2章 珠春宮・パーティルローサ
眠ったまま二度と眼を覚まさない「死の眠り」。
この奇妙な流行病に、国中が恐怖におびえていた。
控えめなノックが思考の隙間に入り込んでくる。
「お入り」
扉を開けて、女官が顔を出す。
「おくつろぎのところ、失礼致します。アイナセリョース王妃殿下。トウージュ王弟殿下がお戻りになられました。重要なお話なので、王妃殿下にもお越しいただきたいとの事でございます」
「判りました。トウージュ殿下は、どちらにおいでかしら?」
「はい、陛下の御寝所に……」
「すぐに伺います」
一礼して下がった女官を見届けると、アイナセリョースは身支度を整えた。
五分後、国王の寝所のノッカーを鳴らす。
「──お入り」
細い国王の返事に、王妃は胸の痛みを隠して扉を開けた。
「お待たせ致しました、陛下。お帰りなさいませ、王弟殿下」
トウージュと目礼を交わし、国王のベッドへ近づきながら声をかける。
「お加減はいかがですか? コルウィン」
「ああ、今日は随分と気分がいい。いつも心配をかけるね、アイナセリョース」
ベッドに上体を起こし、優しい微笑を浮かべているのは、彼女の夫であり瑰国の要であるコルウィン・イルス・ダルム・瑰である。
十九歳で王位に就き、若いながらも堅実に国を統治してきた。だが二年前に原因不明の病に倒れ、いまだ完治していない。世継ぎの御子がいれば国の不安も薄らいだだろうが、三年前に娶ったアイナセリョースとの間に子はなかった。
「トウージュ。宗都の様子はどうであった? 何か手がかりになりそうなことは?」
病床の国王の言葉に、トウージュは苦しげに首を振った。
「何も。イシュリーン神殿の網にも、獲物はかかっていません。エルキリュース神殿についても尋ねてみたのですが──」
「直接、エルキリュース神殿には行かれたのですか、トウージュ殿?」
「いいえ、義姉上。あの神殿の者達は、世俗にあまり興味を示しません。まあ、それでも事が事なだけに、知らん顔も出来なかったようですが」
アイナセリョースは、考え込むコルウィンの横顔を見つめた。
「珠春宮は、パーティルローサはまだいい。守護結界の張られたこの都市は、もうしばらく大丈夫だろう。しかし、王都ハディースはどうなる? 宗都であるサンガルですら犠牲者が出ているというのに。都市より離れた里は? 村は? どうすれば良いというのか?」
上掛けを握り締めて、コルウィンが声を荒げる。焦りに震える国王の手を、王妃がそっと包み込む。
「兄上。しばらくの間、パーティルローサを留守にしてもよろしいでしょうか?」
トウージュが何かを思いついたように口を開いた。不思議そうにしている二人に、
「リュヒターが気になる事を言っていました。エルキリュース神殿には現在、夢幻鏡がないと。そして巫女が一人、神殿を出たようだとも。どうにも気になるのです。なぜ今なのか」
いったん言葉を切り、トウージュは続けた。
「もしかすると、何も意味のない事なのかもしれません。こんな時期にパーティルローサを空けるのは、兄上にも義姉上にも負担をかけることになりますが……」
「ご心配には及びませんよ、トウージュ殿。政は陛下とわたくしが何とかいたしましょう。今、最も優先されるべきは『死の眠り』です。どうか一刻も早く、解決策を見つけてください」
コルウィンの視線を受けて、アイナセリョースが請合った。
「申し訳ありません。いつも俺のわがままに付き合わせてしまって」
頭を下げながら、国王夫妻に目をやる。神々はなぜ、この二人に子を授けないのか。
元々、地方行政の役人である赤官の娘だったアイナセリョースをコルウィンが一目で気に入り、是非にと請われて輿入れした。当時、身分違いと重臣達の間で反対意見が沸き起こったが、普段温厚なコルウィンがその反対を抑え込み、ついに娶ってしまった。
王妃となったアイナセリョースは、その聡明さをもって国民に愛された。大臣達の間にも認識を改める者が多かったが、三年経った後も御子がいない事に、一部の者から彼女を離縁するか側室をとるかと強く勧められていた。国王が倒れてからは、政を代行するアイナセリョースを快く思わない者も少なくはない。
退室するトウージュを見送って、コルウィンは深くため息を吐いた。
「あれにも苦労をかけるな」
「トウージュ殿のお陰で、わたくし達も随分助かっておりますものね」
コルウィンもアイナセリョースも、自分達に子がない事をトウージュが心配しているのを知っていた。互いへの愛情と信頼の絆で結ばれている国王夫妻。跡継ぎがない事は二人の生活を寂しいものにしていたが、大臣達の勧めに従がって、離縁する気も側室を娶る気もなかった。
「我等に子がなければ、いずれトウージュに国を預けなければならん。余に出来るのは、瑰という国を傾けずに次代へ託す事だ」
ベッドに身体を横たえるのを手伝いながら、アイナセリョースは呟いた。
「申し訳ございません。わたくしが子を成せないばかりに、陛下にもトウージュ殿にもご迷惑をお掛けいたします」
今度はその手を、国王が包み込んで答える。
「貴女が気に病む必要はない──と言ったところで気休めにもならないが。それに貴女の責任ばかりでもあるまいよ。余の身体が元に戻れば、あるいは……。まあ、世継ぎがなければ、瑰国はトウージュに任せれば良い。もっとも、あれは嫌がるだろうがな」
「さあ、陛下。少しはお休みになられませ」
「ああ。もうしばらく、ここにいてはくれまいか、アイナセリョース?」
「仰せのままに」
コルウィンはいたずらっぽく微笑むと口を開いた。
「もう貴女に伝えたかな? 愛していると」
アイナセリョースも微笑みながら答えた。
「まあ、不思議ですわね。わたくしも陛下を愛しておりますのよ」
束の間の優しい時間である。
**
どんよりと曇った空は、今にも泣き出しそうに見える。
王都ハディースの一つ手前の街、コリョン。特にあてのある旅ではないが、アイヒナの足は自然ハディースへと向いた。
街へ入ってまずは食事と、手ごろな店を物色する。一人(?)旅とはいえ、懐具合は贅沢を許せるほどではない。
しばらく進むと『赤い牡鹿亭』と書かれた看板を見つけた。どうやら、宿を兼ねた食堂らしい。改めて宿を探すのも面倒だと、アイヒナは『赤い牡鹿亭』へ入っていく。ドアを開けると、女将らしき女性が客の食器を下げているところだった。
「いらっしゃい。食事かね?」
にこやかにかけられた言葉に、アイヒナも笑んで答えた。
「食事と宿を頼みたいんだが、部屋は空いているかな?」
「おや、旅の人かね。どれでも好きな部屋が空いているよ。食事は何にする? 今朝から煮込んだシチューに、よーく焙った鶏があるよ。味は保証付きさ。コリョンでうちより美味い店は、そうはないさね」
世話好きらしい女将は、口と同じように身体も良く動く。きびきびと働く彼女を見ながら、
「それじゃあ、両方もらおうか。そうそう、二人分でお願いしよう。後から連れが来る予定なのでね」
慌てて二人分にしたのは、何かを思い出したかららしい。
女将は奥へ引っ込むのと同時に、アイヒナの足元に落ちた影から、黒狼の鼻先がひょこん、と生えた。
「主殿?」
「ああ、もういいから早く出て来い」
鼻先が引っ込むと、今度は影から闇姫と呼ばれていた美女が、するりと出てくる。すると、彼女はアイヒナの影に潜んでいるのか? 食事時には遅すぎ、酒を飲むには早すぎる。そんな中途半端な時間のために、店内には二人以外に客はいない。
本来、夢魔・バフォナを食するドラムーナである闇姫だが、通常の食事の味を覚えて以来、主人の相伴にあずかる機会が増えた。──というより、有無を言わさず無理やりに同席するのだ。
「おや、お連れさんも着いたのかい? こりゃまた、大した別嬪さんじゃないか! もうちょっと時間がかかるからねぇ。これでも飲んでておくれよ。なぁに、あたしからのおごりだよ」
テーブルの上に素焼きのジョッキを二つ置き、鼻歌交じりで戻っていく。ジョッキからは、甘酸っぱいリンゴの香りが漂ってくる。よく冷えたリンゴの発泡酒だ。
待つ事しばし──。並べられた料理は、女将の自慢通りの味だった。
「女二人連れで旅かね? 道中、何かと物騒だろうに。どっか、あてでもあんのかい? 見たところ、巡礼の旅というわけでもなさそうだし……。おっと、余計な事聞いちまったね。さあ、この部屋だよ。けど本当に一部屋でいいのかい?」
話好きの女将に案内されて、二階の部屋に通される。
「ええ、大丈夫ですよ。それから、申し訳ないんだが水を使わせてもらえないだろうか? 季節柄、埃っぽくってかなわない」
「ああ、いいともさ。ちょっと待ってておくれよ」
アイヒナの頼みを快く引き受けると、女将は階下へ降りていく。
「ふ……ん。悪くないな」
闇姫が部屋を見回して呟く。人間以上に人間臭い。
ベッドに腰掛けて荷物を解いていると、女将が水がめとたらいを用意してくれた。彼女に礼を言うと、水浴びの支度を始める。
たらいに水を張り、荷の中から取り出した一枚の呪符に、エルキリュースの聖句を呟き水面に落とす。水に触れた符は、たちまち溶けて消え去り、跡形もなくなる。
アイヒナは頭に巻いていた砂よけの布を解くと、着物を無造作に脱いでいく。
「慎みとか何とか、持ち合わせてはおらぬのか、この主殿は──」
ため息をついて立ち上がると、闇姫は窓にカーテンを引いた。
「ああ、済まない。忘れていたよ」
傾いた太陽の投げかける赤い光が、カーテンに遮られて、柔らかなオレンジ色に輝いている。その中で一人、神への聖句を呟きながらアイヒナが身体を清めている。その大理石にように白い肌は、瑰で産出される最上の玉にも劣るまい。流れる銀の髪は、月神リュスの放つ光を紡いだかのようだ。ふくよかな双丘の間には、夢神エルキリュースに捧げられた者の証として神名が神聖文字で刺青されている。
長い髪をギュッと絞り、水気を切ってたらいから出る。タオルで身体中を軽く拭くと、輝く裸体のまま、荷物から一枚の鏡を取り出した。両手に乗るくらいの小ぶりの鏡に、水がめに残った水を注ぐ。やはり小さく聖句を呟きながら、右手で印を切る。
「──闇姫」
アイヒナの声に、闇姫が静かにリュートを手渡す。かわりに鏡を受け取り、床に膝をついて捧げ持つ。
部屋の中に、リュートの高い音が響いた。アイヒナが一弦だけを爪弾いている。その清浄な音色に導かれるように、闇姫の捧げ持つ鏡から不思議な光がこぼれ始めた。
アイヒナの黄金の瞳が、何かを読み取ろうとその光を追いかける。
ゆらり──と、何者かの影が光の中に映り込む。正体を見極めようと、アイヒナが目を凝らした瞬間。
ビイィィィン……。
爪弾いていたリュートの弦が切れた。途端に、鏡からこぼれていた光も掻き消える。
長い息をついて立ち上がるアイヒナに闇姫が問うた。
「何ぞ見えたかや、主殿?」
着物を手早く身に着けながら、彼女は答えた。
「ん。ほんの一瞬だがな。誰かが夢を見ている。だが──」
不機嫌そうに顔をしかめ、吐き出すように続ける。
「あれは、世界の滅びを見る夢だ」