26章 聖邪まみえる・珠春宮
封印の玉座のある珠春宮・パーティルローサの謁見の間。
今その場所で、夢折りと邪神が対峙する。
世界の命運をかけた戦いを前に、アイヒナの胸に去来するものは?
天井の高い謁見の間は、音が良く響く。人の気配がなければ、なおさらである。柔らかな鹿のブーツでさえ足音を消す事は出来なかった。
「待ちかねたぞ、夢織りよ」
松明が揺れる影を落とす謁見の間。その正面に設えられた、豪奢な二つの玉座。
「一人でやって来るとは、さすがだの」
広間より一段高くなった玉座の足許、五段ある階に凝った闇が、室内に足を踏み入れた人物に声をかけた。捻じ曲がった喜びと望みと哂いを含んだ、滴る毒に触れられそうな声。
「その姿は、やめろと言ったはずだが。それに、お前は間違っている。私は一人ではないぞ」
大広間に入って来たのは、黒の法衣に身を包み、銀の髪を結い上げ、リュートを背負った黄金色の瞳の美女、夢織りのアイヒナだ。
「ああ、ドラムーナがいるのであったな。我とそなたの仲を引き裂こうとする、あの無粋の輩が」
階段に腰をかけ、立てた片膝に肘をついているのは、砂色の髪の美女だ。皮肉を含んだ笑みを浮かべ、邪な欲望に輝く瞳は赤。
何も答えずに立っているアイヒナの、その足許に落ちた影から黒い狼の巨体が踊り出た。
「貴様なんぞに、吾の大事な主殿を渡すわけにはいかんのでな」
瞬時に狼の姿から人の姿に変じた闇姫は、主人を守るように立つと、砂色の髪の美女に向かって毒づいた。
「貴様こそ、こんな所にいていいのか? ノーヴィアの軍勢はどうした?」
カーティの姿をした邪なる神は、口唇の端をクッと持ち上げる。まるで歌うように愉しげに語る。
「哀れ、王冠を戴かんとする愚か者は、戦場の原で踊る踊る。真実、己が王たる器であると思っておるのかのぅ、あの男は」
「それを唆したのはお前であろうが、アーカバル」
闇姫を従え、モザイク模様が描かれた大理石の床に歩を進めるアイヒナの影が、松明に照らされた広間に複雑に揺れた。
「お前がノーヴィアを焚きつけなければ、無駄な戦は起きなかったものを。戦場で側につき、ノーヴィアを操らなくても良いのか? 瑰の国王軍が勝利するような事になれば、せっかくのお前の企てが水の泡になるのだぞ。こんな所で私と話なぞしていていいのか?」
階段に座ったまま、カーティ=アーカバルは作った表情で嘆いて見せた。
「何と。それ程、我を邪険にせずとも良いではないか、想い人よ」
「言うな、痴れ者め。主殿の耳が穢れるわ」
鋭い牙をむき出して、主人と邪神の間に割って入った闇姫が吠える。
「まこと、無粋な奴よな、この初源の獣と言う輩は。我と想い人との、久々の逢瀬を邪魔するでないわ」
やれやれと首を振るアーカバルに、闇姫は憎々しげに唇を歪めて吐き捨てた。
「何が逢瀬じゃ。そこいらの物陰にバフォナ達を潜ませておるくせに。どれだけ巧みに隠れたとて、夢魔を喰らう吾の鼻を欺く事など出来はせぬぞ」
闇姫の言葉が終るか終らぬうち、柱の影から、扉の影から、ぞろぞろと夢魔の気配が湧いて出る。
「こんなに連れてきおって。私も買いかぶられたものだな。しかし、これ程の手勢を連れて来ては、オーガスベルが手薄になるのではないか」
視線だけを動かして、バフォナの様子をうかがいながらアーカバルに問いかける。相変わらず同じ姿勢で頬杖をつきながら、面白くもなさそうに砂色の髪の美女は質問に答えた。
「心配せずとも良いわ。あちらは、イーギムに任せてあるのでな」
「手下に任せっきりでいいのか? 余裕だな」
「ふふ。ノーヴィアが勝たずとも良いのよ。瑰国国王の首が取れれば、それで良いのじゃ。本当は王弟ともども戦場に送ってやれれば、手間が省けたのだがな。まあ、そう何もかも思うようにはいかぬと言うことかの。国王の命さえ奪えれば、他は我が何とでも出来る」
ゆっくりと立ち上がり、優雅な手付きでローブのヒダを整えた。
「それに。放っておいても、あの男はここへやって来るだろうしの」
「何もかも、お前の考えの内と言う事か? 大した自信だが、果たしてそう上手く事が運ぶかな」
ジリジリと間隔を詰めてくるバフォナ達を視界の端に収め、集中を高めながらアイヒナは挑戦的に言葉を投げ付ける。
「トウージュ殿とて、何も知らぬ訳ではない。国王と自分の命にどのような重みがあるのか、それを知って尚、この場にやって来るとは思えぬが」
だが、その言葉を一番信用していないのは、口にしたアイヒナ自身と闇姫だ。アイヒナの持ちうる瑰国王家の情報から考えれば、国王コルウィンがトウージュをパーティルローサに残して行く事は、充分に考えられる。そしてトウージュの性格を思えば、封印の玉座を守るためにここへ戻って来る可能性は大きいだろう。
「あの男は、やって来るよ。確かにあの男は、何も知らぬ訳ではない。それ故に、少し考えれば分かるはずだ。我とそなたの決戦の場が、封印の玉座の存在する、ここ、謁見の間である事がな。ならば、あの男は必ず来ようよ。そなたがここにいる限り、必ずな」
美しく結い上げた髪からこぼれる後れ毛を指に巻き付けて弄いながら、艶然と微笑んで見せる。その仕種に、アイヒナは眉間にシワを寄せた。
「いい加減に、その姿はよせ。今さら姿を偽る必要もあるまい」
「まあ、そう言うな。我はこの姿が気に入っているのでな」
「御主様、もうよろしいですか? これ以上、話す必要はないでしょう」
アイヒナの背後に位置し、不自然に背中を丸めた姿の男が舌なめずりをしながらアーカバルに懇願した。
「同感じゃな。ここへは、話し合うために来た訳ではない。ならば、早くケリをつけてしまった方が、主殿にも都合が良かろう」
闇姫も姿勢を低く構えながら、獲物を狙う獣の眼光でアイヒナに訴えた。その言葉に、少しだけアイヒナの表情が動いた。彼女としても自分とアーカバルが戦っている最中に、トウージュが飛び込んでくるのだけは避けたい。
「ああ、もう我慢がなりませぬ!」
長い髪を振り乱し、牙をガチガチと鳴らしながら喚いた女が、大量のヨダレを撒き散らして二人に飛び掛った。
「よもや、吾に勝てるなどとは、思うておるまいな!」
黒髪を打ち振ると、瞬時に姿を獣へと変じた闇姫が迎え撃つ。それを合図に、広間にいる者達が臨戦体勢に入った。
「やれやれ。結局は、こうなるのだな」
いかにも残念だという顔を作り、アーカバルは物憂げに手を振った。途端に、夢魔の群が襲い掛かる。
「ゆめゆめ、巫女殿を傷付けるでないぞ。我の大切な想い人ゆえ」
けだるく発せられたアーカバルの言葉に、素早く印を切りながらアイヒナが答えた。
「勝手に自分だけで決めるな。私は承諾した覚えはないぞ」
銀色の長髪が、火神ネフティの神色を宿して赤く輝く。両手の平に火球を生み出し、飛び掛ってきたバフォナの顔面に叩き込む。そのまま身をひるがえし、背後から伸びてきた粘液にまみれた長い舌を掴む。炎をまとった手で滑る舌を握り締め、一気にそれを引き抜く。
「ギグアァァァァ──!!」
口許を押さえて、バフォナがのた打ち回る。すでに数体のバフォナを屠っていた闇姫が、すかさず相手の喉笛に喰らい付く。耳障りな悲鳴が唐突に消え、後に残ったのは夢魔の抜け去った人の体。だが既に、命の灯火はそこにはない。バフォナとの融合が深く進み過ぎたがゆえに、死をもってしか開放されなかった者達である。
「哀れな者共よ。限りある命の刻を生きる身でありながら、なぜにこうまで争い、短い命を散らせようとするのか」
愁いに満ちた表情で、悲しげに語るアーカバル。姿と言葉だけを見れば、争いを目の前にして悲しみと苦悩に苛まれる聖者のようにすら思えるかもしれない。
「お前が、それを言うのか? 人々の眠りを奪い、人々の間に不安を撒き散らし、互いに争わせておきながら、お前がそれを言うのかっ!?」
風神バルメッサの白に輝く髪を逆立て、アイヒナは風刃を邪神へ放った。圧縮された空気の刃は、巫女の怒りを乗せてアーカバルへと迫る。だが相手の体に触れる直前、アーカバルとアイヒナの間に割って入ったバフォナによって阻まれる。
「御主様っ!」
風の刃はアーカバルではなく、主人をかばったバフォナの体を引き裂いた。自分の盾となって倒れたバフォナを、赤く光る縦長の瞳で無感動に見下ろし、冷淡に語る。
「バフォナは我の分身。そして我が下僕。我の身より分たれ、我に従う者。分たれたがゆえに、我と一つになろうと願い、我を求める。我を討とうと思うのであれば、まずは、これらの者達を倒さなくてはな。我に危険が及ぼうとすれば、バフォナ達は無条件に体を差し出し、我を守るぞ」
それらの言葉に、アイヒナはギリギリと歯ぎしりをする。
「我を倒す前に、どれだけの屍の山を築けば良いのじゃ?」
黄金色の巫女の瞳に、怒りの炎が燃え上った。
人の裡にとり憑いたバフォナの根は深い。夢を介して人の裡へと根を下ろしたバフォナは、その心へと根を伸ばし、最後には魂そのものを絡め取る。そうなってしまうと、人とバフォナの縁を断ち切るドラムーナの剣をもってしても助ける事は不可能だ。身の裡にあるバフォナを排した瞬間に、器である人の命も消えてしまう。それは夢魔から人を守る立場のアイヒナにとって、耐え難い屈辱的な事であるとアーカバルは知っているのだ。
アーカバルの言う通り、バフォナ達は無条件に主人を守ろうとするだろう。アイヒナが相手を倒すためには、多くのバフォナを討たなくてはならない。それはつまり、器となっている人間達の死を意味するのだ。
「アーカバル──貴様──!」
「主殿! 敵の挑発に乗るでない! 頭に血が昇っていては、まともな判断が出来なくなるぞ」
闇姫が主人を諌めようとするが、そんなドラムーナの思いを嘲笑うかのように、アーカバルが言葉を続ける。
「いかに神力を自在に操る『夢織り《エルーシャ》』と言えど、これらの者共を救う事は出来ぬと見える」
口角を吊り上げて哂うアーカバルに向かって、長い髪をシャーリハーンの蒼色の染めたアイヒナが向かって行く。手に構えた天空神の槍が、夢織りの怒気を帯びて凶悪な輝きを放つ。
「駄目じゃ、主殿!」
闇姫の制止の声を振り切り、かざした槍をアーカバル目がけて突き出した。だが怒りに満ちた一撃は、邪神が向けた掌に拒まれる。正しくは、アーカバルの掌から放たれた力の壁によって。槍の穂先は宙に留められたまま、その体に触れる事すら出来ないでいるのだ。
「怒りに支配され、気脈の整わぬ様では、我に指一本触れる事など出来はせぬぞ。曲がりなりにも、我は神。どれだけ神力を授けらりょうとも、人の身であるそなたが敵うものではない」
アーカバルの手がかぎ爪のように曲げられると、アイヒナの握る天空神の槍が見えない力に軋みを上げる。
「だ──まれ──」
歯を食いしばり、搾り出すようにして言葉を押し出す。
「そなたがいくら命を張ったところで、我の完全なる復活は止められぬ。諦めて、大人しく我のものとなるが良い。永久永遠に美麗なる夢に遊ばせてやるゆえ」
アーカバルの赤い眼が、三日月形に細められた。その手が握り締められる。と、済んだ音を立てて天空神シャーリハーンの槍は砕け散った。衝撃が伝わったものか、アイヒナの繊手から赤い飛沫が散る。
「主殿!」
闇姫は強暴な唸り声をあげると、主人の危機を救いに行こうとする。しかし、周囲に群がるバフォナ達に阻まれてアイヒナの元に辿り着く事が出来ずにいた。
「主殿っ!!」
闇姫の目の前で、アーカバルからの衝撃波を受けたアイヒナの体が宙を舞った。柱に叩き付けられたアイヒナは、痛みで呼吸もままならない。空気を吐き出し切ってしまった肺は、喘ぐだけで、なかなか上手く機能してくれないでいた。
「ふふ。夢織りと言い、ドラムーナと言うが、実情はこのようなものよ。我とそなたの間に、これ程までに決定的な差があろうとはの。それでよくも、これまで我に歯向かって来たと言うべきか」
大理石の床の上で背中を丸めて咳込んでいるアイヒナに近寄ると、乱れた彼女の髪を掴んで引き上げる。苦しげに顔を歪めて喉を反らせるアイヒナを、愉しそうに見下ろして猫なで声で邪神は語る。
「これだけ彼我の力の差を見せつけられれば、そなたの心も揺れよう。いかに傷付き、いかに苦しもうと、そなたの神がそなたを救ってくれる事はない。そなた一人を戦わせておきながら、エルキリュースはただ眠っておるだけよ」
もがくアイヒナの背中を踏み付け、仰け反る広い喉に指を這わせて、彼女の心の強さを砕くようにアーカバルの毒に満ちた言葉は流れ込む。
「そなた一人がどれ程頑張ったとて、この状態は変えられまいよ。我は復活する。瑰国王は倒れ、王弟も命を落とすだろう。そなたは我のものとなり、世界もまた我が物となるのだからな」
「だ……ま……れ──」
無理な体勢からでは、ひと言を発するのにさえ多大な労力を必要とした。必死になって腕を動かし、神力を呼び込もうとする。神呪が唱えられずとも、印さえ組めれば何とかなるはずだ。
肺が痛い。喉が熱い。耳元で鳴る脈がうるさい。酸素を求めて、心臓が早鐘のように胸を叩く。酸欠によって、目の前が暗くなっていく。相手の隙をついて、印を組む事さえ出来れば──。
だが、アイヒナが手を動かした瞬間。
「が……っ、はあぁぁぁぁぁぁ──!」
夢織りの口唇から、声にならない、かすれた悲鳴があがる。
「神を依らそうと言うのか。見上げた根性だの」
舌なめずりをせんばかりの、アーカバルの声が降ってくる。
アイヒナの手は、邪神の爪により床に縫い止められている。夢神の巫女の喉に触れていたアーカバルの指の爪が、鋭い刃となって彼女の手の甲を貫いているのだ。爪が引き抜かれると同時に、傷からあふれ出した鮮血がアラバスターにも似たアイヒナの白い肌を朱に染めていく。
「さすがは、神に愛でられし者よ。これ程までに美味なる血を、我は他に知らぬ。ますます、そなたが欲しゅうなったわ」
己の手を掲げると、そこにある夢織りの血を舐め取り、悦に入った様子のアーカバル。
「傷付いたその手では、神を依らせるための印を結ぶは、もはや無理であろ。無駄に抗わず、諦めて我の物になるが良い。そなたは我が想いを受け入れると言うのならば、そなたの願いを聞き入れてやろう。瑰国王の命は無理だが、王弟の命は見逃してやっても良いぞ」
痛みと酸欠で意識が混乱する。目蓋が落ちそうだ。視界の隅で、戦っている闇姫が何かを叫んでいる。ああ、耳の中で脈打つ鼓動がうるさくて、何を言っているのか聞こえない。なのになぜ、アーカバルの声は耳に入るのだろう。まるで、魂に刻まれるかのようだ。
「さあ、我が想いを受け入れよ、エルーシャ。そなたを認めぬ者共を、命をかけてまで守ってやる必要がどこにある? もう、楽になっても良いのではないか?」
やめてくれ。私は決めたんだ。戦い抜くと、私の大切な人達の生きる未来を守るために、私自身が決めたのだ。邪神の言葉などに、惑わされる訳にはいかないんだ。
「王弟トウージュの命を救いたくはないのか? そなたさえ首を縦に振れば、我は必ず約定を守るぞ」
嘘だ。王家の血が残っていては、玉座の封印は解けない。アーカバルがトウージュを見逃すはずなど、ないのだ。騙されてはいけない。この言葉を聞いてはいけない。それでも、心が揺れてしまうのを止められない。
「ト──ウジュ……を……?」
「そうだ。あの男の命を救いたいだろう?」
抗うアイヒナの思いとは裏腹に、酸欠状態の彼女の脳にアーカバルの言葉はまるで催眠術のように染み込んで行く。彼女を引き止めているのは、皮肉な事に邪神に傷付けられた手の痛みだ。
主人であるアイヒナの気力や意志が衰えれば、闇姫の力も削がれて行く。徐々に重くなっていく体を抱え、勢いを増すかに見えるバフォナの群に牙を剥き、闇姫は懸命にアイヒナに呼びかける。
「主殿! しっかりせよ、目を覚まさぬか! 奴の言葉に耳を貸しては、ならぬ!」
「はっはあ! 無駄、無駄、無駄ぁ! お前の声なんざ、もう、あの夢織りにゃあ届かねえよ」
「あのエルーシャは、御主様のものになるんだ」
「間もなく御主様は、完全復活なさる。そうなれば世界は、全て御主様のものよ。さすれば、最早誰にも邪魔する事は出来はせぬ」
「神である御主様に抗うなど、人である身に敵うはずもないわ」
群がる夢魔達は、鋭さの鈍った闇姫の牙と爪をかわしながら、嘲笑を投げ付ける。
「やかましいっ! アーカバルを倒すためだけに、主殿は全てを捨てて来たのじゃ! 己を奪われ、夢見る事を諦め、邪神を打つこの日のために、あらゆるものを手放して来たのじゃ! ここで倒れる訳にはいかぬ。それでは、主殿の生きて来た全てが、無に等しくなってしまうではないか! 聞いておるのか、主殿!」
渾身の願いを乗せた闇姫の叫びは、果たして主人に届いたのか?
アーカバルに喉を圧迫され、かすれ行く意識を手放す直前。どんよりと曇った瞳に、色を失くした目蓋が落ち切る寸前。闇姫の声さえ聞こえていなかったはずのアイヒナの耳に、飛び込んで来た一つの声。
「──!」
ドクンッ、と心臓が脈打つ。苦しみにもだえる鼓動ではない。冷え切った体に、温かなモノを送り出すための鼓動だ。
「──ナァ……」
床についた傷付いた手に、廊下を駆けて来る足音が伝わる。それは、どんどん彼女の方へ近づいて来る。
「アイヒナー!」
私は──私は決めたんだ。私を信じてくれる人達のために戦うと。あの人に恥じない歩き方をしようと。ならば、こんな所で倒れている訳には、いかない。
「──トウ……ジュ……」
切れ切れの息が喉を震わせ、かすかな吐息にも似た呟きが、アイヒナの唇から零れ落ちた。神から与えられた命綱のように、アイヒナはその名前にしがみ付いた。
ちょっとクセのある金色の髪は、日に焼けた肌に良く似合う。大きく、温かな手。穏やかで、真面目で誠実な人柄の伺える口調。いつも自分を見つめてくれていた、深い深い緑の瞳──。
私は決めたんだ。自分の大切な人を守ると。一番大切な、あの人を守ると!
生気をなくし濁っていたアイヒナの瞳に、炎が宿った。と同時に、アイヒナの体が光を放つ。胸に彫られた刺青が、目を灼く程の眩い輝きを放っているのだ。
神聖文字の刺青から放たれた五色の彩光が収まると、闇姫に群がっていたバフォナ達は皆、糸の切れた操り人形のように崩おれていた。
「アイヒナ!」
抱き上げられる手の温かさ、腕の力強さ。ゆっくりと目を開けば、額にかかるクセのある柔らかな金髪。心配そうに自分を見つめる深い緑。愛しいその色を、アイヒナはこの世で一番綺麗だと思った。自分を支えてくれている人物の名前を呼ぼうとして、急激に流れ込んで来た空気に激しく咳込んだ。
「お、おい、大丈夫か?」
驚いた顔で背中をさすってくれる相手の名前を、アイヒナは涙のにじむ目をこすりながら口にした。
「トウージュ……」
自分とアーカバルの決戦に巻き込んでしまったと言う、罪悪感。そして、それを大きく上回る幸福感と安堵感。
「主殿っ!」
トウージュを突き飛ばし、人型に変じた闇姫が顔を出す。
「大事無いか、主殿? ハラハラしたぞ」
「ああ、済まない。バフォナ達は?」
「大丈夫じゃ。バフォナの種は喰ろうておいた。主殿のお陰よ」
「いや、私の力ではない。トウージュ殿が、私をこちらに呼び戻してくれたからこそだ」
主のその言葉に、少しだけ闇姫の表情が揺らいだ。
「それよりも、アーカバルはどこだ?」
肘を突いて上体を起こしたアイヒナにつられて、二人も周囲を見回す。
アーカバルは──いた。アイヒナが最初にここへ来た時と同じ場所、玉座へと続く階段の下で、顔を押さえてうずくまっている。
「お……のれ、貴様等。よくも──」
くぐもった声が発せられ、幽鬼のようにアーカバルが立ち上がる。美しく結われていた砂色の髪は、聖光に弾き飛ばされた衝撃で解け、おどろに乱れている。
「茶番は終いじゃ。ようも、神である我の顔に傷を付けてくれたな。三人とも、ただでは済まさぬ」
そう宣言したアーカバルの顔は、半分が醜く焼け爛れていた。