30章 パーティルローサ・聖と邪の真実
なぜ、アーカバルは執拗にアイヒナを追い求めるのか?
邪神が本当に求めたものは、何だったのか?
そして、アイヒナがトウージュにひた隠す「真実」とは?
「アーカバル……」
カーティと言う肉体の器を失って、ようやく邪神の本体が姿を現した。
「傷と苦痛までは持って行っては、くれなかったようだな。もっともその傷は、お前の魂に刻まれたものだ。他の誰も身代わりにはなれない」
ユラリと足を踏み出したアーカバルに、アイヒナが言葉を投げかけた。立ち上がったトウージュをかばうように、今度はアイヒナが前に出る。
「我から器を剥ぎ取るとは、な。それも、何の力も持たぬ人の子が、言の葉だけを頼りにやってのけるとは。どうやら我は『人間』という存在を、過小評価していたらしい」
「ああ、そうだな。お前は人間の力を知らな過ぎる。人は何も出来ぬ存在だと、決めてかかっていただろう?」
邪神からかけられた言葉に、トウージュはニヤリと笑ってみせた。
「認めよう。人間とは何の力もない、卑小なモノだと思っていたは、我の間違いであった。だが、あまりいい気にならぬ方が良いぞ。我から器を奪った程度で勝った気になっておると、痛い目を見るからの」
傷を隠す事もなく、崩れた顔を歪めてアーカバルは嘲笑う。
「そんな事、思ってはおらぬよ。トウージュ殿がここまで頑張ってくれたのじゃ。これより先は、吾と主殿の仕事よ」
黒髪をうねらせ、鋭い犬歯を覗かせながら闇姫がうなった。
「トウージュ……」
視線をアーカバルから逸らさず、背後にいるトウージュにアイヒナは声をかける。
「おいおい。ここまで来て、逃げろとか言うのはナシだぜ」
聞こえてきた返事に、クスリと笑う。
「まさか。だが危険な事に変わりはない。私から離れるなよ」
「ああ、ずっと側にいるさ」
背中から温かい何かが、体の中に流れ込んでくるような気がした。大丈夫だ。自分はまだ、立っていられる。大切な者を守るためなら、自分はどれだけでも強くなろう。
「さあ、始めよう、アーカバル。器を失ったお前も、そう長くは世界に留まってはいられないだろう」
先程アーカバルの爪に貫かれた左手の指を動かしてみる。ジクジクとした痛みがうるさいが、筋は傷付いていないようだ。これならば、印を結ぶのに支障はないだろう。
「闇姫!」
自身の相棒へ向かって右手を差し出す。主人の意志を汲み取って、闇姫は黒い剣に姿を変じる。柄頭にはめ込まれた宝石が紅く煌めく。
「我を倒せると本気で思うておるのか? 数ヶ月前ならばいざ知らず、今の我は夢魔達の集めた人の精を喰ろうて、力を蓄えておるぞ。所詮は人の子であるそなたらが、神である我に適うはずもない」
何もない空間から巨大な剣を掴み出しアーカバルが不適に笑う。出現した剣の刀身は、邪神の瞳と同じ血塗られた赤。闇姫の剣とは対照的に、柄頭にあるのは漆黒のオニキス。
「人の力を甘く見るのは、やめるんじゃなかったのか? 最初から決め付けてかかるな。やってみなくては判るまい」
ドラムーナの剣を振って空を斬る。チャキッと音を立てて正眼に構えるアイヒナを見て、アーカバルも剣を握る手に力を入れた。
「実際に経験せねば、彼我の差を認識する事も出来ぬとは。その時点で既に、我の勝ちは決まったようなものよ!」
手にした巨大な赤剣を一振りすると、予備動作もなしにアイヒナに向かって間合いを詰める。
「あれ程、我のものになれと言うたに。頑なに拒むそなたが悪いのじゃ。我の意を入れぬと言うのなら、他の誰かのものになるというのならばもう良い。手に入らぬのならばいっそ、我の手で壊してくれる!」
鋭く斬り込んで来るアーカバルの叫びは、なぜだかアイヒナには切なく響いた。頑是無い幼子が、母の手を求めて泣きじゃくるような。両の掌から零れ落ちた水を嘆く、砂漠の民の渇きにも似て。
刃を合わせるたびに、激しく火花が散る。黒と赤の刃が交わり、小さな雷のように火花が開くごと、石造りの謁見の間の温度が下がっていく気がした。
トウージュは知らず自身の肩を抱く。吐く息が白く曇っている。足許の大理石に冷たく霜が降りる。
「なぜじゃ? なぜ、我を受け入れぬ? なぜ、我を拒むのじゃ!?」
振りかぶった剣をドラムーナの剣に叩きつけながら、斬撃よりも激しく問いをぶつける。
「お前の想いはな、アーカバル。相手の気持ちを完全に無視して、自分の言い分だけを一方的に押し付けるだけのものだろう!」
赤い刀身をかわし、防ぎ、相手の隙を見つけて黒い刃を繰り出しながら片手で印を切る。
「来たれ、月神。夜空を統べる光もて、剛き鎖を紡ぎ給え」
空を薙いだアイヒナの剣から、白銀に煌めく細い鎖が幾重にも流れ出る。彼女の振るう腕に従って、アーカバルの手や剣に絡みつく。
「先程のようには、いかんぞ」
素手で易々と引き千切れそうな見かけを裏切り、その鎖は鋼の強さでアーカバルの動きを封じる。
「火神。 炎獄の王よ 我に依りて力を顕せ」
月神リュスの白銀に染まったアイヒナの長い髪に、火神ネフティの赤が現れる。それに合わせて、剣を握るアイヒナの手に高温を示す青白い炎が生まれた。
「疾れ!」
夢織りの言葉を受けて、炎は白銀の鎖がつないだ道を疾る。
「見事なものだ。しかし、まだまだよ」
口唇を吊り上げて哂うと、片足で大理石の床を踏み鳴らしたアーカバルの影が大きく広がる。音もなく面積を広げた黒い穴から、アイヒナに向かって無数の槍が飛来した。
「アイヒナッ!」
彼女の背後から、思わずトウージュが叫ぶ。
アイヒナは瞬時に判断し、迷わず月神と火神の力を切り離して印を組み直す。
「大地母神! 世界を構築する女神よ!」
夢神に捧げられた巫女の髪の色が、目まぐるしく変化する。銀と赤に染まった夢織りの髪が、新緑の色に染まる。
見開かれた瞳に影槍が届く寸前。アイヒナの足許の大理石が盛り上がり、視界を遮った。鈍い音を立てて、大理石の壁が影槍を弾く。
「大地母神よ 我に加護あれかし!」
素早く印を結び、アーカバルの足許を指した。巫女の言葉に従い、邪神の真下、影の落ちていた部分が唐突に崩れる。一瞬バランスを失い下肢に力を込めたアーカバルの両足を飲み込み、大理石がガッチリと固まる。
「くっ──」
動きの止まった邪神に向かって、アイヒナは上段からドラムーナの剣を振り下ろす。
謁見の間に鋼のぶつかる音が響き、幾多の火花が飛び散った。ギリギリと刃を合わせて、アイヒナとアーカバルの視線が交差する。
「なぜじゃ? なぜに、これ程まで我を拒むのじゃ? そんなにあの男が愛しいのか? あの瑰国の王弟が、そなたの事をどれ程知っておると言うのじゃ?」
食い縛った歯の間から押し出すように、苦々しげにアーカバルが言う。
「ならばお前が、私の何を知っていると言うのだ? 私の心の裡までも、お前に判るとでも言うのか?」
返すアイヒナの声は静かだ。だが対照的に、腕にこめられた力は揺るがない。
「ああ、判るとも。我とそなたは、追い追われる者同士。まるで想い合う恋人のように、そなたの心は我が手の中じゃ。そなたが本心では神々を憎んでいる事も、瑰国の王弟に隠しておる事もな!」
わずか、ほんのわずかだけ、アイヒナの瞳が揺れる。
「そこな男はもう知っておるのか? 夢織りよ、そなたが子を成せぬ身である事を。神に愛されたと言えば聞こえは良いが、人とは違う体を与えられた、人とは相容れぬ存在ではないか!」
滴る悪意に満ちた視線を、心配そうな顔でこちらを見つめるトウージュに向けた。
「人の子よ、瑰国の王子よ。お前は知っているのか? お前の知る、この『アイヒナ』と呼ばれる者の抱える秘密を? この夢織りがひた隠す己の秘密を?」
「アイヒナの秘密?」
柱の陰にいたトウージュは、アーカバルの問いに、いつか聞いた闇姫の言葉を思い出す。
『主殿が、お主に隠している事もある。だが主殿を信じてやって欲しいのじゃ』
自分はあの時、何と答えたか。
『心配するな。アイヒナはアイヒナだ』
腹に力をこめ、トウージュはアーカバルをにらみつけた。
「見損なうなよ。俺は何があっても、アイヒナを信じると決めたんだ。お前の言葉ごときで──」
「己の想う者が、何者かも知らずにか? 子を成せぬと言った、本当の意味が判っているのかや? この者はな、夢神の娘にして息子。文字通り『性』を持たぬ者よ!」
力任せにアイヒナの黒剣を跳ね上げ、崩れた半顔を歪め、醜怪に嘲笑う。
「男であり女であり、男でなく女でもない。それが夢織りの、この者の正体じゃ! 神々に従う素振りを見せながら、その実、己から何もかもを奪い取った神々を激しく憎む。所詮は神の力を依らせるだけの器、ただそれだけのために生まれて来た者、人であり人でない者!」
三日月の形に唇を吊り上げ、悪意のままに赤剣を振り下ろす。室内に満ちる冷気が更に密度を増したような気がする。アイヒナの気が緩んだ一瞬の隙をつき、アーカバルは大地母神の戒めから逃れる。
邪神の狂気をはらんだ剣を受けるアイヒナの腕がしびれる。剣戟を防ぐたびに、夢織りの体が重くなっていく。
いや、違う。体に受ける衝撃ではない。心に直接打ち込まれているのだ。アーカバルの狂気と悪意とが、彼女の心に流れ込んでくる。
だが、それだけではない。もっと、何か──。掴めそうで、掴めない。
「ならばなぜ、我の想いを拒む? 創世の神々の力を依らせるための器ならば、神である我と我が力を受け入れよ! そのためにこそ、そなたはこの世に生を受けたのではないか!」
「くっ──。勝手な事を言うな! 私の歩んで来た道は、私が決め、私が選び取ってきたものだ。お前にとやかく言われる筋合いは、ないっ!」
次々と印を組み、剣戟の隙を狙って水神や風神の力を発動させるが、激しく繰り出されるアーカバルの攻撃と、凍った床の予想以上の状態の悪さに苦戦する。
アイヒナと邪神の目まぐるしい攻防を視線で追いつつ、トウージュはもたらされた情報を処理しようと必死に頭を回転させていた。
『男であり女であり、男でなく女でもない』
それは一体、どういう人間なのだ? 果たしてそのような者が、この世に生まれうるのだろうか? いや、そもそも『人間』なのか? 子を成せぬと言うだけならば、様々な理由があるだろう。現に兄コルウィンと義姉アイナセリョースの問題を間近に見てきたトウージュだ。理解が及ばない訳ではない。だが『性を持たぬ』とは、どう言う事なのだ?
自身の理解の範疇を超えた事象に、トウージュは動く事が出来ない。ただ呆然とアイヒナの動きを追っているだけだ。
「それが……それが、アイヒナの隠していた秘密……」
無意識に思いが口を突いて出る。彼の言葉が聞こえたのか、どうか。わずか──ほんの一瞬だけ、トウージュとアイヒナの視線が交わる。
「──っ!?」
時間にして数秒。だがトウージュには無限の時が流れたような気がした。
『姉巫女達に、神威の名を借りた化け物──と呼ばれておったよ』
闇姫の声が蘇る。
『何だよ、お前の方が化け物じゃないか!』
怒りのままに投げ付けられた、ウェインの声を思い出す。
『そう呼ばれる事には、慣れている』
旅の途中、トウージュに告げたアイヒナの、全てを諦めた寂しそうな顔。
今、彼と視線を交わしたアイヒナの顔は、あの時と同じ表情だ。トウージュが彼女にさせたくないと思っていた、させてはいけないと思っていた、あの寂しそうな哀しそうな顔を自分がさせてしまった。
夢も自身の人生も投げ出して、世界を守ろうと闘っているアイヒナを助けたいと、ひたすらに、傷付く事を厭わずに歩き続ける彼女の側にいたいと、そう思ったのではなかったか。何を迷う必要があるのだ? 誰よりも血を流して闘い、痛々しく傷をさらしてもなお、気高く立つアイヒナをこそ愛しく思ったのではなかったのか?
真上から振り下ろされたアーカバルの剣を防ぎ、力を流そうと体を開いた瞬間、凍った床でアイヒナの足が滑った。
「あっ──!?」
体制を立て直す間もなく、アイヒナが大理石の床に倒れる。
「我を受け入れよ! さもなくば、ここで死ぬが良い!!」
薙ぎ払われた邪神の剣が、赤い軌跡を描いてアイヒナに迫った。
「アイヒナ!」
叫んだのが先か、動いたのが先か。
アーカバルの渾身の一撃を受け止めたのは、瑰国王弟の剣だった。
ビリビリと全身が震える。少しでも気を抜けば、吹き飛ばされてしまいそうだ。
(こんなに重い剣戟を、彼女は受けていたと言うのか──?)
歯を食い縛って衝撃に耐えた。
勝利を確信し、喜びの色すら浮かべていたアーカバルの表情が、みるみる変化する。自分のモノだと思って伸ばした手の先から、大切な宝物を奪われた子供のような。抱き締めてもらえると信じていた母親から、その手を拒絶された幼児のような。
「なぜじゃ? なぜお前が夢織りを助ける? その者は、お前とは相容れぬ存在。添い遂げたとしても、子を成す事は出来ぬのだぞ? それでもお前は、男でも女でもない者を守ると言うのか?」
「さっきから聞いてりゃ、子供だの男だの女だのと、同じ事ばかりクドクドと。それが貴様の切り札か、アーカバル? だったら残念だったな。俺は以前、俺の持てる全てにかけて闇姫に誓ったんだ。何があっても、アイヒナを信じる。自分の惚れた女を、守るってな!」
アーカバルの剣を弾き返し、にらみつけたままアイヒナに手を伸ばす。そっと掴まれた手を強く握り締めると、引き上げる。
「大丈夫か?」
「ああ、私なら大丈夫だ」
答えながら、アイヒナはトウージュの横顔から目が離せないでいる。
「だけど、どうして? 私はトウージュ殿にずっと本当の事を隠して──」
「秘密を知ったからって、それが『アイヒナ』である事に何か差し障りがあるってのか? 俺は一緒に旅をして、自分の目で見て来たアイヒナを信じるだけさ」
寄り添う二人の姿に、アーカバルがフラリと後退る。
「なぜ──なぜじゃ?」
「神であるはずのお前にも、判らない事があるんだな、アーカバル」
大切な夢織りの手を握ったまま、トウージュは邪神に言った。
「簡単な事だよ。俺はアイヒナを大事に想っている。それは、彼女の容姿とか力とか体の事とか、そんなモンは関係ないんだ。彼女が彼女である事、それだけなんだよ」
ヨロヨロと後退りながら、アーカバルは片手で顔を覆う。
「なぜ、誰も彼も我を拒む? なぜ、我を愛そうとはせぬ? 我の想いを、どうして受け入れてはくれぬ? これ程そなたを求めておるのに、なぜ、何の力も持たぬ人の子を選ぶのじゃ? 神である我ならば、そなたの願いを叶えてやる事も出来ようと言うのに」
「無理だ」
うわ言のように紡ぎ出されるアーカバルの言葉を、夢神の巫女は一刀両断にする。
「なん──じゃと?」
「無理だ、と言ったのだ。お前には、私の願いを叶える事など出来はしない」
「わ、我は神ぞ。叶えられぬ事など……」
「私の願いは夢魔共と、その元凶であるお前がいなくなる事だ。これを叶えられるのか?」
「我がいなくなる事──。それ程までに、我を拒むと言うのか?」
アーカバルの手から、巨大な赤剣が滑り落ち、床の上で虚ろな音を立てた。震える両手で顔を覆い、かすれた声を絞り出す。
「なぜ、誰も我を愛さない? そなたまでも我を拒む。こんなにも、そなたを愛している我を!?」
血を吐く程の叫び。求めるものが永遠に手に入らぬと知った者の、絶望。親に置いていかれた幼児の、悲しみ。
「エルキリュースの巫女よ、夢織りよ。我を受け入れてはくれぬのか? 我を愛してはくれぬのか? 我が愛しき想い人よ」
顔から離した両手を広げ、アーカバルはアイヒナに問う。それは懇願にも似て。
「そなたが望むなら、世界をやろう。我の支配する新しき世界で、神の花嫁として未来永劫、幸せに生きて行けようぞ。エルキリュースにより奪われたものの全てを、そなたに与えてやろう。夢も眠りも、女としての『性』も。そなたが望む事ならば、その全てを我が与えよう。我が許へ来よ、想い人」
何と言う甘い誘い。だが、かけられる言葉に乗った必死さが、アイヒナの頭をより冷静に冴えさせていく。
「お前がどれだけ甘言を弄そうと、その言葉は私には届かない。お前は、私が子を生めぬ両性である事を神々の呪いの如くに言うが、人として幸せになれる方法を私は知っている。私を育ててくれた義母メルベリッサが、その身をもって教えてくれた。神殿の前に捨てられていた私を、自分の娘として育ててくれた。己の生んだ子ではなくとも、慈しむ心は同じと愛を注いでくれた義母の姿を思えば、我が身の事など、どれ程の事があろうか」
静かに開かれたアイヒナの手から、音もなくドラムーナの巨剣が滑り落ちた。彼女の影に突き立った黒剣は、そのまま影に沈む。柄頭の紅玉が影に沈んで数秒。アイヒナの影から現れたのは、黒髪に紅眼の闇姫だ。
「私はもう、お前の言葉に惑わされたりしない。お前の言葉は全て、お前自身を鎧うためのものだ。お前が求めたのは、私の愛でも心でもない。自分の力を効率良く使うために、私と言う器が欲しかっただけなんだ」
アイヒナとアーカバルの言葉のやり取りを聞いていたトウージュは、少しだけ違和感を感じる。
邪神が夢神の巫女をあんなにも欲したのは、本当に『器』としてだけなのだろうか? 彼には、もっと何か違う気がした。
「違う! そうではない! 我は、そなたをこそ欲しているのじゃ。なぜ、我を見ようとせぬ? どうして誰も、我を愛してはくれぬのじゃ!?」
アーカバルの絶叫。そしてトウージュは理解する。確かに──。
「確かにお前は、アイヒナを愛している」
唐突なトウージュの言葉に、アイヒナもアーカバルも同様に驚きの視線を寄越す。自分でも判らない衝動のままに、トウージュは言葉を続けた。
「確かにアーカバルは君を愛しているんだよ、アイヒナ。でもそれは、やはり歪で間違っている。アーカバル、お前の愛は自己完結しているんだよ。愛してもらうために愛するのは、結局のところ、自分しか愛してないって事だ」
「愛してもらうために──愛する? どういう意味だ、トウージュ殿?」
「簡単な事だよ。そう、簡単な事だったんだ。こいつは最初から、ずっとそう言っていたんだから」
呆然と立ちすくむアーカバルに、トウージュは語りかけた。不思議と、神と対峙しているという意識はなかった。今、目の前に立っているのは、不器用な愛を口にする一人の男だ。
「アーカバル。お前は方法を間違えたんだ。人は誰しも、好きになって欲しいからって好きになる訳じゃない。誰かを好きになるのに、理由も理屈も必要ないんだよ。相手の生き様に触れ、感じる事で心が揺れたら、それが好きだって事だ。好きな相手には、好きになって欲しい。それは真実だ。だが、最初から自分の気持ちを押し付けるお前のやり方では、誰の心も動かす事は出来ない」
自分の愛した人が自分を見てくれたら嬉しい。誰でもない。自分だけを見て欲しい。そう思うのは当たり前だ。
「皆なぁ、自分の好きな相手に好きになって欲しくて、自分を愛して欲しくて、努力するんだ。お前はアイヒナの事を想っているとか、愛しているって言うが、彼女に想いを返してもらうだけの努力をしたのか? ただ自分の想いだけを一方的にぶつけて、何の努力もせず、それでいて彼女が自分を愛してくれないと責めるのか?」
「うる──さい。うるさい、黙れ! 黙れ、黙れ、黙れぇぇぇっ!!」
トウージュの言葉に追い詰められたのだろう。髪を振り乱して、アーカバルが叫んだ。焼け爛れた半顔を醜く歪め、血のように赤い瞳から滂沱の涙を流し、アーカバルは身悶える。
「我はいつも一人だ。誰も、我を必要としない。誰も、我を見ようとせぬ。誰も、我を愛さぬ。我を認める世界など、いらぬ! 我を受け入れぬ世界など、壊れてしまえ!」
世界を呪う言葉を吐き続ける邪神の姿は、溢れ出した狂気に彩られ、陽炎の如くに揺らめいて見えた。
だがアイヒナには、孤独に震える幼い子供に見えた。道を見失い、途方に暮れた子供。
「壊してやる、このような世界! 我を受け入れぬのなら、我がこの手で壊してやるまでだ!」
アーカバルの全身から、黒い霧が噴き出した。渦を巻く邪神の瘴気が、謁見の間に広がっていく。空気中の水分が凍ったものだろう。アイヒナ達三人の体に氷の礫が容赦なく打ち付ける。
「主殿、吾を……」
闇姫がアイヒナに訴えるが、視線だけでそれを制する。髪を逆立て、血の涙を流しながら、世界を呪う言葉を吐き続ける邪神を見つめる。
飛来する氷の礫によって、アイヒナの衣は引き裂かれ、白い肌にいくつもの傷をつけた。物質的な力を持って荒れ狂う瘴気は膨れ上がり、パーティルローサの建物全体がビリビリと音を立てて揺れる。その中心でアーカバルが叫ぶ。
「我はただ、誰かに愛して欲しかっただけだ。誰かに見て欲しかっただけだ。それすらも叶わぬと言うのなら、世界などいらぬ! この次元、この宇宙にある全ての世界を滅してくれる!」
だがその姿は、しゃがみこんで泣きじゃくる子供のように、アイヒナには見えた。
「アーカバル、愛を知らぬ子供よ。道を違えた、もう一人の私よ。義母がいなければ、闇姫がいなければ、そしてトウージュ殿がいなければ、きっと私も世界を呪っただろう。全てを奪われ、さらに己の進むべき道までも決められ、神々を呪ったまま身も心も怪物に成り下がっただろう。私の目の前にいるお前は、愛を得られなかった、もう一人の私だ」
荒れ狂う氷礫と瘴気の渦の中心へと歩みを続けるアイヒナに、トウージュは警戒の声をあげた。
「駄目だ、アイヒナ!」
険しい視線で彼女を見つめるトウージュに、そっと微笑みを返す。
「大丈夫だよ、トウージュ殿。アーカバルは私を傷付ける事は出来ても、命を取る事までは出来ない。私とアーカバルは、同じカードの裏表。絶対に向かい合う事のない裏と表の存在だからこそ、アーカバルは私を求め、私はアーカバルを憎んだ。私にこの運命を与えた神々を憎んだのと、同じだけの強さで」
再び邪神へと歩み寄るアイヒナに手を伸ばしかけ、それを闇姫に止められた。
「主殿の好きなようにさせてやってくれぬか、トウージュ殿よ」
「だが、闇姫──」
紅玉の瞳が、何とも言えない色を湛えてトウージュを射た。
「もう、吾にもお主にも止められぬ。アーカバルを何とか出来るのは、主殿だけじゃ。悔しいが、吾も見ておる事しか出来ぬ」
そう。自分などより、闇姫の方が何倍もやり切れぬ思いだろう。ドラムーナである闇姫の使命は、バフォナを滅する事であり、アーカバルを倒す事。主であるアイヒナを守り、支え、武器となる事。主のための盾にも剣にもなれぬ現状は、彼女にとってどれ程苦しい事か想像に難くない。朱唇を噛み締め、拳を震わせる闇姫の姿にトウージュは返す言葉を持たない。
「闇姫──」
そんな闇姫に向かって、アイヒナが後姿で語りかけた。
「今まで私に付き合ってくれて、本当にありがとう。感謝しているんだよ」
「──主殿、それではまるで、今生の別れのように聞こえるぞ」
「そうか? 大丈夫だ。心配するな。まだ、この生を手放す気はないからな」
笑いを含んだ声で答えると、わずかに背後を見やって続けた。
「トウージュ殿、貴方にも礼を。貴方の言葉で、私にもようやく理解出来た。目の前にいるのは、愛を知らないもう一人の私なんだと。貴方が信じてくれたから、私は道を違えずに済んだ。ありがとう」
止める事なく進められたアイヒナの足は、アーカバルの正面にあった。流れる銀の髪は邪神の巻き起こす瘴気にあおられ、おどろに乱れている。氷の礫に裂かれた肌には、数多の傷が開いていた。
天を仰いで世界を呪っていたアーカバルの赤眼が、エルキリュースの巫女を捉える。
「邪神と呼ばれ、この世の愛を欲しながらも拒絶されし者よ。お前の心は、余りにも幼いのだな」
「何が言いたい、夢織りよ?」
狂気を宿したアーカバルの瞳が、アイヒナの金色の瞳をにらみつけた。だが、そんなアーカバルに臆する事なく、彼女はさらに一歩近寄る。
「寄るなっ!」
真正面から自分に向かってくる夢織りに気圧されたのか、アーカバルが退く。
「何を恐れる? 私が欲しいのだろう?」
息を詰めて見守るトウージュと闇姫の目の前で、アイヒナとアーカバル、二人の闘いの結論が出ようとしていた。