27章 オーガスベル・戦いの夜
夕焼けに染まるオーガスベルの地を見やりながら、国王コルウィンは思う。
果たして、この戦いを避ける事は本当に出来なかったのかと。
そんな国王の孤独を癒そうと、エルキリュースの夢長は己の胸の内を語り始める。
血のように赤い夕陽が、オーガスベルの大地を照らす。流された多くの血と混じり、より赤く染めて行く。
馬上の若き王コルウィンは、オーガスベルの原を苦々しい思いで見つめた。敵味方に分かれているとは言え、地に倒れ、血を流し、命をかけて戦っている者は皆等しくコルウィンの民なのだ。
「陛下。このような所までお出ましになられては、危のうございます。どうぞ天幕までお戻り下さい」
コルウィンの隣りに馬を進めたライナスが、王の身を気遣って声をかけた。
「倒れる者も、倒す者も、同じ瑰国の民だと言うのに──。何故、このような戦いをせねばならぬのか。それを思うと、気が重い」
暗く沈んだコルウィンの声からは、昼間の覇気は感じられない。
「ライナス。余は時々思う事があるのだ。王権を棄て、王冠を棄て、玉座を棄て──。そうすれば、このような苦しみからは逃れられるのではないか、とな」
「陛下。悲しい事ですが、これが今、我が国にある現実です。ここで我等が挫けてしまえば、トウージュ殿下やイルネア公爵夫人の努力が無駄になってしまいます。この地で流される血の一滴、失われる命の一つ一つを忘れずにおりましょう。それが戦を始めてしまった我等の、負うべき責任だと思うのです」
「そうだな。元帥の言う通りであろう。いかんな。余はすぐに悪い方へ考えてしまうようだ。元帥がいてくれて、助かった」
視線をふと和ませ、コルウィンは微苦笑を浮かべてライナスを見た。
「ありがたいお言葉、痛み入ります。さあ、そろそろ天幕へお戻り下さい。日の入りから日の出までは、兵を動かさぬのが通例。しかしその通例を、相手が守ってくれるかどうか怪しいですからな」
「ああ、元帥の言う通りにしよう。妃達はどうしている?」
戦場へ背を向け、王の座所である大天幕へと馬を進めながら、コルウィンはライナスに問いかけた。
「はあ、それが。アイナセリョース妃殿下とイルネア・エメス公爵夫人閣下は、治療用の天幕にこもられたきりで」
申し訳なさそうに答える国王軍元帥に、若き国王は苦笑した。
「面倒をかけるが、二人をよろしく頼む。妃も余の体の事を心配して、このような所までついてきたのであろう。だが──」
大小の天幕やテントが並び、夕食の支度をするための火が、あちこちに灯っている。疲れた体を休ませる兵士達が、足を投げ出したり食事を摂ったりしている。そのずっと奥にある、治療用の天幕を透かして見るようにしてコルウィンは言葉を切った。
「情けないかも知れぬがな、ライナス。余はアイナセリョースが側にいてくれる事で、救われておるのだ。トウージュと共に珠春宮にいてくれた方が安全だ。それは判っているのだがな。妃が共にいてくれる事が、何より心強く、余の気持を落ち着けてくれるのだ」
少し照れ臭そうに語るコルウィンと馬首を並べながら、ライナスもそっと微笑んだ。
「陛下は誠、妃殿下を愛しておられるのですな。また、妃殿下も心底から陛下を大事に思っておいでなのでしょう。それ故に、共に戦場に立つ事を望まれたのだと、私は思いますよ」
そして、口には出さずに付け加える。
(お二人の支え合うお姿に、我々も勇気付けられているのです。求め合うだけではなく、互いを気遣い、与え合うお姿に我等瑰の民は国の明るい未来を信じる事ができるのですよ)
座り込んでいた兵士達が、コルウィンとライナスの姿に慌てて立ち上がろうとする。道中で隊列に加わった民達は、普段目にする事のない国王の姿にあたふたと平伏そうとした。馬上の国王は手を振り、それを制する。戦いで疲れた兵や、日頃慣れない緊張を強いられた民に、少しでも体を休めて欲しいとの労いの気持ちからだ。
進むにつれ、次第に負傷者が増えてくる。治療に使った包帯や布の入っているであろう、大きなカゴを抱えた者達が忙しく出入している大きな天幕は目の前だ。
側にいた兵士に手綱を渡し、コルウィンは天幕の中をのぞいて見る。傷を負った兵士を介抱しているイルネアと、女性に指示を出して薬を調べているアイナセリョースの姿が見て取れる。
「お声をおかけにならないのですか?」
王妃と公爵夫人のいる天幕へ入ろうとしないコルウィンに、ライナスが静かに促した。
「良い。邪魔をしたくないのでな。このまま、様子をうかがっているだけで良い」
そう答えたコルウィンの瞳は、愛する者に対する誇りで輝いていた。
治療用の天幕の周囲には、大地母神イシュリーンに仕える僧兵と、夢神エルキリュースに仕える巫女が配置されている。それは国王軍の陣地全てに言える事だが、弱った者と戦闘力を持たぬ女性の多いこの治療用の天幕は特に厳重だ。相手が人ではないとなれば、当然の配慮である。
自身の天幕へと戻ったコルウィンは、ライナスと入れ替わりに訪れた夢神の巫女頭と向かい合っていた。
簡易式の玉座に腰かけた瑰国の若き支配者は、重く堅苦しい鎧を脱ぎ、くつろいだ姿をしている。それと向き合う夢神の巫女頭は、簡素な法衣をまとい杖を手にして立っている。姿勢良く、真っ直ぐに国王を見つめる姿には、なるほど神殿一つをまとめ上げてきた威厳がうかがえる。
「陣内には各神殿から派遣されて来た僧兵と、エルキリュース神殿から連れて来た巫女達を配しました。今宵は安心してお休み下さい」
どうして自分の周りには、このように芯の強そうな女性ばかりが現れるのだろうかと、不思議な思いを抱きながら老いた巫女に声をかけた。
「眠りを保証して頂けるのは、戦いに疲れた兵士達にとって何よりありがたい。それは余も同じ思いだ」
自分の言葉に深々と頭を下げる夢長に、コルウィンは疑問を投げかけてみた。
「エルキリュース神殿の夢長殿。余は弟のトウージュから、夢魔なる人外のモノ達の存在を聞かされておったのだが。しかし昼間の戦闘を見る限りでは、そのようなモノ達は見受けられなかったように思う。トウージュの話を疑う訳ではないが、本当のところ、どうなのだ?」
国王の問いを聞き終わると夢長は軽く目を伏せ、吟味するようにして答え始めた。
「弟君の申された事は、全て真実にございます。この世界に仇なす邪神アーカバルの配下、人の夢を貪る魔物。人の眠りの中へ忍び込み、夢を侵蝕し、やがては生きるための精さえ奪い尽くします。そうやって人の裡から喰らい、その人間の抜け殻をまとってなりすます。人の姿はしていても、内側に巣食っているのは人外の存在なのです」
語り終えた夢長と、聞き終えたコルウィンの口からこぼれた深い深い嘆息が重なった。
「昼間の戦闘にバフォナ達の姿が見られなかったのは、相手もこちらの様子をうかがっていたのでございましょう。見た目は人と何も変わりありませぬ故、常人には見極める事が出来ませぬ」
「ならば、夢長殿。なぜ奴等は昼間の戦いにバフォナを投入してこなかったのだ? 今回の戦いにバフォナを使う気は、向こうにはないと言う事か?」
この問いこそが、コルウィンが今もっとも知りたい事である。国を率いる者として、傷付く人間を少しでも減らさなくてはならない。そのために必要不可欠なのは、敵陣の情報をどれだけ掴んでいるか、と言う事だ。敵情を正しく把握してこそ、有意義な戦略を立てる事が可能なのだ。
「使う気がなければ、そもそも、この戦に連れ出す意味がございますまい。明日の戦闘──いえ、今宵の闇の乗じてこちらの戦力を削ぎ、内部から切り崩そうと動き出すはず。それを防ぐための我等であり、布陣でございます」
夢長の返答に、コルウィンは目を見開いた。
「そのような奴等が、闇に乗じてやって来ると言うのか?」
「いかにも。夜の闇こそが、夢魔の衣。そこにエルキリュースのもたらす安寧と安息の眠りは、存在いたしません」
再び深く嘆息をもらし、片手で目を覆った。
「聞かねば良かったかも知れぬな。この事は、兵士には──?」
「兵達にはお知らせにならない方が、よろしいかと存じます。自分達の相手にしている者が、人でないと知れば士気が落ちましょう。夜の闇に魔物が潜むと知れば、いたずらに恐怖をあおる結果となりましょう。バフォナの相手はどうぞ、我等神殿関係者にお任せ下さいませ。そのためにこそ、わたくしがここにいるのでございます」
凛と言い放った夢長の顔は、若かりし日の美しさを面影として残している。今はか細く見える双肩には、どれだけの重責が負われているというのか。
「陛下はどうぞ現実の戦いをのみ、お考え下さいませ。それ以外の事柄については、わたくしが責任を持ってお引き受け致します」
「ああ、そのようだな。余に出来る事は何もなさそうだ。夢長殿にお任せするしかないな。結局のところ、余は戦場においても王宮においても、役には立たぬと言う訳か」
国王とは言え、所詮はこの程度のものだ。そう呟くコルウィンに夢長は優しいまなざしを注ぐ。
「陛下、それはわたくしも同じでございますよ。わたくしの行っている事は、我が愛娘の立ち向かわねばならぬ試練に比べれば、何程の事もございません。陛下の大切な弟君と、わたくしの大事な養い子のアイヒナとは、今この時も戦いの場に臨んでおります。それを思えば、わたくしに泣き言を言う甘えは許されぬ、とこの胸に刻んでおります」
「何と──トウージュと共にいる神殿の巫女は、夢長殿の娘御であったか」
「子を成す事を禁じられた我が身に、神が与えて下さった宝でございます」
コルウィンは誇らし気に微笑む夢長の姿を、眩しそうに見上げた。
「余と夢長殿は、不思議な縁で結ばれておるらしいな。我が弟と貴殿の娘御が手を携えて戦っておるのだ。余も夢長殿と力を合わせ、この戦を乗り越えてみせよう。夢長殿、余の兵達を頼む」
「御意つかまつりました」
頭を下げた夢長は、錫状を鳴らしながら大天幕を出て行った。彼女はこの後、夜中休む事なく敵襲に備えるのだろう。
「余にはとても、真似出来ぬな」
疲れたように目頭をもみながら、幾度目とも知れぬため息を吐く。
所詮は人知の及ばぬ『神の領域』の話。ならば自分に出来る事は、祈る事。そして余計な事を考えず、戦いに勝つ事。何度も何度も胸に刻み、幾度も幾度も決意する。
「まだまだ、余に覚悟が足りぬという事か」
微苦笑して独りごちると、天幕の外で控えていた小姓を呼ぶ。夜の闇の中での戦いを夢長達が受け持つのであれば、昼の陽の中での戦いはコルウィンの受け持ちである。
勝たねばならない戦いである。いくら体調の良い日が続くとは言え、油断は出来ない。つい先日まではベッドの上で一日の大半を過ごしていたコルウィンである。いつまた、病がぶり返さないとも限らない。万が一にも戦場で倒れるような事があれば、兵達の士気に大きく関わるだろう。そうならないためにも、良く食べ、良く眠らなくてはならない。将軍達との作戦会議に備え、小姓に軽い夜食を用意するように言いつけると、頭を切り替えていく。
自分の背に負われた責任の重さを、ひしひしと感じながら。
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大天幕を辞した夢長は、その足で王妃と公爵夫人のいる医療用の天幕へと赴く。
兵士として志願したものの、兵としての資質に欠ける者、戦場に出すには早過ぎる者、年を取り過ぎた者。近在の村々からやって来た女衆が出入し、アイナセリョースとイルネアを手伝っている。
王宮から持ち込んだ布を裂き、山程の包帯をこしらえては煮立った湯を張った鍋に放り込み、次々と消毒していく。
持てるだけ持って来た薬剤も無限ではない。足りない分を補うために、王妃と公爵夫人は村人の知恵を借りる事にしたのである。野や林にある草や木々の皮や実から薬効のあるものを探し出し、代用品などを用いて傷や打ち身を治療する方法は大いに役立った。
本来であれば口をきく事はおろか、その姿を目にする事さえ稀な、雲の上の存在である王族の二人が、自分達の言葉に耳を傾け知恵を重用してくれる。その事が人々を力付けた。自分達の住む国を、暮らしを、家族を守るのは自分なのだと、人々の顔は誇りに満ちている。
この誇りを、希望を守らねばならぬ。と、夢長メルベリッサは思う。命を守るだけではない。人は誇りを踏みにじられ、希望を失い、夢を失くした時、心が死ぬのだ。
背筋を伸ばし、周囲をうかがう。国王軍の陣内で、一番守りを厚くしなければならないのは、この治療用の天幕だ。多くの者が出入りし、多くのケガ人が運び込まれる。その中にバフォナの種を宿した者が紛れ込んでいないとも限らない。今、夢長である彼女の手許には夢を渡る夢幻鏡も、バフォナを狩るためのドラムーナもない。それでも、持てる力の全てを使って陣を守らねばならない。国王軍を内側から切り崩そうと送り込まれて来るバフォナを、見逃す訳にはいかないのだ。
陣地の中央近くに燃える篝火の下に立つと、夢長は手にした錫杖を力を込めて地に打ち付けた。杖に飾られた金環が触れ合い、涼やかな音を立てる。その音は波となって広がり、陣内に配された僧兵や巫女達の持つ神具によって共鳴、増幅を繰り返しながら、陣地全体を包み込む巨大な波へと成長する。
感覚の触手を伸ばし、それを確認した夢長は、両手を広げて神呪の詠唱を始めた。このまま一晩中、神殿の巫女達が交代で神呪を唱え続けるのだ。
夢長の口唇からこぼれる神呪は、陣地を包む波に乗り、力ある文字『神聖文字』となって結界をより強固な壁となる。