼ばれる者も、「神に与えられた声」と称される者もいた。しかしトウージュは「魂に直接語りかける声」というものの存在を初めて知った。あえて例えるなら「精霊の声」が一番近いだろう。
(アイヒナは自分の事を『夢織り・エルーシャ』と呼んでいたな。それはつまり『エルキリュース神に捧げられた者』という意味だ。)
トウージュは唄い続けるアイヒナを見つめながら考えた。──彼女が夢幻鏡の持ち主だろうか? だとすれば、なんと言う幸運だろう。
トウージュが物思いに沈んでいる間に、バラッドの一節が終了した。元々四部構成の長い曲なのだが、一番の山場の節を唄ったようだ。
一呼吸後に、大きな拍手の波がやってきた。
「おお、こいつぁ黒い姉ちゃんの言うとおり、金貨一枚の値打ちがあらぁな」
「いや、金貨一枚じゃ安いくれえだ」
客達が口々に賞賛の言葉をかける。
「はいはい。言葉じゃなくて、形で表しておくれ」
闇姫が言うと、曲を頼んだ客が
「違ぇねえや」
笑いながら金貨を投げてよこす。
「次、次、俺。んとよ……そうだ“青鹿毛の騎士”の唄を頼むぜ」
甘く切ない恋歌を奏でていたリュートが、猛々しく力強い、古い勲を紡ぎ始める。
こうして『赤い牡鹿亭』に新しい名物が加わった。