24章 珠春宮の攻防・それぞれの真実
兄王コルウィンの留守中、王都・珠春宮の警護を任じられたトウージュ。
そして時を同じくして、ウィルカの街に火の手が上がる。
民との衝突に退路を断たれたトウージュの前に、懐かしい人物が現れた。
主のいない謁見の間は、ガランとして寒々しかった。階の下から二つの玉座を見上げ、トウージュは戦場にある兄コルウィンを思った。
「こんなに、広かったけかな……」
呟いた言葉さえ、虚ろに響く。
いつも兄の背中を追いかけて来た。異母弟でありながら、自分を実の弟のように可愛がってくれたコルウィン。兄が国を継いだ暁には、自分が兄の耳目となり、手足となり、剣となり盾となって瑰国を盛り立てて行くのだと、幼い頃から心に決めていた。
『君がトウージュ・ラムナだね。よろしく、トウージュ。僕はコルウィン・イルス。君の兄だよ』
母が身罷り、父である前国王の正妃に引き取られたトウージュは、王太子であるコルウィンとの初めての出会いに緊張していた。そんな幼いトウージュに、コルウィンは太陽のように微笑んだ。
『ようこそ、トウージュ。僕はずっと、弟が欲しかったんだ。仲良くしようね』
そう言って、瑰国の王太子は異母弟の両手を握り締めた。その瞬間に、心細さに震えていた小さな王子の心を救い上げた事も知らずに。あの日から、トウージュの気持ちに変わりはない。それが兄のためになり、瑰のためになる事であれば、トウージュは迷わず命をかけるだろう。戦場で兄の盾になる事も厭わない程に。しかし、それは許されなかった。どうして兄が、自分を珠春宮に残したのか。告げられた理由だけではない事に、トウージュは薄々気が付いていた。城を守る以上に、兄は国を、そして弟を守りたいのだと。
コルウィンは、この戦いで命を落とす事も覚悟している。たとえ戦場で倒れずとも、生来病弱なコルウィンの事。慣れない行軍や戦闘によって、命を縮める可能性は大きい。だからこそ、コルウィンはトウージュを城へ残したのだ。国を支える者が、二人とも倒れる事のないように。自分に何かあっても、弟が国を継いでくれる事を信じて。
「トウージュ殿下。ウィルカで何やら動きがあるようです」
物思いに沈んでいたトウージュの背中に、兵士が報告した。彼はゆっくりと瞬きをすると、手にしていた剣を握り直した。
「よし、様子を見てみよう」
謁見の間を出て城牆へ向かう。高みから見下ろす王都の街並みは作り物じみていて、そこに暮らす人々の息吹きが感じられない。彼がこれまで自分の足で歩き、自分の目で見、自分の手で触れて、自分の心で感じてきたはずの街が、まるで別の場所のようだ。もしもトウージュが国を継ぎ、為政者として同じ場所に立った時、街を見て何を思うのだろう。そして、何を思わなくなるのだろう。
(つくづく、国を治める立場には向かない人間だな、俺は)
胸の中で苦笑しながら呟くトウージュを、側に従う兵士が促した。その声に視線を転じて見れば、ウィルカの街のそちこちから不吉な煙が上がっている。
「すぐに一団を出して消火にあたらせよ。出来るだけ、街の人間との衝突は避けるように」
「はっ! かしこまりました」
兵士はトウージュに敬礼すると、駆け足で城牆を降りて行った。
「さて……。俺もここからが正念場だな」
この国の別の場所で戦っている、彼が大切に思っている相手がいる。彼らもまた、トウージュの事を思っていてくれているのだろう。ならば自分は、彼らの期待を裏切る訳にはいかない。
「馬を用意せよ! 俺も出る」
城内にトウージュの声が響き渡った。
**
ウィルカの街は、トウージュがアイヒナ達と一緒に訪れた時からは考えられない程、短期間のうちに荒れていた。
『ターニア』という自分達の指導者を失った事で、人々の心は急速に安定を欠きつつあった。そんな心の隙に入り込み、不安を更に煽っていったのはもちろん夢魔達だ。ターニア亡き後も人々の間に紛れ、サマル・ビュイクの動きに合わせて活動を始めたのだ。
膨れ上がった市民達の不安・不満は、目の前にある王家を象徴するものへと向かった。すなわち、王立の治療院である。ウィルカに数ヶ所ある治療院は、怒りに支配された人々の格好の標的となり、焼き討ちをかけられていた。治療院に詰めていた医師や薬師、神殿から派遣されていた者達は、アイナセリョースとイルネアの判断により安全な場所に移されている。入院していた患者達も然りだ。
だが人がおらず閉じられているとは言え、つけられた火をそのままにしておく訳にはいかない。周囲に燃え広がれば、風向きによってはウィルカ全地区が炎に包まれてしまう。否、運が悪ければウィルカのみならず、王都全域に燃え移る可能性もあるのだ。
トウージュは兵士達を分散させると、治療院の消火にあたらせた。戦術的には各員を分散させるのは間違いだ。しかし今は火を鎮めるのが先だ。
「まさか、これを見越して騒ぎを起こしたのか──?」
ウィルカで騒ぎを起こせば、珠春宮の警備を削ってでもそれを収拾するためにトウージュは兵を出さざるを得ない。敵にしてみれば、騒ぎが大きければ大きい程、目的を達し易くなるのだ。それを狙っているのだとすれば、バフォナ達の目論みは見事に当った事になる。
「ちくしょう……。奴等の方が上手ってか」
苦々しく吐き出された言葉の先で、必死に火を食い止めようとしている兵士達と、手に石や棒を持った人々の衝突が繰り広げられている。
オーガスベルに行かず城に残った兵達の中には、ウィルカ出身の者もいる。いかにトウージュの命令とは言え、親兄弟や友人・知人に向かって行かなくてはならないその心中は、かなり複雑なものだろう。
口々に怒声を挙げながら詰め寄ってくる街の住人を、押し留める為に盾を掲げた兵士達の顔が苦しそうに歪んでいた。
「ターニア様を殺したくせに! 人殺し!」
一つの罵声と共に投じられた、拳大の石がトウージュの肩を打った。
「殿下!」
「トウージュ殿下!」
肩を押さえたトウージュの姿に、幾人かの兵士が剣の柄に手をかけた。
「ならん! 抜刀は許さん!」
その様子に、瑰の王弟は声を挙げた。
「しかし!」
「駄目だ。剣を抜けば、誰かを傷つけてしまう。ここにいる者達の大半は、何も知らず踊らされているだけなんだ」
周囲を見回し、火が鎮まっている事を確認すると、トウージュは決断した。
「このまま撤退する。街の者達を不要に刺激せぬように、出来るだけ静かに退くんだ。お前達も、自分の見知った顔とやり合いたくはないだろう」
兵士達は盾を掲げ、トウージュの周囲を固めながらジリジリと撤退を始める。住人達の怒声罵声を浴びながら、ゆっくりと広場の方へと退いて行く。
街の数ヶ所に散っていた兵達も合流して来たが、トウージュは絶対に剣を抜く事を許さなかった。
「抜刀するな! 盾で押し戻し、防ぐだけにするんだ」
投げ付けられる石や棒切れ、野菜屑などが頭上に降り注ぐ。
「俺達が病気におびえて苦しんでいた時、何もしてくれなかったくせに!」
「あたしの家族を返してよ!」
「お前達は、何もしてくれなかったじゃないか!」
「そうよ! 私達を助けてくれたのは、カーティ様とソキア様、そしてその後を継いだターニア様だった。あんた達は安全な所で、ただ見てただけじゃないの!」
浴びせかけられる言葉の数々に、トウージュは返す言葉を持たない。なぜなら、それらの言葉はある意味、正しいからだ。自分は、ただ手をこまねいていた訳ではない。彼なりに病を鎮めようと、原因を探し回った。だがしかし、それを言ったところで群衆の怒りは収まるまい。
「どうして、ターニア様を殺した!?」
「自分達よりも、ターニア様の人望が篤いのが妬ましかったんだろうがっ!」
こんな時、トウージュは思い知らされる。いくら市井に紛れてみせても、所詮は王族。民とは住む世界が違うのだ、という事に。
「お前達が殺したんだ! この人殺しめ! 死んでいった者達に、お前の命で詫びてみろっ!」
掲げられた盾の列を抜け、鋭く尖った石が彼のこめかみを襲った。鈍い衝撃と痛み、そして肌を伝わる生温かい感触。
「っつ!」
思わず膝を折り、傷を押さえる。
「殿下!」
「トウージュ様!」
兵士達が色めき立つ。険しい顔をして柄にかけた手に力を込めた。
「だ、駄目だ……やめ──」
くらくらする頭を振って、制止の声を挙げようとした瞬間──。
「おめーら、いい加減にしろよっ!!」
甲高い声と同時に、群衆の一部に背後から水がブチまけられた。虚を衝かれた形の市民達は、呆然とした顔で背後を振り返った。
「いい歳した大人が、みっともないと思わねえのかよ!」
そこに立っていたのは、水を滴らせた桶を手にした初老の夫婦。強張った顔をした数人の者達。そして、頬を紅潮させたウェイン少年。
「……ウェイン……?」
一瞬、傷の痛みも忘れて、トウージュはぼんやりと呟いた。
「この、クソガキ!」
「お前がやったのか、この野郎」
「何て事しやがるんだ!」
口々に罵る声が、広場に満ちる。
「うるせーっ! 何も知らねーで利用されてるくせに、偉そうな事言ってんじゃねー!」
変声期を迎えていない少年独特の高く澄んだ声は、周囲の大人達の声を押し退けて響いた。
「子供が生意気に、大人の事に首を突っ込むんじゃないよ」
「何も知らないんだから、子供はすっこんでおいで」
だが、浴びせかけられる怒声の中、ウェインはすっくと立っている。そんな少年の姿に、群衆の方がひるんでいるような印象を受ける。
「子供、子供、子供。子供だからって、馬鹿にすんなよ。大人には見えてないものが、子供には見えてる事だってあるんだ!」
臆する事無く投げ返される少年の言葉に、大人達は気圧されたように互いの顔を見合わせた。振り上げられた拳が迷うように揺れ、力をなくして降ろされる。
「皆、間違えてるんだ。本当に悪いのは誰か、何も知らされないまま、ただ利用されているだけなんだ」
ウェインの瞳は揺るがない。それは、自分の目で真実を見た者の強さ。耐え難い痛みを、自分の足で乗り越えて来た者のしなやかさ。
「誰だ? 俺達が誰に利用されているって言うんだ?」
男が一人、ウェインの前に進み出た。
「カーティとかって言う薬師の女に、ノーヴィアとか言う貴族に、そして、ターニアとか言う領主面した女にさ」
真っ直ぐに突き刺さる少年の言葉。
「なっ! 何て事を言いやがる、このガキ」
「よりにもよって、カーティ様とターニア様を疑うなんて!」
驚愕と怒りの声が飛び交う。
「カーティ様は、眠り病にかかった人を助けてくれた、大恩人だぞ」
「ターニア様だって、親を失くした子供達を引き取って、面倒を見てくれてたんだぞ」
「あんまりいい加減な事ばっかり言いやがると、子供だからって容赦しねえぞ」
このままでは、ウェインに危害が及ぶかも知れない。何とかしなくてはと思うのだが、頭に血が昇っている群衆が相手では、うかつに動けば火に油を注ぐ結果になりかねない。
「じゃあ、その子達は今、どこにいるんだよ? 親を失くしたんだろ? 誰かが引き取ったのかよ?」
「それは、ノーヴィア公爵様が……。ターニア様がお亡くなりになって、不憫だとご自分の領内にお引取に──」
「カーティに治療してもらった人は、どうしたんだよ?」
「それも……。働き口を世話してやるからって、公爵様が……」
「へえー、それも公爵様かよ。で、その肝心の公爵様は、今、何してんだよ?」
強い光を宿したウェインの視線に、幾人かは逃げるように目を逸らす。
「で、世話してもらった働き口って何だよ? 王様を殺して、この国に戦争を起こす事かよ? 大した仕事だな」
居並ぶ大人達の顔を、ウェインは順にながめて言葉を続けた。
「おいらの姉ちゃんも、眠り病だった。姉ちゃんの病気を治してもらいたくて、父ちゃんと一緒に領主様の所へ連れてった。けど、姉ちゃんは助からなかった。父ちゃんも死んじまった」
救えずに目の前で消えていった、二つの命。ウェインの言葉に、あの時の情景が脳裏に甦る。結局は、誰も救えていないのかも知れない。そう思うと、トウージュの胸は重く塞がれる。
「ほれ、見ろ。こいつらが何もしてこなかったから、お前の家族だって犠牲になったんじゃねえか」
誰かがトウージュを指差し叫ぶ。
「おいらの姉ちゃんと父ちゃんを殺したのは、その兄ちゃんじゃねえ。姉ちゃんは、カーティに殺された。父ちゃんもそうだ。領主様ん所に行って、確かに病気は治ったよ。けど、元気になった姉ちゃんは、もう元の姉ちゃんじゃなかった。父ちゃんもおかしくなってた」
あの二人の異形の姿。息子であり、弟であるウェインに対して、二人だったモノはかけらの情けも示さなかった。
「おいらが気付いた時には、二人とも、人間じゃなくなってた──」
そう言って少年は、切なそうにうつむいた。
「──ウェイン」
トウージュには、彼にかけてやる言葉が見つからない。
「な、何を言ってんだ。人間じゃなくなってたなんて──」
「そうだ、そうだ。そ、そんな話、でたらめに決まってる」
幾人かが手を伸ばし、ウェインに掴みかかろうとした時……広場の石畳に鈍い音が響いた。そちらに気を取られた者達が目をやれば、視線の先を使い古された空の桶が石畳の上を転がって行く。
「その子の言っている事は、ウソじゃねえ」
静かに言葉を発したのは、先程から桶を抱えて立っていた初老の男性だ。その手に、今はもう桶はない。力任せに足許に叩き付けたからだ。
「デタラメだったら……。ウソだったら、どんなに良かったか──」
震える声は初老の女性のものだ。目尻に刻まれたシワに、涙がにじんでいる。
「あたし達の息子はねえ。眠り病が治った途端、別人になっちまったよ。暴言を吐くようになり、あたしに向かって手を挙げるようになった。あたしを殴って言う事を聞かせ、気味の悪い、変なモノを飲ませようとした。あたしが嫌がって暴れたら──」
声が途切れ、後は言葉にならなかった。力を失くした手から桶が滑り落ち、女性の足許で空虚な音を立てた。わななく両手で顔を覆い、その指の隙間から切れ切れの嗚咽が聞こえてくる。
「──仕事から帰った俺が見たのは、床に倒れた女房と、変わり果てた息子の姿だ。せがれは、もう人の形をしていなかった。そして──女房を殺そうとしていたんだ」
むせび泣く妻の傍らに寄り添い、細い肩にそっと手を置いた。
「俺は女房を助け起こして、必死で家から逃げた。あいつに何が起きたのか、そんな事を考えている余裕はなかったよ。ただ、その場から逃げる事しか思い浮かばなかった。俺達は家に戻った時には息子の姿はどこにもなく、それっきりだ。何がどうなったのかを知りたくて、俺と女房は息子を探したよ。自分の目で見たモノを信じたくない。そんな気持ちもあった。ようやく探し出した息子は、公爵様ん所で武器を運ぶ手伝いをしておったよ。国王様を殺し、城へ攻め込むための武器をな」
溢れ出る涙を隠すためだろうか。目許を手で覆った男性は、かすれた声を絞り出した。
「もしも息子が人間じゃなくなり、戦に加担しているんだとしたら。俺達は、あいつを止めなきゃならねえ」
男性の話しを聞いていた群衆の顔から、何かが拭い去られて行った。
「ここにいるのは、俺達と同じように家族の誰かを奪われた連中だ。病気にじゃねえ。ウソと偽りの善意によってだ。俺達は国王様と一緒に戦う。奪われた家族を取り戻し、仇を取るためにな」
男性の長い語りが終わった。今や、群衆とウェイン達の立場は、完全に逆転していた。
「さあ、どっちを信じるんだよ? おいら達の話を信じるのか。それとも、得体の知れない連中を信じて、国王様を裏切るのか。どっちを選ぶんだよ!」