29章 カーティ・秘された過去
邪神との戦いの最中、トウージュは語り出す。
アーカバルに器として体を奪われたカーティの過去。
瑰国内に病が広まった本当の理由を。
顔の半分を醜く焼かれた姿で、アーカバルがユラリと立ち上がる。
「よくも──よくも神である我の顔に傷を──」
ふらつきながらも邪神と対峙しようとするアイヒナをかばい、トウージュが歩み出た。
「カーティ、聞こえるか?」
彼が声をかけたのはアーカバルではなく、彼の神に器とされた女性。
「カーティだと? 貴様の声など届くはずもなかろう。この娘の魂など、とうの昔に滅しておるわ」
憎々しげに言葉を投げつけてくるアーカバルに、トウージュは鋭く怒鳴った。
「うるさい! お前に用はない。俺はそこにいるホステルの工匠バンクスの娘、カーティに話をしてるんだ!」
なぜだろう。トウージュの言葉に、アーカバルの動きが止まったような気がした。
「聞くんだ、カーティ。いや、聞いてくれ。ホステルに行って、君のお父上の事を調べて来たよ。ギルドでお父上と一緒に働いていたという方から、話を聞いた」
背中にアイヒナをかばいながら、トウージュは話を続ける。
匠都ホステルの老人は、トウージュに語ってくれた。
かつて工匠ギルドの中で「名人」「天才」の称号を欲しいままにした男がいた。男の手にかかれば、どのような原石であれ美しく姿を変える事が出来た。実際、他の者がクズ石として見向きもしなかった原石を組み合わせ、誰もが目を見張るような品物を作り上げた事もあると言う。
男は実に勤勉で、日々研鑽を怠らなかった。性格は穏やかで人望も厚く、近所の人からもギルドの仲間からも慕われた。
だが男が真面目に働き、信用を得れば得る程、その台頭を快く思わぬ者達が現れ始めた。工匠ギルドを仕切っていた者達である。
当時ホステルの工匠ギルドは、一部の世襲制組合員達が実験を握っており、玉石の仕入れ価格や加工品の取り引き価格を操作し、私腹を肥やす輩も多かったようだ。
そんな中で、男の真面目な働きぶりと見事な加工の腕前から、ギルドの役員にと推す声が挙がり始めた。もしも男がギルドの中枢に入り込み、実権を得たとしたら。工匠達に人望の厚い男の事である。自分達の地位は危うくなるかも知れない。そうなれば甘い汁を吸う事も出来なくなるだろうし、下手をすれば不正がバレてギルドを放逐されるかも知れない。
役員職に就いていた者達は、密かに男を陥れる計画を練り始めたのだ。
そんな折、名人と名高い男の許にある注文が舞い込んだ。
『国王と王妃の玉座に、対となる宝飾品を作って欲しい』というものだった。
男の作った玉石飾りを目にした国王が、作りの繊細さ、加工の美しさをいたく気に入り、直々に注文してきたのだ。男は突然の話に大層驚きながらも、身に余る光栄だと注文を引き受けた。この事が、男の運命を決定づけてしまったのだ。
本来であれば、仕事の受発注は全て工匠ギルドを通す仕組みになっている。だが国王からの注文は、ギルドを通さず直接男の所へ持ち込まれた。並みの相手ではない。この瑰国の国王なのだ。従来のやり方を無視したからと言って、文句のつけようもない。しかしその事が、男の失脚を虎視眈々《こしたんたん》と狙っていたギルドの役員達に、かえってつけ入る隙を与えてしまったのだ。
男は吟味に吟味を重ね、手に入る中で最も質の良い玉石を選び出し、持てる技を全て駆使して素晴らしい細工を作り上げた。
極上の原石から二つの玉を削り出し、金銀を使い、紅玉、碧玉、緑柱石を用いて生み出されたのは、美しい雌雄の鳳凰を象った細工。ホステルの、いや瑰国の誰にも真似できない仕上がりだった。
品物を王宮に献上する期限が間近に迫ったある日、男の家に工匠ギルドの役員と司法官直属の黒官がやって来た。献上するはずだった品物を取り上げ、黒官は手にした書簡を読み上げる。内容は『横領罪』。王宮から支給された金を着服し、質の劣る玉石を使ったというものだ。王族に対する『不敬罪』。国王をだまそうとした罪。
男には身に覚えのない事ばかりだった。彼は必死に自分の無実を訴えたが、聞き入れられる事はなく、罪人として投獄された。ギルドの掟で、罪を犯した工匠は二度と道具を持てぬように、利き手を潰される。男も掟に従い、右手を使えぬように潰されて牢に入れられてしまった。
男の作った細工は、ギルドの役員達によって王宮に納められた。男の名は一切出されず、手柄全てを自分達のモノとして。
『横領』は役員達がデッチ上げたもの。仕事に必要な書類を捏造し、男を罪に陥れたのだ。注文が工匠ギルドを通したものであるなら、多くの目が書類をチェックする。いくら役員達であっても、勝手に内容を操作する事は出来なかっただろう。男の許に直接持ち込まれたものだったからこそ、相手にもつけ入る隙があったのだ。
依頼を受けた男ではなく、ホステルの工匠ギルドから品物が献上された事について、王宮内でも様々な憶測が飛び交った。だが王宮と言えども、ギルド内の事柄に軽々しく口を挟むことは出来ない。それ程までに、ギルドの持つ力は大きかったのだ。結局、真相が明らかにされぬまま、珠春宮の二つの玉座には双子の玉石を抱いた鳳凰が飾られる事になった。
一方、男は獄中から無実を叫び続け、男の妻も夫の無実を信じて何度も黒官の許へ赴いた。だがそれらの訴えはことごとく黙殺され続け、投獄は五年に及んだ。
自分を疎ましく思う者達の策略にはまった男は、過酷な牢内の生活で体調を崩し、獄中で病死した。病に倒れても医師も薬師も呼ぶ事は許されず、死して尚、埋葬する事さえ許されなかった。男は誇りと尊厳を剥奪されたまま、獄中で無念の死を遂げたのだ。五年間、夫の帰りを待ち続けた妻も心労がたたって体調を崩し、そのまま回復する事無くこの世を去った。
しかし、一家の災難はこれで終った訳ではなかったのだ。罪人の家族と言うことで、妻の遺体も墓地へ埋葬する事を拒まれ、夫婦共に荒地へ放置される事となってしまった。
夫婦には一人娘がいた。美しく育った娘は夫婦の自慢の種でもあった。一人遺された娘は両親の無念を思い、自分だけで父母を荒地に埋葬した。健気に生きようとする娘の心を打ち砕いたのは、やはりギルドの者達だった。無理矢理に娘を屋敷へ連れ込み、囲い者にしようとしたのだ。
激しく抵抗する娘に、相手は笑いながら告げた。
『お前の父親は、自分達の策略によって死んだのだ』と。
『力のない者は、力ある者に黙って従っていれば良いのだ』と。
『力を持たぬ者が台頭しようとするから潰されるのだ』と。
それらの言葉の一つ一つが、娘の心を打ち砕いた。怒りと絶望に支配された娘は、相手の隙を見て屋敷を抜け出し、ホステルの街から逃げ出した。
「その後、娘の姿は匠都ホステルから消え、再び人前に姿を現した時には、以前とは全くの別人となっていた」
トウージュの長い語りが終わった。アーカバルは動かない。不思議とその顔には、何の感情も浮かんでいないように見える。
「トウージュ──その娘というのは──?」
背中からかけられたアイヒナの問いには答えず、トウージュは真っ直ぐに邪神を見た。いや、正確には邪神アーカバルに魂を奪われた哀れな娘を。
「無実の罪でこの世を去った男の名は、バンクス。匠都ホステルで、いや、瑰国で一番の工匠と謳われた男だ。妻の名はティニー、娘の名は──カーティ。父親譲りの砂色の髪と母親譲りの美貌の持ち主だ」
バンクスの名が出た瞬間、アーカバルの──器であるカーティの眉がわずかに動いたような気がした。
「何のつもりかは知らぬが、もはや手遅れよ。この娘は強く『力』を求めた。無力であったがために命を落とした両親を思い、自分達を陥れた仇を思い、我に力を求めたのだ。その見返りとして、己が魂を我に捧げ、我が器となったのじゃ」
傷を逃れた朱唇がアーカバルの言葉を紡ぐ。だが、なぜだろう。声に焦りが滲んでいるように感じるのは、気のせいか。
「聞いてくれ、カーティ。お前の父、バンクスが作った細工はそこにある。二つの玉座を飾っているのが、お前の父が丹精込めて作り上げた生涯最高の一品だ」
カーティの目が、顔が、首が、体が、そろそろと背後の玉座を確認するように動く。
「バンクスに飾りを作るように命じたのは、俺の父である前国王だ。バンクスが捕らえられたと聞いた時、父はこう言った。『このように繊細で美しい物を生み出す腕を持つ者が、金に目がくらむが如き浅ましい罪を犯すはずがない。きっと何かの間違いだ』と。俺と兄は確かにそう聞いた。バンクスが獄中で病死したと言う噂を耳にして、とても残念がっていたよ。国の財産である貴重な工匠を失ったと。俺達に、出来るならバンクスの名誉を取り戻してやって欲しい、と」
懸命に訴える瑰国の王弟に、アーカバルは悪意に満ちた言葉を投げ付ける。まるで己の声によって、トウージュの声を聞くまいとするかのように。
「もう遅い、遅いのじゃ! 今さら何を語ったところで、この娘の両親も、この娘も救えはせぬ。この娘は我を目覚めさせた時から、我が器となる運命であったのじゃ!」
「うるさい、黙っていろ、アーカバル! お前には用はないんだ。俺は今、カーティと話をしていると言っているだろう。引っ込んでろっ!」
トウージュのあまりの剣幕にか、アーカバルは言葉を飲み込んだ。
「バンクスに罪を陥れた工匠ギルドの者達は、すでにこの世にいない。金で丸め込まれていた官吏もだ。お前が一番憎く思っている者達は、眠り病の最初の発症者だ。眠り病の実態を掴むのに時間がかかったせいで、最初の発症者を見つけるのに手間取ってしまった。もっと早くこの事に気付いていれば、お前にも早く教えてやれたのに」
玉座をながめていたアーカバルの気配が、トウージュに集中する。次の言葉を待っているのだ。
「ギルドを牛耳っていた役人達がいなくなった事で、街の住人はようやく自分達の思っていたことを実行に移す事が出来た。住人達は知っていたんだ。バンクスが罪を犯していないって。だが、表立って何かしてやる事は出来なかった。どうにかする事で自分達に火の粉が降りかかるのを怖れたせいもある。だけど人々が行動を起こして、バンクス一家をさらに苦境に追いやる事だけは避けようとしたからだ」
「ソンナノハ 嘘ダ」
朱唇が開く。が、そこから聞こえてくる声は、これまでのアーカバルのものとは違っていた。
「嘘ダ 信ジナイ ソンナ事」
アーカバルのものでは、あり得ない。半分爛れた顔を引きつらせて、目を見開いている邪神の姿。己の口から出た言葉に、一番驚いているのはアーカバル自身なのだ。
「誰モ 助ケテクレナカッタ。父サンモ母サンモ 何モシテイナイノニ。誰モ 信ジテクレナカッタクセニ!」
血を吐くような叫びは、誰にも受け止めてもらえなかった、カーティの本心。
「ミンナ壊レテシマエバ イインダ。コンナ世界ナンテ ナクナッテシマエ!」
「本当に、それでいいのか? 全部壊れてしまったら、お前の父バンクスが残した飾り細工もなくなってしまうぞ。この飾り細工だけじゃない。バンクスが心血を注いで作り上げてきた全ての物が、この世から消えてしまうんだ。それはお前自身が、父親の生きてきた全てと誇りを否定するって事じゃないのかっ!?」
叩きつけられたトウージュの言葉に、カーティの瞳が揺らぐ。
完全にアーカバルに奪われ、消え去ったと思われていたカーティの意思が、そこには存在していた。邪神の強大な力によって心の深い闇の奥底に押し込められていた、バンクスの娘カーティの意思が揺り動かされて浮上したのだ。
「父サンヲ 否定? アタシガ?」
「父はバンクスの無実を信じていた。ホステルの領主に命じて、真相を明らかにしようとしていたんだ。だが時が足りずに、バンクスを牢から出すには間に合わなかった。それについては、本当に申し訳なく思っている」
言葉を切ると、床に片膝をついて深々と頭を垂れる。右の拳を左肩に当てて、目を閉じる。最大の恭順と謝意を表す姿。しかもその姿勢をとっているのは、瑰国の王族。世に並ぶ者なき、一国を統べる国王の弟が民の前に膝を折っているのだ。
「──トウージュ……」
驚きにアイヒナは息を飲む。王族が膝をつく姿など、一体誰が思い描いただろうか。
「工匠バンクスの娘、カーティよ。前国王、当代国王に代わって詫びる。父母の無念を晴らしてやるのが遅くなってしまって、申し訳ない。済まなかった」
カーティの体がグラリと傾いだ。
「お前の父母の亡骸は、ホステルの街の者達によって手厚く葬られた。工匠ギルドのギルド長を始め、バンクスの罪をでっち上げた者達の名前は館の壁から削り取られ、そこに新しいギルド長の名前が彫り込まれている。名匠バンクスの名前だ」
「父サンノ 名前。ぎるど長トシテ──。父サンノ名誉ハ 誇リハ 守ラレタノ?」
「そうだ。冤罪によって剥奪された全てのものをバンクスに返そう。今となっては、遅過ぎるのだが……」
静かに頭を下げたまま、トウージュはカーティに告げた。
「お前の父を陥れた者達は、すでにこの世にいない。共謀して金をもらっていた黒官も、眠り病によって命を落としている。あとは、誰の命が欲しい? あとどれだけの命を奪えば、お前の気が済むんだ?」
カーティは口をつぐむ。膝をついたまま、トウージュは顔をあげて鋭くカーティを見た。
「俺は一人の少年を知っている。彼は父親と姉を目の前で失った」
トウージュの話を黙って聞いていたアイヒナの脳裏に、ある少年の姿が浮かんだ。彼女自身が少年の父親と姉の命を絶ったのだ。忘れられるはずがない。
「──ウェイン……」
彼の父親と姉に取り憑いていたバフォナはあまりにも深く巣食っていて、アイヒナと闇姫の力を持ってしても、切り離す事は出来なかった。すでに二人とも、心を食い尽くされた後だったのだ。
「その少年も一人になってしまった。だが彼は、父親と姉を斬った者を許したよ。本当に悪いのは、本当に許せないのは、この世に夢魔を放った者だってな。確かにアーカバルはお前の恨みを晴らしてくれただろう。だがそのために、自分と同じように親を亡くした子供達を増やして、満足か? まだ増やし足りないのか? お前が父親を死に追いやった連中を憎んだように、親を失い、子を失い、恋人を失った者達がお前を恨み、お前を憎む。お前の中のアーカバルをじゃない。砂色の髪の薬師・カーティを、だ」
容赦のないトウージュの言葉がカーティに迫る。揺れる砂色の瞳から、透き通った涙が転がり落ちた。
「私ガ──アノ連中ト同ジ事ヲ? 私ト同ジヨウニ 悲シム子供ヲ?」
震える両手に顔を埋める。
「もうやめるんだ、カーティ。泣けるのなら、涙を流せるのなら、お前にはまだ人の心が残っている。これ以上、自分と同じような人間を増やさないでくれ」
瑰国の王弟は膝をついた姿勢のまま、再び深々と頭を下げた。
「やめろ、やめるんだ、カーティ! そなたを見捨てた者達の言葉を聞くのか。我はそなたに力を与えたではないか。そなたが望んだからこそ、そなたの仇を討つ手助けをしたのじゃ。そなたの真の味方は我だけじゃ。他の者の言葉なぞ、聞くのをやめるのじゃ、カーティ!」
両手に覆われたカーティの唇から、彼女のものではない声がこぼれた。焦りに満ちた、邪神アーカバルの声。
「工匠バンクスの娘、カーティ。邪神に魅入られた、哀れな娘よ。俺はこれから先も、お前達一家の事を忘れない。兄王も義姉上も、玉座の飾りを見るたび思い出すだろう。この瑰国の玉座を継ぐ者に、バンクスの名と誇りを語り継ごう。この国一番の名匠と謳われた男の事を」
ゆっくりとカーティが顔をあげる。不思議な事に、その顔に醜い傷はない。白く美しい、カーティ本人の顔。涙に濡れたその面を仰向けて、謁見の間の天井へ視線をさまよわせる。いや、そうではない。彼女の目は天井も屋根も通り抜け、星々の輝く天上を見ているのだろう。
「やめよ、カーティ! 我の力を捨てると言うのか? 世界を呪うのではなかったのか? カーティ!」
「モウ イイノ。父サンノ誇リガ 守レルノナラ。私ト同ジ想イヲ コレ以上サセタクナイノ」
穏やかな表情で、そっとカーティが答える。
「ゴメンナサイ。ドレダケ言ッテモ 足リナイダロウケド ゴメンナサイ」
わずかに視線を動かしてトウージュを視界に収めてそれだけを告げると、両手を天に差し伸べた。
松明の灯りが揺れる薄暗い空間に、青白い光が差し込む。新しい一日の始まりを報せ、闇夜を追いやる払暁の光にも似たそれは、窓などないはずの謁見の間に満ちる。清い光に照らされて、カーティの姿が二重写しのようにブレた次の瞬間、室内の光量は元に戻っている。大理石の床に影を落とす。松明の炎。アイヒナと闇姫とトウージュ、そして──砂色の髪をした悲しい運命を背負った娘は、長い年月、風雨にさらされた土壁のように崩れ去って行った。床の上に、わずかに積もった残滓が彼女を偲ぶ縁である。
それまでカーティが立っていた場所には、自分の手を見下ろしている黒い髪の男。関節の壊れた人形のように、妙にギクシャクとした動きで三人の方へ向けられた顔は、半分が醜く焼け爛れていた。
溢れんばかりの憎悪を湛えた瞳は、鮮血の赤。