第32章 アーカバル・狂った想い
瑰国の宮城・珠春宮の謁見の間で対峙するアイヒナとアーカバル。
執拗に自身を求めるアーカバルに対して、アイヒナはずっと感じていた疑問が解けていくのを感じていた。
アーカバルがかくも狂おしくアイヒナを求める、その答えとは?
「世界を呪う、幼き神よ。何を怖がっているのだ?」
武器も持たず、両手はダラリと下げられたまま。ゆっくりと正面から近寄って来るアイヒナは、穏やかな表情を浮かべている。
だが対峙するアーカバルの方は、醜く爛れた半顔を歪め、アイヒナが一歩近寄るごとに後退る。
「怖がっているだと? 神の身であるこの我が、ただの人の子であるそなたを怖れるはずがなかろう」
そうは言いながらも、後退する足を止める事は出来ない。ただ歩み寄って来るだけのアイヒナに、気圧されたように体が退いてしまうのだ。
「お前は怖がっているさ。私には良く分かる。人に近付くのが怖い。傷付くのが怖い。人に理解されぬのが怖い。自分の受け容れてくれぬ世界が怖い。だから全てに牙を剥く」
歩みを止めぬ夢神の巫女の目に、恐怖の色はない。あれ程激しかった氷の礫も、勢いを失ってきたように思える。衣を裂き、肌を傷付けていた氷の刃は、アイヒナの体にぶつかってバラバラと落ちるだけだ。
「そうしながらも、その実、一人でいる事も怖いのだ。世にただの一人も自分を知ってくれる者がいない事に怯え、おののく。自分から周囲を遠ざけておきながら、誰も己を理解など出来ぬのだと嘯く」
「我が怯えるだと? 我は神だ。この世において比類なき、強大なる力を有した暗黒の神なるぞ。何故、我が恐れねばならぬ? 何故、怯えねばならぬ? 神とは孤独なるものだ。卑小な存在でしかない人間如きが、神を理解しようなど不可能な話だ」
どうにか気力を振り絞って足を止めたアーカバルが、大気を切り裂くように腕を振り払ってアイヒナに反論する。
「人はただ、神である我に従っておれば良いのだ。アイヒナ、そなたもだ。何も考えず、我を受け容れ、我の愛を受け容れておれば良いのだ。我と共に、新しき世界の支配者となれ!」
「支配者? お前が本当に望んでいるのは、そんな事ではないだろう」
激高するアーカバルの様子にも臆する事無く、アイヒナは近寄り続ける。
一歩。また一歩。
銀の髪、金の瞳を持つ、長身の美女。アイヒナを表わすとすれば、そんなありきたりな形容詞が相応しい。だが、それだけだ。その容姿に力がある訳ではない。
しかし、歩みを進める彼女を恐れる如く、畏れる如く、アーカバルの表情は歪んでいる。
「アーカバル、もう己の心を偽るのはやめるんだ。お前はこの世の支配も、私という器が欲しい訳でもないだろう。お前の心の奥底に仕舞い込んで、目を向けないようにしてきた本当の望みを言ってみろ」
謁見の間に吹き荒れていた瘴気を含む暴風の勢いが、心なしか弱まってきたように感じる。
「アイヒナ──」
まるで結界のように、夢神の巫女以外の侵入を拒むアーカバルの風の壁。その壁の外に取り残されたトウージュと闇姫は、ただアイヒナの行動を見守るしかない。
傍目から見ても、圧しているのはアイヒナのように映った。
「幼く、小さき神よ。恐れるな。世界は決して、お前の敵ではない」
大きくはないアイヒナの声は穏やかであるのに、大気を切り裂いて暴れる風を貫いて良く通る。
「幼い? 小さいだと? 戯けを申すな。そなたこそ、卑小な人の身で、我に盾突こうとするとは。神に対し、不遜であろうが! 世界が我の敵だと? 違う! 断じて違うぞ! 我が、我こそが、世界の敵なのだ!」
彼女の言葉に、両手を振り回し、髪を乱して反論するアーカバルの姿はまるで──。
「それが、幼いと言っているのだ、アーカバルよ。今の己の様を見てみるが良い。自分の言い分が通らぬと、癇癪を起こして泣き喚く子供そっくりだ」
アイヒナの声の中には、驚くべきかな、わずかに苦笑の気配すらうかがえた。
「ぐ……ぅっ──」
動じる事のない夢神の巫女の姿に、アーカバルは返す言葉を失った。
「聞くが良い、暗き神よ。夢神は世界を創り出し、光で満たした。太陽を創り月を創り、空に星を散りばめた。大地を水を火を風を創り、草を花を、全ての生命あるものを創り、この世界に置かれた。生命がある以上、死もまた然り。生まれ落ち、齢を経て死を迎える。生を『光』とするならば、死は『闇』だ。世の中は光で満ちているように見えるが、そうではない」
邪神の正面に至ったアイヒナは、そこでようやく歩みを止める。自分よりも背の高いアーカバルと対峙しながら、相手を見下ろしているのは彼女の方だっただろう。
「光のみの世界では、光がそこに在る事を識るのは難しい。影があり、さらに色濃い闇があるからこそ、人は光の存在に気付く。闇についても同じ事だ。闇の暗さを認識するためには、光の存在が不可欠となる。光の明るさを知る故に、人は闇の深さに怯え、闇の温かさに安堵する」
今や立場は、完全にアイヒナの方が優勢となっていた。
視線では見下ろしているはずなのに、この精神を圧迫して来る威圧感は何だ? たかだか、百年の寿命しか持ち合わせていない、病や怪我によって簡単に命を落とす、脆弱な肉体。折れれば崩壊する程に、か細い精神。心などというモノに支配され、感情に流される愚かにして卑小な存在。
なのに、この小娘は──。神である存在の自分に、正面から挑み、臆する気配もない。武器も持たずに生身の体を晒し、あまつさえ笑って見せる。
一体どこから、この余裕は生まれるのだ? 自分はこの小娘の何に怯えているのだ?
「怯える? ──我が、怯えるだと?」
自身の考えに捕われていたアーカバルは、己の至った結論に愕然とした。
馬鹿なっ! 神であるこの身が、人間ごときに怯えるなどという事は、あってはならない! そんなはずはないのだ!
だが、胸の中に一度芽生えてしまった思いは、打ち消そうとすればする程、より強くなって自身を苛む。
身裡を侵食する考えを追い払おうとするかのように、アーカバルは腕を薙ぐ。苛立ちや焦りや、その他諸々の感情がない交ぜになった想いは、力となって放たれる。
だが、アイヒナに向かって行ったその力は、彼女の触れる前に霧散する。
そう、千々に乱れるアーカバルの想いそのままに。
「アーカバル。お前には、私を傷付ける事は出来ないよ」
口許に淡く笑みを刻み、アイヒナはアーカバルに告げた。
「何を生意気な事をほざくか、虫ケラ程の命しか持たぬ、人間の分際で!!」
「だが、その小さな人間という存在に嫉妬し、羨望の想いを抱いているのは、アーカバル、お前の方だ」
眼を血走らせ、己を保とうとするかのように、アーカバルは怒号を発した。物質的な圧力さえ感じられそうなソレを、アイヒナはそよ風のように受け流す。
「嫉妬? 我が? 羨望だと? 貴様等如き人間に対し、我が、かように愚かしい感情を抱いていると言うのか? 戯けた事を、ようもするすると。いかに夢神の巫女とはいえ、寝言は寝てから口にするが良いわ!」
「まるで、毛を逆立てた猫だな。私の言う事が信じられないか? ならばなぜ、執拗に私を欲するのだ? 神であると言うのならば、卑小な人の子である私の存在などを求めるのだ? 神であるお前ならば、何をそれ程までに愛される事にこだわる?」
いつの間にか、謁見の間に吹き荒れていた狂風は、嘘のように静まり返っている。
決して大きな声ではないのに、アイヒナの言葉は大理石の床に、堅牢な石造りの壁に反響し、まるで高い天井から降ってくるかのようだ。あたかも「神」の託宣の如くに。
「神が人の愛を請うのか? 世界の敵を標榜するお前が、何故、私の固執するのか分からなかった。だから、ずっと考えていたんだ」
厳かとさえ言える夢神の巫女の声を聞くアーカバルは、奇妙な表情を浮かべていた。
邪神と対峙する時に感じる、あの飢餓感。
「ずっと、ずっと考えていた。トウージュはお前の愛は一歩通行で、独りよがりの愛だと言った。だがそれは、ある意味で正解であり、ある意味で不正解でもある」
静けさの戻ってきた広間に、アイヒナの澄んだ声は良く通った。その声を聞きながら闇姫は、己の立つ場所が珠春宮の謁見の間ではなく、自身に馴染みの深い場所であるエルキリュース神の拝殿にいるかのような感覚に陥った。それは等しく、隣に立つトウージュも感じている事だった。
アイヒナの周りから、空気が清められていくような気がする。彼女が言葉を発するごとに、広い謁見の間が神域の清浄さを帯びていく。
「エルキリュースが……降りてきている?――否、違う。神の力では、ない。これは全て、主殿の力によるものか……」
呆然とも唖然ともつかぬ面持ちで、闇姫は知らず呟いた。
「アーカバル、求める者よ。私は、ずっと考えていたんだ。それこそ、お前の事だけをな。考えて、考えて――ここに来て、ようやく答えを見つけた」
「答え──我の求める、答えを見つけたと?」
夢神の巫女の静かな迫力に圧されたか、醸し出される雰囲気に魅入られたか、邪神と呼ばれる存在は、ぼんやりと彼女の言葉を繰り返した。
長い銀の髪を揺らし、黄金色の瞳を煌めかせてアイヒナは続ける。
「お前は常に同じ事を言い続けてきた。親とはぐれて泣く子供のように。曰く『自分のモノになれ』『自分を愛してくれ』。お前は執拗に、そう言い続けてきたんだ」
「そ──れが……それが、何だと言うのだ?」
吸い込まれてしまいそうな、金の瞳。そこから目を離す事も出来ず、アーカバルは己を保とうと必死でいる。
「まだ分からないのか、アーカバル? 存外、頭が悪いな」
肩をすくめて、アイヒナは言い放った。彼女の言葉に、邪神は眉を吊り上げ、火を噴くような目付きでにらみつける。
「我にケンカを売っているのか。夢神の巫女? 言いたい事があるのなら、ハッキリと申してみよ」
「うん、そうだな。もういい加減に、回りくどいのはやめにしよう」
ほつれて顔にかかる髪を、細い指で払う。そんな何気ない仕種でさえ、アーカバルの瞳には眩しく映る。
彼女の存在を知ってから、ずっと追い求めてきた。
神威を宿す、その器。世界を構築する神々に愛された、美しい存在。人の子として生を受けながら、神さえをも魅了する魂の響き。
太陽神の光を宿した黄金の瞳も、月神の光を映した銀の髪も、白い肌も、均整のとれた肢体も、何もかもがアーカバルを惹き付ける。
『自分のモノにしたい』
強く、そう想った。
『自分だけのモノにしたい』
そうすれば自分は、もっと強く大きくなれるに違いない。
だが、アーカバルの想いとは裏腹に、彼の欲する娘は他の神々の力を受け入れ、夢神の巫女達の中でも限られた者しか選ばれないという、「夢織り」となった。
それはつまり、彼女が自分を追う者になったという事を意味する。夢神エルキリュースの分身とも言われる、初原の獣・ドラムーナがつき従う事からも、それはうかがい知れる。
『何故、何故に我を見ようとせぬ? これ程にそなたを求めている我を、何故に認めてはくれぬのだ? そなたもまた、我を愛してはくれぬと言うのか?』
アーカバルは深く暗い闇の底で、煩悶した。望んでも求めても、己のモノにはならない存在。追い求め、恋焦がれてもなお、手に入れる事の出来ない存在。しかも相手は、自分を敵として狩る者となった。
身動きのとれぬ闇の中で、アーカバルは想う。
己が「破壊」を司る属性を持つ者であるから、誰にも必要とされないのか? 望んで神として生まれた訳ではない。自身で属性を選べるのならば、もっと違うモノになりたかった。
何も生み出さない、己の力。だからこそ存在を疎まれ、“世界”を追放されたのか? 誰からも欲されない、こんな力。なくせるものならば、なくしてしまいたい。いっそ、神の力など捨て去り、ただの「人間」として生きてゆく事が許されるなら。人であれば、彼かが自分を愛してくれるだろうか?
誰でもいい。この広大な、果ての見えない宇宙のどこかに、一人でいい。たった一人でいいのだ。自分を心から愛してくれる者がいれば。
新しく生まれたばかりのこの“世界”であれば、自分を受け入れてくれるのではないかと、淡い期待を抱いた己が甘かったと言う事か。
手探りで暗い宇宙をさまよっている時、まるで自分を招いているかのように輝いていた、誕生したばかりの新しい“世界”。
引き寄せられるように“世界”に降り立ってみれば、そこにも自分の居場所はなかった。
生まれたばかりの大地。生まれたばかりの空。海、風、星。輝く太陽と月。あふれる生命。そこでは「死」すらも忌むべきものではなく、巡る命の一環として存在していた。
ならばなぜ、「破壊」を司る自分を受け入れ、認めてはくれないのか。存在に意味がないのなら、どうして自分はここにいるのか。
“世界”が己の敵であると感じた瞬間、どうにもならない程の怒りと哀しみがこみ上げてきた。
『なくなってしまえばいい。我を受け入れぬのならば、消えてしまえ!』
荒れ狂う心のままに、暴走する力によって“世界”は軋みをあげた。夢神エルキリュースの介入があと僅かでも遅ければ、誕生間もない脆弱な“世界”は宇宙に生じた亀裂に呑み込まれ、跡形もなく消え去っていた事だろう。
宇宙の意志を受けて“世界”を創り出したエルキリュースによって、アーカバルは封じ込められた。破壊の神を封じるために、夢神は彼を“世界”に組み入れ、彼の生命と力と魂を引き裂いたのだ。
深い深い闇の底で耐えてこられたのは、あの輝かしい魂の誕生を知っていたからだ。己を追い詰めた神としての力が、アイヒナの誕生を予見させたのだ。
やがてこの世に生まれ来る、神をも魅了する魂の持ち主。果てる事のない闇の牢獄に封じられながら、アイヒナの誕生を待ち焦がれた。
『彼女に会いたい』
『彼女に愛して欲しい』
『彼女なら自分を認めてくれるかも知れない』
『彼女が欲しい』
『彼女が欲しい』
『彼女が』
『彼女が』
『彼女が』
待ち焦がれて、恋焦がれて、焦がれて焦がれて焦がれて焦がれて──。
アイヒナ、という存在がこの世に生を受けた瞬間、アーカバルは全身を貫く歓喜に震えた。
だがその喜びも、長くは続かなかった。何故なら、夢神エルキリュースがアイヒナを己の巫女と定め、あまつさえ、アーカバルを追う者として差し向けて来たのだ。
『奪われた!』
『我のものであったのに! 我のものになるはずであったのに!』
『奪われた! エルキリュースが、我より奪ったのじゃ!』
闇の獄の底で、アーカバルは狂ったように暴れた。夢神を呪い、夢神の生み出した創世の神が身を呪い、世界を呪った。
アーカバルの想いは、封じられた檻の中で変質していく。
奪われた対象が大きければ大きい程、大切であればある程、アーカバルの想いは歪んでいった。
『我を追うと言うのであれば、どこまでも追って来い。我は逃げも隠れもせぬ。我は待って待って待ち続けた。この先も、我はそなたを待ち続けよう。我を追って来い、想い人よ。そなたが我に辿り着く日を楽しみに待てば、時が流れる事も苦にはなるまい』
やがて、アーカバルに解放の日が訪れた。滴る程の恨みを抱えた人間の娘、カーティである。
アーカバルの封じられていた結界は、永い時間の末に風化・劣化が進み、わずかな衝撃で崩れようとする寸前だった。そこに偶然か必然か、カーティが恨みのこもった血と呪詛の言葉を与えたのだ。
『運命は我に味方しておる。さあ、世界と神々に復讐を始めよう。追って来るが良い、夢織りよ。我は常に、そなたの前にいるぞ。そして、そなたが我に追いつくのを待つ。だが、そなたが我を捕らえるのではない。我が許に辿り着いた時こそ、夢織りであるそなたはエルキリュースの支配下を逃れ、我の愛しい想い人として永遠を共に生きるのじゃ』
そう想い続けて、今日まで来た。様々に策を弄し、人間達から精気を奪い、力を蓄えてきたのだ。
手足として働く夢魔達によって、多くの力を取り戻す事が出来た。後は瑰国の玉座より王家直系の者を排除し、夢神により裂かれた己の欠片を得られれば。そうすれば、破壊神として復活する事が出来たのに。
四つある玉座の封印を壊すまでもない。瑰、継、栖、涛の四国にある、いずれか一つの封印でいい。四つに砕かれた己の体の上に築かれた宮城。それらのうち、一つでも封印が解放されれば、アーカバルは復活する事が出来るのだ。
今、瑰国の玉座は目の前にある。己が復活するための四つの封印の一つ。本当に、あと少しなのだ。
「ここまで──ここまで来て──」
アーカバルは歯ぎしりする。だがアイヒナのまとう正常な圧力に負けて、体が言う事を利かない。
なぜ、こんな事に?
追い求めてきたモノを2つとも手にする事の出来る、千載一遇の好機だと言うのに。
ようやく己の望みが叶う、その日だと言うのに!