28章 オーガスベル・公爵閣下の憂鬱
自分の勝利を確信していたノーヴィア公爵は、思いもよらぬ国王軍の攻勢に怒り狂う。
反乱軍に紛れるバフォナの一群は、夜陰に乗じて国王軍の陣地に奇襲をかけようと
画策するが……。
「なぜだ! なぜなんだ! 正義は私の許にあるのではないのか!!」
怒号と共に、何か重い物が倒れる音や陶器の割れる音が響く。
「カーティはどうした? なぜ私の前に姿を現わさんのだ?」
決して狭くはない天幕の中を、落ち着きなく歩き回っているのは──。
「閣下、ノーヴィア閣下、どうぞ落ち着き下さい」
イライラと爪を噛んでいたサマル・ビュイクは、背後からかけられた若い声に向かってテーブルの上にあったゴブレットを掴んで投げ付けた。
自分に向かって飛来した真鍮製のゴブレットを軽くかわし、冷めた眼差しで反乱軍の最高司令官をながめているのは、黒いマントに身を包んだ若いイーギムだ。
「どうぞ、お気をお静め下さいませ、閣下。御酒を召し上がってすぐにそのように激昂なさっては、お体に障ります」
口振りだけは臣下のそれだが、声の端々に棘が見え隠れする。
「黙れっ! 知ったような口を利くな、若造め。カーティはどうした? なぜこの場におらんのだ? カーティを呼べ!」
酒のせいだろうか、興奮しているせいだろうか。目を赤く血走らせて、サマルは控えているイーギムを怒鳴りつけた。戦況が思うように動かない事にイラついているのだろう。完全なる八つ当たりだ。
「我が主カーティは、オーガスベルにはおりません。ノーヴィア公爵閣下の勝利を確実なものにするために、別の場所にて働いております。ご安心下さい」
「そんな事を言って、私を見限って逃げ出したのではないのか! ええい、忌々しい!」
天幕内をギョロギョロと見回しては何か壊す物はないかと探している姿は、正気を失っているように見える。内心の不快感を押し隠し、イーギムはサマル・ビュイクに頭を下げた。
「我が主は、閣下を信用しておられるからこそ、この場を離れたのでございます。決して閣下を見限るなど、そのような事は、あろうはずがございません」
表面だけは穏やかな顔を装いながらもサマルの側へ歩み寄り、テーブルの上にあったベルを手に取った。軽く振ると、天幕の外に控えていた侍者を呼ぶ。
「イーギム、何をしておる!? 勝手なマネをするな!」
ツバを飛ばし、怒りと焦りと酒のために斑に赤く染まった顔で、イーギムの手の中にあるベルを奪い取って投げ捨てると、サマルは若者に掴みかかった。
呼ばれて天幕内へ入って来た侍者達は、位を召し上げられた公爵の姿に戸惑い、怖れて立ち尽くしている。
「片付けと御酒の支度をさせるだけでございます」
よい。周りを片付けて、新しい御酒を用意するように。と侍者に申し付けたのはイーギムだ。
ビクビクしながら敷物の上に散らばった破片やゴブレットを拾い上げ、調度を整えた者達が頭を下げ部屋を出て行ったのと入れ違いに、酒の盆を掲げた女が静かに入って来た。
憤然とした面持ちでいるサマルの前にテーブルを設え、新しく運んできたクリスタルのデキャンタから赤くトロリと輝くワインを注ぐ。女が手渡そうとするゴブレットを、サマルは乱暴に押しのける。
「いらぬわ。余計なマネをしおって。この天幕は私のものだ。この軍勢は私の軍だ。私が指揮官なのだぞ。その私を差し置いて、勝手な行動は許さん!」
イラ立ちをぶつけるかのように、テーブルの酒器に手をかけた。だがサマルは、その手を動かす事が出来ずにいた。細い腕が彼の手を押さえているのだ。
「いい加減になされよ、サマル卿。どれだけ暴れれば気が済むのか。己が指揮官と申されるからには、それなりの態度をお取りなさい。軍を指揮する貴方がそのような様では、従う者までもが動揺します」
厳しく静かな口調で、イーギムはサマルに向かって言葉を吐いた。
「貴様っ! 平民の分際で、私に意見しようと言うのか、無礼者め!」
全く人の話を聞ける状態ではない。元々から自尊心の強い人物ではあったが、酒精に溺れ、戦の乱気にあてられ、己を守るための懐疑心とプライドだけが肥大しているのだ。
振り払おうとする腕がピクリとも動かない。見かけにそぐわない力で、サマルの腕を抑えていたイーギムの瞳が獣のソレに変じてギラリと光った。掴まれているサマルの腕がミシミシと音を立てる。
「いい加減にしろと言っているのが、分らないのか? ギャンギャンとうるさいんだよ、お前。御主様のお言い付けでなければ、誰がお前のお守りなどするものか」
若者の変貌ぶりにサマル・ビュイクは目をむいた。息を呑み、イーギムの腕から抜け出そうともがくが叶わない。
「お、お前は──一体……?」
「貴方が知る必要はないんですよ。サマル閣下。貴方はただ、この戦に勝てば良いのです。そうする事が御主様のためであり、我等のためであり、ひいては貴方のためになるのです。貴方はただ、勝つ事だけを考えていれば良いのです」
そう告げたイーギムの眼に、妖しい光はもうない。手を離された事にも気付かず、棒を呑んだように立ち尽くしているサマルに、表情も変えずにいた女が杯を差し出した。
「あ、ああ……」
震えとしびれの残る手で受け取った杯の中で、血の色をしたワインが波打つ。
「貴方が御自分の役割りを果たしてさえ下されば、我等は貴方の味方であり続ける事が出来るのですよ」
イーギムの顔と自分の手の中にあるゴブレットを交互に見比べ、意を決したようにサマルは酒をあおった。
「私が勝てば、瑰国の玉座は私のものになるのだな?」
「もちろんでございます。閣下の他に、誰がこの国の王となれるでしょう」
「正義は、私にあるのだな? コルウィンでもトウージュでもなく、私が正しいと言う事だな?」
「御意にございます、閣下。どうぞその御力で、この国を正しくお導き下さいますよう」
上目使いにサマルを見ながら、イーギムは慇懃に頭を下げた。
「では私は、閣下の勝利のためにひと働きして参ると致しましょう」
側に立つ女に公爵の相手をするように命じると、イーギムは大天幕を出て行った。その背中を追いかけるように、サマルのひび割れた聞き苦しい哄笑が響いてくる。
「まったくもって、不愉快な男だよ。あのサマル・ビュイクという奴は。我等の仲間にするのもためらわれるわ。御主様に必要でなければ、すぐにでもラ・ズーの懐に送り込んでやるものを」
肩に貼り付いたサマルの気を払いのけようと言うのか、顔をしかめてパタパタとはたく。そんなイーギムに向かって、まだ幼さの残る面差しの少年が「どちらへ?」と声をかけた。それに向かってイーギムは嗤って見せた。夜の闇よりなお深く、黒く染めぬかれたマントを羽織りって。
「夜の闇は我等の味方。奴等にとっては見えざる恐怖。この闇に乗じて、御主様の邪魔をする輩を叩く」
少年に人数を集めるように言い付け、イーギムは陣地の境界から国王軍の陣を見つめた。その背後に音もなく幾つかの影が集った。中年に壮年に少女。年齢も性別も違うが、身の裡に夢魔を抱えている者達だ。
「奴等の頼みの綱であるドラムーナも夢織りも、ここにはおらん。あそこにいるのは、非力な人間共だけだ。今夜のうちに奴等の陣地へ潜り込み、愚かな人間共に混乱を与えてやろう」
「御主様のために」
「御主様のために」
「コルウィンの首級さえ挙げてしまえば」
「トウージュなど、御主様の前に虫ケラも同じ」
「あの二人が亡き者となれば、後はマヌケなノーヴィアに虚栄の王冠を与え、瑰国王宮の玉座に就けてやれば良い。そうなれば我々の御主様が完全に復活される。御主様の御力が戻れば、世界は我等のものとなる」
「その通りだ。行くぞ!」
夜の闇に紛れて、黒い影が走った。
オーガスベル平地の対岸、瑰国国王軍の陣地へと。
**
戦場となっているオーガスベルは、湿地を含んだ独特の地形をしている。平地を渡って高台へと抜ける風は、湿り気を帯びて肌に重い。
篝火に照らされた国王軍の陣地は、落ち着いた静けさに包まれている。薪の爆ぜる音がそこここで起こり、仄暗い影を落としていた。そして影に蠢く、なお黒い人影。頭からスッポリとフードを被り、足の先まで闇に同化したイーギム達だ。
「どうだ?」
「こちら側は駄目です。結界が強固で、とても破れません」
「こちらもです」
若いリーダーの前に膝をつき、夢魔の眷属達が報告する。
「さすがに護りは固いか。だが、所詮は寄せ集めの連中だ。奴等を束ねている夢長とて、威勢があったのは過去の事。今ではただの、老いぼれよ。必ず穴はある。良く探すのだ」
イーギムは目の前の手下達に強く命じた。
例えエルキリュースに仕える巫女頭とは言え、慣れぬ戦闘を経験し、多くの神官、巫女達を従わせねばならなぬとあればその疲労は並大抵のモノではない。加えて、年齢的な事もあるだろう。広い陣地全てを結界で守護するとなれば、必ずどこかに薄い部分、すなわち『穴』があるはずなのだ。
昼間のうちに国王軍の陣内へは、ケガ人を装わせたバフォナを数名潜り込ませてある。内からと外から、同時に国王軍を奇襲する手筈だ。
輝く篝火の向こう、陣地を包む結界を透かし見ていたイーギムの耳に、ヒタヒタと夜に染まった足音が届いた。
「イーギム様──」
足音の主は、三十半ばの女だ。どこにでもいる、気の良さそうな主婦に見える。だが、口許に浮かぶ下卑た笑みが、その外見を裏切っていた。
「イーギム様、見つけました」
見つけた──とは、結界の『穴』を探り当てたのだろう。女の表情は得意気に見えた。
「どこだ?」
自分よりもはるかに若いイーギムが高飛車に物を言うのにも頭を下げ、褒めてくれと言わんばかりの態度だ。
「食糧や物資の保管されている、荷馬車溜まりの辺りです」
女の報告に、イーギムはニヤリと嘲笑うとアゴをしゃくって全員に移動の合図を出した。
「よし、良くやった。行くぞ」
闇から闇を伝って、バフォナの影が走り抜ける。
国王軍の陣地の外れ、兵士達の姿もまばらな荷馬車溜まりは静まり返り、火の粉の爆ぜる音がやけに大きく耳に響く。
「なる程、確かにこの場所は他に比べて結界が薄い。夢長と言えど、寄る年波には勝てぬという事だ」
他所では何者も寄せ付けぬ堅牢な結界が、ここでは極端に薄く弱い。力を振り絞って強固な結界を張り巡らせたシワ寄せが、この場所なのだろう。人の出入りの多い場所を重点的に守ろうとした結果とも言えよう。
イーギムとその手下の者達の目付き、顔付きが変わった。上辺だけ取り繕っていた「人間らしい」表情が消え、夢魔としての本性をむき出しにしていく。
メキメキと音を立てて、イーギムの腕が付け根から膨れ上がる。人のモノではない。筋肉を構成する、根本的なものが変化したのだ。そこにあるのは獣の、否、化け物の腕だ。ゴワゴワと密生する剛毛の所々に、破れた袖の残骸がボロ布のように引っかかっている。鋭い鉄のごときカギ爪の生えた五指を、試すように握ったり開いたりしながら、年若い夢魔はほくそ笑んだ。背後に控える者達も、それぞれに夢魔としての本性を現出させている。
かすかに揺れ動いて見せる結界の壁に、イーギムはゆっくりと異形の腕を近付けていった。カギ爪が触れた部分に、わずかに火花が散ったように思えた。結界が腕を押し返そうとする感触はあるが、大したものではない。構わずイーギムは腕を伸ばし、こじ開けるようにひねった。
華奢な玻璃が砕ける儚い音がした。──したような気がした。夢長の張った結界が、イーギムの与えた負荷に耐え切れずに破れたのだ。バフォナ達の眼に歪んだ光が灯った。
「人間の分際で、神である御主様の御力を与えられた我等に立てつこうなどと、身の程知らずだと言うのだ」
手下の者達を従え、結界のあった場所をくぐり抜けてイーギムは国王軍の陣地内へと足を踏み入れた。
自分達の勝利を確信して全員が陣内へ入り込んだ瞬間、その場の空気を揺らして澄んだ金属音が響き渡った。慌てて周囲を見回すバフォナの一団を囲み込むようにして、荷馬車溜まりの一帯に光の輪が出現した。
「なっ、何だコレは!?」
思いも寄らない出来事に、夢魔達は浮き足立つ。肌にジリジリと感じる気配が、己の存在とは相容れない力である事を教えてくる。
「まさかっ!?」
荷馬車の中から、篝火の輪郭の外から、神殿の巫女達が姿を現わす。その中心にいるのは、厳しい顔付きの夢長メルベリッサだ。
「やはり来ましたね。あの臆病者の元公爵が自ら夜襲をかけて来る事はないと踏んでいました。やって来るなら闇に紛れて、お前達バフォナでしょうとね」
静かに語る夢長が片手を挙げると、側に控えた巫女が動く。腕に抱えていた物を篝火の中に次々と放り込んでいく。やがて、大気中に独特の香りが流れ出した。
「グ……ゲエェェェェ……」
香りを吸い込んだ夢魔達が、苦し気に喉元をかきむしる。
「こ、この香りは……! 貴様等、夢幻鏡もドラムーナも手許にないこの状況で、我等バフォナと渡り合おうと言うのか」
先頭に立つイーギムもやはり苦しいのだろう。眉間にシワを寄せ、頬を歪ませた若い夢魔は、荒い息の下から言葉を発した。
「確かにそうね。私達の手許には今、お前達を滅ぼすドラムーナも、夢を渡るための宝鏡もありません。ですがそれだけで、お前達バフォナと戦う手段がないなどと思うのは早計と言うものですよ」
夢長の後ろに控えていた数人の巫女がリュートを構えた。
「滅する事は出来ずとも、お前達を封じる方法はあります。私の娘が教えてくれた方法がね」
篝火の光の外から錫杖を打ち鳴らす音が響いてくる。その音に合わせて、リュートが旋律を奏でる。
「ば、馬鹿め……。我等をこんな所で縛したからと言って、いい気になっておると痛い目を見るぞ」
「我等が無策で飛び込んできたとでも思っておるのか」
神木から作られ祈りを捧げられた香木の香りによって力を抜かれ、巫女や僧兵のリュート、錫杖の音が物理的な圧力となってのしかかってくる状態で、それでも憎々し気にバフォナ達が口を開いた。
「今に我等の仲間が目覚めるぞ」
精一杯の抵抗なのだろう。だが、国王軍の陣地に夢魔の種を宿した者が潜んでいるのも事実だ。
「さあ、それはどうかしら? お前達が頼みの綱にしている者達は、すでに捕らえて種を抜かせて頂きましたわ」
「くっ……この!」
歯ぎしりした少女の姿をしたバフォナが、地面に爪を立ててうめく。怒りにまかせて立ち上がろうとするが、その行為は無駄に締め付けを増やしただけだ。
捕らえたバフォナ達を逃さないための布陣なのだろう。小さな結界を取り囲むようにしてエルキリュース神殿の巫女が、その外側を僧兵達が取り囲んでいる。
「き、貴様の養い子など、御主様の御力にかなうはずがない」
「さよう、今頃は御主様の前に跪き、命乞いをしているであろうよ」
メルベリッサの気持を揺さぶろうと言うのか。夢魔達が口々に言葉を投げつける。しかしエルキリュース神殿の巫女を束ねる夢長は、顔色一つ変えはしない。
「残念ながら、お前達の思う通りにはいかないわ。あの娘は、ここにいる誰よりも強い。それが例え悪神アーカバルだったとしても、アイヒナを屈服させる事は出来はしないのですよ」
バフォナに向かって、彼女は柔らかく笑んで見せる。その笑顔にイーギムは膝が震えた。何と迷いのない──。
「なぜだ。なぜ笑っていられる? どうしてそこまで言い切れる? 我等が御主様は神ぞ。いかに神力を依らせる巫女だとて、人の子である夢織りの娘が、かなう術などあろうものか。それなのに、なぜ──?」
最早、立っていられない。篝火に投じられた香木から漂う聖香、流れるリュートの音色、打ち鳴らされる錫杖の軽やかな金属音、謡いのように語るように発せられる神呪の言葉。それらが確実に、彼ら夢魔の自由を奪っていく。
「なぜ、と問うのですか? ならば教えて差し上げましょう。人は神の創造物。弱きがゆえに神を求めます。しかしそれは、神も同じ事。全知にわずか足らず、全能よりわずか小さきがゆえに、神もまた人を求めるのです」
メルベリッサの声を聞きながら、結界の引かれた円陣の中でイーギム達は無様に這いつくばった。
「アイヒナは──あの娘は、生まれながらに神に愛される宿命を背負った娘。いえ、神に愛でられるために、生を受けた子なのです。あの娘の魂の輝きは、いともたやすく神を魅了する。アイヒナの魂を見れば、どの神も必ず自身の巫女にと望むでしょう。それは、神々が争いを起こす程に甘美で、かつ物騒な誘惑でもあるのです。ですからエルキリュース神はドラムーナである闇姫と契約を結ばせ、あの娘の魂を縛り、全ての神々に等しくアイヒナに依る事を許されたのですよ。私の娘の魂が、どれ程強く神を惹き付けるか。それはお前達の方が良く知っているでしょう。彼のアーカバルでさえ、あの娘の魂の輝きが欲しくて仕方がないのですから」
手下のバフォナ数名は、高まる結界内の圧力に耐え切れず、まとっていた人の器を脱ぎ捨てて逃走を図ろうと試みたらしい。鼻や目、口から溢れ出した粘液が寄り集まって、卑小なバフォナの本体をさらす。その瞬間を見逃さず、幾人かの巫女が細い筒をくわえた。鋭い呼気と共に吹き出されたのは、白く光る髪の毛程の針だ。ウィルカの街でウェインが夢魔を捕らえる時に使ったモノと同じだろう。
数本の針をその身に受けたバフォナの本体は、わずかの間体を痙攣させてから動きを止めた。
「私はあの娘を、いえ、あの娘の心を厳しく律する事が出来るように育てたわ。神に愛されると言う事は、人には疎まれ易いと言う事よ。生きて行くには不必要な、重すぎる運命だわ。だからこそ、己に傲らぬよう、己に負けぬように育てたわ。傷付いても自分の足で立てるように、大事に思う誰かを守れるように、と」
そう語ったメルベリッサの顔は誇らしそうでもあり、また寂しそうでもあった。
母として娘を育てながらも、夢長として夢織りの巫女を導く立場でもあったメルベリッサにしか解らぬ、心の葛藤なのだろう。
「生きて行くには不必要な運命か……。バカらしいな、神のために生きるなど」
顔をひどくしかめて、イーギムは弱々しく吐き捨てた。腕も足も震え、体を支えているのがやっとのようだ。
「そうね、そうかも知れないわ。でもあの娘は今、神のためではなく、自分のために自分の足で立っている。闇姫と言う最高のパートナーと共に、大切なモノを、大切な人を守るために戦っているわ。私は私の娘を信じます。あの娘が負ける事は決してない、と」
オニキスで飾られたエルキリュース神殿最高位を示す錫杖が、高々と掲げられる。磨き込まれた宝杖の表面を、篝火の光が流れるように伝う。メルベリッサの手の動きに合わせて、イーギムの視線も上へと移動する。
「認めなさい、バフォナ。今宵ここでの戦いは、私達人間の勝ちです。なにせ、この老いぼれの策略にはまって、自らワナに飛び込んで来たのですからね」
イーギムを見つめたまま、夢長は空いている手で空中に印を切る。エルキリュース神の印を。
「ふん──聞いていたのか。案外、根性が悪いな」
四肢から力が抜け、地面に倒れ込む寸前。若い夢魔は微かに笑った。
「ええ。そうでなくては、やっていけないんですもの。お前達──」
イーギムを見据えるメルベリッサの目が、スッと細まった。掲げた錫杖を、力一杯に地へ打ち付ける。
一際高く、一際澄んだ音が、陣地内を駆け巡った。
「──人間をナメ過ぎですわよ」